律がふいに言う。
「水瀬、今日ちょっと変」
私は足元を見る。
「そうかな」
「なんか」
そこで律は少し考える。
「やさしい」
私は思わず顔を上げる。
「いつもより」
その言い方に、胸が少し痛くなる。
いつもだって、そうしたかった。
でも今日は、たぶん少し違った。
何かを確かめるみたいに見ている自分がいるのを、
私自身がいちばん分かっていたからだ。
「……前からだよ」
なんとかそう言うと、
律は「そっか」とだけ返した。
その「そっか」が、
ひどくやさしくて困る。
少し歩いたあと、
私は自分から言う。
「寒くない」
「寒い」
律が即答して、少しだけ笑う。
私はマフラーを外す。
「貸す」
「いいよ」
「いいから」
私は半分むりやりみたいに、
律の首元にマフラーを巻く。
律が少しだけ困った顔をする。
「水瀬が寒いだろ」
「大丈夫」
本当は少し寒かった。
でも、それでよかった。
律の手がマフラーに触れる。
「……ありがとう」
その言葉に、
私は一瞬だけ息を止めた。
ありがとう。
言われ慣れていないわけじゃない。
でも、今はその言葉が
ひどくまっすぐ胸に落ちてきた。
私は何か返したかった。
本当は、ずっと私のほうが言いたかった。
あの日からずっと。
でも今日も、喉の奥でつかえて、
すぐには出てこない。
「……うん」
結局それだけだった。
律は私を見て、
少しだけ不思議そうに目を細めた。
「やっぱ、変」
私は笑う。
「そうかも」
日が落ちるのが早い季節だった。
空の色が少しずつ変わっていく。
私たちは前よりゆっくり歩いた。
急ぐ理由なんてなかった。
でも、急がない理由も
本当はもうあまりなかったのかもしれない。
律が立ち止まる。
前に、告白した場所だった。
「水瀬」
「なに」
「未来ノートのさ」
その言葉に、
私は胸の奥をつかまれる。
「二十歳のやつ」
「うん」
「まだ間に合うかな」
私は一瞬、何も言えなかった。
二十歳。
遠くて、近い数字。
ノートの上ではまだ先にあった数字。
私は律を見る。
律も、ちゃんとこっちを見ていた。
「間に合わせよう」
やっとそう言うと、
律が少しだけ笑う。
「うん」
その「うん」を、
私は心の中で何度もなぞった。
たぶんこの人は、
今日の私の違和感に気づいている。
でも理由までは分からない。
それでよかった。
分からないままでいてほしいと思った。
帰り道、
駅へ向かう信号の前で立ち止まる。
冬の夜の車道は、
ヘッドライトがまぶしい。
私はその光を見ながら、
ひどく静かな気持ちになっていた。
怖いはずなのに、
もうあまり揺れていなかった。
決めたあとの静けさ、みたいなものだった。
改札の前に着く。
前なら、ここで
「また明日」と言っていた。
それがどれだけ大事な言葉か、
もう知っている。
だからこそ、
今日はそれを言えなかった。
律が何か言いかける前に、
私は先に口を開いた。
「……さようなら」
言った瞬間、
自分の声がひどく遠く聞こえた。
律が目を瞬く。
「え」
少しだけ眉を寄せる。
「さようなら?」
その聞き返す声を、
最後まで聞かなかった。
私は小さく笑って、
そのまま背を向ける。
振り返らなかった。
振り返ったら、
きっと全部ほどけてしまうと思ったからだ。
歩き出す。
信号が変わる。
冷たい風が吹く。
遠くで、誰かが何かを呼ぶ声がした気がした。
でも、私は前を向いたまま歩いた。
次の瞬間、
足元から、急に力が抜けた。
何かにぶつかったわけでもないのに、
体を支えていた糸だけが
ふいに切れたみたいだった。
視界が傾く。
誰かの声が、遠くでにじむ。
地面が、静かに近づいてくる。
私は何も考えられなかった。
ただ、ひとつだけ、
これでよかったんだと、静かに思った。
ごめんね、と
ありがとう、を
ちゃんと言えたらよかったな、と思った。
