君に届くのは、10分の1だけ

時計を見る。
スマホを見る。
また時計を見る。

何度目かも分からないくらい、
同じことを繰り返していた。

やっぱり、また来た。

その考えから逃げられない。

私は毛布の中で目を閉じる。

悪魔のことを考えないようにしていた。
この一年、できるだけ考えないようにしていた。

でも、もう無理だった。

助けたい。

その言葉が、
今度は前より静かに、はっきりと浮かぶ。

助けたい。
まだ終わらせたくない。
未来ノートを、ただの紙切れにしたくない。

それはもう、願いというより
決まっていることみたいだった。

私は布団の中で、小さく息を吐く。

「……来て」

声に出したつもりはなかった。
でも、その言葉は確かに
自分の中から外へ落ちた気がした。

次の瞬間、空気が変わる。

目を開ける。

部屋の暗さはそのままなのに、
どこか輪郭だけが違って見える。

机のそば。
カーテンの影の近く。

そこに、立っていた。

背が高くて、
黒い服を着ていて、
足音はしない。

口元だけが、少しだけ笑っている。

「お久しぶりです」

やわらかい声だった。
前と同じで、
やさしそうだからこそ怖い声だった。

私はベッドの上で体を起こす。
驚いているはずなのに、
もうどこかで分かっていた気もする。

来ると思っていた。
というより、
自分で呼んだのだと思った。

悪魔は部屋を見回すでもなく、
ただ私を見る。

「やはり、また会えましたね」

私は喉が少し乾くのを感じながら、
なんとか声を出す。

「……瀬川くん」

悪魔は小さくうなずいた。

「ええ」

それだけで、十分だった。

去年と同じことが起きている。
いや、去年より悪いのかもしれない。

私は毛布の端を握る。

「助けられるの」

質問というより、確認だった。
答えなんて、もう半分は分かっていた。

悪魔は少しだけ目を細める。

「取引は可能です」

前と同じ言い方。
冷たくて、正確な言い方。

「条件は前回と同じです」

悪魔は静かな声のまま続ける。

「あなたが十年差し出して、あのひとに与えられるのは一年」
「それ以上でも、それ以下でもありません」

私は何も言わない。
言わなくても、覚えていた。

忘れられるはずがなかった。

悪魔は少しだけ笑みを深くする。

「そして、これで私があなたに会うのは最後です」

私は顔を上げる。

悪魔は変わらない声で続けた。

「同じ相手のために、何度も細かく渡すことはできません」
「次にあなたが差し出す量で、すべてが決まります」

その一言で、
胸の奥が静かに沈む。

最後。

その言葉で、
部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

私は数字を考えないようにした。
考えたら、きっと顔に出ると思ったからだ。

悪魔は続ける。

「さあ」

その一言で、部屋の空気がさらに静かになる。

「何年、渡しますか」

私は答えなかった。

すぐには答えられなかった、というより、
答えた瞬間にすべてが決まる気がした。

でも、もう決まっていることも知っていた。

去年、十年を渡したときも怖かった。
今も怖い。

それでも。

未来ノートの黒いノート。
完成した絵。
川沿いの道。
「また明日」と言えた夜。

それらが、頭の中に静かに並ぶ。

私は目を閉じる。

本当は揃えたかった。
二十三歳でいいと思っていた。
それが二人で決めた形だった。

でも。

もし、それでは足りないなら。

それでも律だけが先にいなくなるなら。

その先のことを考えた瞬間、
私はもう元の場所には戻れなかった。

目を開ける。
悪魔は何も急かさない。

私は、自分の声が思ったより静かなことに気づく。

答えた。

けれど、その言葉が何だったのかは、
自分の耳にもひどく遠く聞こえた。

悪魔は少しだけ笑みを深くする。

「承知しました」

それだけで十分だった。
取引は成立したのだと分かった。

数字はもう、聞かなかった。
聞かなくてよかった。

悪魔は前と同じように、
最後まで穏やかな声で言う。

「これは奇跡ではなく、取引です」

私はうなずく。

奇跡じゃなくていい。
取引でいい。

助かるなら、もうそれでよかった。

世界がにじむ。
次に目を開けたとき、部屋は元通りだった。