甘い夢はもう見ない〜お見合い結婚から始まる両片想いの恋〜

「改めまして、橘様。わたくしは白雪桜子と申します」

以前と同じ料亭『しらゆき』の個室で、振り袖姿の桜子は三つ指をつく。

「橘左京です。本日もお時間をいただき、ありがとう」
「こちらこそ。ようこそお越しくださいました」

そう言って桜子は、とっくりの日本酒を左京のおちょこに注いだ。

「ありがとう。君は?」
「では、ひと口だけいただきます」
「ああ」

互いに目の高さにおちょこを掲げてから、口をつける。

「うん、いい味だ」
「お口に合いましたでしょうか? よろしければ、お食事もどうぞ」
「ありがとう」

父が用意した御膳を味わいながら、桜子はそっと視線を上げて左京の様子をうかがった。

(完璧だわ。整ったお顔立ちも、キリッとした表情も、隙のない美しい所作も、醸し出す大人の雰囲気も、なにもかもがパーフェクト。少しでもポーッと見とれてしまったら、即座に催眠術にかけられてしまいそう)

桜子が気持ちを引きしめて居住まいを正していると、左京がスッと綺麗な箸使いでお吸い物を口にした。

「……本当に美味しい。父から、こちらの料亭のことを度々聞かされていました。とても良いお店があると。だが決して仕事で利用したくはない。密かな心の拠り所、隠れ家のような場所だからと。実際に来てみると、確かにそれは頷ける。とても落ち着くし、気持ちが安らぐお店ですね」
「まあ、ありがとうございます。私たち家族も、京都の旅館『橘』を利用させていただいたことがあります。心のこもったおもてなしと温かい気遣いに、これこそが私たちが目指すべきものだと感銘を受けました」
「そうでしたか。我々は同じビジョンを持っているのかもしれませんね。まるで共鳴するように波長が合うし、心が穏やかになる」

そうですね、と頷きかけて桜子はハッとする。

(いけない。いつの間にかペースを掴まれている。まさにこれが、催眠術の始まりなのよ。己を見失ってはいけないわ)

淡々といつもの手順通りに、食後のお茶を淹れて左京に差し出した。

「どうぞ」
「ありがとう」

左京はお茶をひと口飲むと、両手を膝に置き、改まって口を開く。

「それでは、これからのことをお話しさせていただきたい。だがその前に、父から今日あなたにお会いしたら、必ず本音を包み隠さず伝えるようにと念を押されました。それがあなたの望みだからと。ですから私は、嘘偽りなく、あなたに全てをお話しいたします」
「はい、心してうかがいます」

桜子は、いよいよ決戦だとばかりに拳を握りしめた。

「私はあなたと結婚したいと思っています」
「…………は?」

てっきり「うちの会社のなにを掴んでいる?」と問い正されるかと思いきや、全く予想もしなかった言葉に、桜子はポカンとする。

「あなたには正直にお伝えします。実は私は、仕事で会う人会う人におつき合いや結婚を迫られ、辟易しておりました。よく知りもしない相手や、会ったばかりにもかかわらず言い寄ってくる人に対して、だんだん拒絶反応を示すようになってしまいました。好きになるどころか、疑心暗鬼になるばかりです。一体なにが目的なんだ? 金か? 会社か? はっきり言ってくれと問い詰めたくなります」

その言葉に、思わず桜子は「よく分かります」と頷いた。

「怖いですよね、相手の考えが分からないと」
「はい。つき合ったとしても、相手の目的が別にあったら、と疑ってしまったり、別れたあとになにか重大な会社の情報をばらまかれたりしないかと、不安になってしまうのです。もはや一種の恐怖症ですね。私はもう、恋愛は楽しめそうにありません。結婚なら、いわば運命共同体。相手は私を陥れようとはしないでしょう。ですから私は、あなたとのお見合いを望んだのです。父が唯一仕事を持ち込まず、ありのままでいられたこの料亭のお嬢さんと」

そうでしたか、と桜子は深く頷く。

「お気持ち分かります。疑ってしまうような相手とは、関係も上手くいくはずありませんよね。それに私も、恋愛にはいささか疲れてしまい、もはや夢も希望も寄せておりません。それよりも、心穏やかに毎日を過ごせるお相手と、結婚という同じ目的で手を結びたい。なんと申しましょうか、ジェットコースターロマンスよりも、瀬戸内海の穏やかな波に身を任せたい心境です。ときめく恋心なんて、長い結婚生活のうちのごく最初だけ。そのあとの何十年の方がよっぽど長いのです。縁側に並んでお茶を飲みながら、言葉がなくても平気な相手。そんな方がいらしたら、私も結婚を望みます」

左京はじっと桜子の話に耳を傾け、大きく頷いてから顔を上げた。

「我々は結婚に対して同じ価値観を持っている、そう思います。恋愛感情よりも確かなものを」
「おっしゃる通りですわ。好きだの嫌いだの、愛があるだのなくなっただの、そんなことに振り回されない、穏やかで平和な暮らしを送りたいです」
「私もです」

二人でじっと見つめ合い、同じ気持ちを共有していると確信する。

やがて左京がゆっくりと口を開いた。

「どうか私と結婚してください」

その言葉に、桜子は「はい」と頷いたのだった。