「水瀬、今日ちょっと変」
私は足元を見る。
「そうかな」
「なんか」
そこで律は少し考える。
「やさしい」
私は思わず顔を上げる。
「いつもより」
その言い方に、胸が少し痛くなる。
いつもだって、そうしたかった。
でも今日は、たぶん少し違った。
何かを確かめるみたいに見ている自分がいるのを、
私自身がいちばん分かっていたからだ。
「……前からだよ」
なんとかそう言うと、
律は「そっか」とだけ返した。
その「そっか」が、
ひどくやさしくて困る。
少し歩いたあと、
私は自分から言う。
「寒くない」
「寒い」
律が即答して、少しだけ笑う。
私はマフラーを外す。
「貸す」
「いいよ」
「いいから」
私は半分むりやりみたいに、
律の首元にマフラーを巻く。
律が少しだけ困った顔をする。
「水瀬が寒いだろ」
「大丈夫」
本当は少し寒かった。
でも、それでよかった。
律の手がマフラーに触れる。
「……ありがとう」
その言葉に、
私は一瞬だけ息を止めた。
ありがとう。
言われ慣れていないわけじゃない。
でも、今はその言葉が
ひどくまっすぐ胸に落ちてきた。
私は何か返したかった。
本当は、ずっと私のほうが言いたかった。
あの日からずっと。
でも今日も、喉の奥でつかえて、
すぐには出てこない。
「……うん」
結局それだけだった。
律は私を見て、
少しだけ不思議そうに目を細めた。
「やっぱ、変」
私は笑う。
「そうかも」
日が落ちるのが早い季節だった。
空の色が少しずつ変わっていく。
私たちは前よりゆっくり歩いた。
急ぐ理由なんてなかった。
でも、急がない理由も
本当はもうあまりなかったのかもしれない。
律が立ち止まる。
前に、告白した場所だった。
「水瀬」
「なに」
「未来ノートのさ」
その言葉に、
私は胸の奥をつかまれる。
「二十歳のやつ」
「うん」
「まだ間に合うかな」
私は一瞬、何も言えなかった。
二十歳。
遠くて、近い数字。
ノートの上ではまだ先にあった数字。
私は律を見る。
律も、ちゃんとこっちを見ていた。
「間に合わせよう」
やっとそう言うと、
律が少しだけ笑う。
「うん」
その「うん」を、
私は心の中で何度もなぞった。
たぶんこの人は、
今日の私の違和感に気づいている。
でも理由までは分からない。
それでよかった。
分からないままでいてほしいと思った。
帰り道、
駅へ向かう信号の前で立ち止まる。
冬の夜の車道は、
ヘッドライトがまぶしい。
私はその光を見ながら、
ひどく静かな気持ちになっていた。
怖いはずなのに、
もうあまり揺れていなかった。
決めたあとの静けさ、みたいなものだった。
改札の前に着く。
前なら、ここで
「また明日」と言っていた。
それがどれだけ大事な言葉か、
もう知っている。
だからこそ、
今日はそれを言えなかった。
律が何か言いかける前に、
私は先に口を開いた。
「……さようなら」
言った瞬間、
自分の声がひどく遠く聞こえた。
律が目を瞬く。
「え」
少しだけ眉を寄せる。
「さようなら?」
その聞き返す声を、
最後まで聞かなかった。
私は小さく笑って、
そのまま背を向ける。
振り返らなかった。
振り返ったら、
きっと全部ほどけてしまうと思ったからだ。
歩き出す。
信号が変わる。
冷たい風が吹く。
遠くで、誰かが何かを呼ぶ声がした気がした。
でも、私は前を向いたまま歩いた。
次の瞬間、
足元から、急に力が抜けた。
何かにぶつかったわけでもないのに、
体を支えていた糸だけが
ふいに切れたみたいだった。
視界が傾く。
誰かの声が、遠くでにじむ。
地面が、静かに近づいてくる。
私は何も考えられなかった。
ただ、ひとつだけ、
これでよかったんだと、静かに思った。
ごめんね、と
ありがとう、を
ちゃんと言えたらよかったな、と思った。


