甘い夢はもう見ない〜お見合い結婚から始まる両片想いの恋〜

「あの、左京さん? どちらに?」

誰もいない廊下に出ると、左京は無言のまま桜子のウエストを抱いて歩く。

しばらくして広いくぼみのアルコーブに着くと、ソファにそっと桜子を座らせて、自分はその前にひざまずいた。

「気分はどう?」

優しく気遣うように尋ねられ、桜子はドキドキしながら答える。

「大丈夫です」
「そうか、良かった」

左京はホッとしたように視線を落とすと、桜子の両手をそっと握った。

「知らなかった、自分がこんなにも嫉妬深い人間だったとは」

え?と桜子が首をかしげると、左京はうつむいたまま、親指を桜子の指に滑らせて呟く。

「いつもマンションの部屋で二人きりだったから、君が誰かに奪われるなんて心配したこともなかった。だけどさっき、色んな男が君を狙っているのが分かって、全身の血がカッとなった。君は俺のものだ、誰にも渡すもんかって、みっともないほど焦ったよ。ごめん、がっかりしたか?」
「まさか、そんな」

心配そうに顔を上げた左京に、桜子は大きく首を振ってみせた。

「私の方こそごめんなさい。左京さんのお話の邪魔になってはいけないと、離れてしまって……」
「いや、君はなにも悪くない。ごめん、俺が油断したから。馴れ馴れしく手の甲にキスされて、嫌な思いをしただろう?」

そう言って左京は優しく、桜子の右手の甲を親指でなでた。

「いえ、本当に大丈夫ですから」
「俺が大丈夫じゃないんだ。今夜はもう帰ろうか」
ええ!?と桜子は驚く。

「だめです、そんな。パーティーはこれからなのに」
「だが、君を誰の目にも触れさせたくない」
「では私は、ずっと左京さんの背中の後ろに隠れてますから」
「それでは君が楽しめないだろう? いや、そもそも最初から楽しくなんてないよな、知らない人ばかりのパーティーなんて」
「楽しいですよ? だってほら、こんなにすてきなドレスに、ヘアイクもしてもらって、こんな豪華なホテルに連れて来てもらって。私の人生でこんなことがあるなんてって、びっくりするくらい贅沢な体験です」

必死にそう言うと、ようやく左京は表情を和らげた。

「ああ、とてもきれいだ。驚いたよ、ブティックの階段を下りて来る君を見た時。あまりに美しくて、手の届かない存在に思えて、車の中で隣に座りながら緊張した」
「えっ、まさか」
「本当だ。大人の余裕を見せなければと必死だった。幻滅したか?」
「そんなこと。私もあなたのかっこ良さにドキドキして、だから顔も真っ赤になって……」
「ああ、あれ、クーラーのせいじゃなかったのか」

真顔で答える左京がおかしくて、桜子は笑い出す。

「はい、クーラーのせいではありません。全部あなただからです。手が触れてドキッとするのも、優しく微笑みかけられて顔が赤くなるのも、スマートにエスコートされて夢見心地になるのも、全部全部、左京さんだからです」

それに……と、桜子は恥ずかしさにうつむいて続けた。

「肩を抱かれた時も、ウエストに手を添えられた時も、すごく緊張してしまって。だけどとても嬉しかったです、初めて名前を呼んでもらえて」

えっ、と呟いてから、左京も視線を落とす。

「俺は、ずっとずっと呼びたかったんだ、君の名前を。いつどうやって呼べばいいのかと悩んでいた」
「そうだったのですか?」
「ああ。だけどさっき、君が他の男といるのを見てカッとなって、思わず呼んでしまった。なにも考えずに」

桜子は、はにかんで頬をピンクに染めた。

「それなら、また呼んでくれますか?」
「……呼んでも、いいか?」
「はい、もちろん」

左京はじっと桜子を見つめてから、愛おしそうに目を細める。

「桜子」

途端に桜子は目を潤ませ、両手で口元を覆った。

「えっ、大丈夫か?」
「はい、あの。想像以上に衝撃が……。胸が締めつけられて、息が止まるかと」
「そんなに? じゃあもう呼ばないでおく」
「いえ、だめ、やだ。呼んでください」
「けど、血圧とか脈拍が異常に上がったら心配だ」
「慣れれば平気です。むしろ、慣れるほど呼んでほしいです」
「そうか、じゃあ……」

左京は少し考えてから立ち上がり、桜子から離れる。

「少し距離を置けば平気か? ここからなら」
「はい、大丈夫です」
「分かった」

ゆっくり息を吸ってから、左京は顔を上げて桜子を見つめた。

「桜子」
「……はい」
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。じゃあ、桜子」
「はい」

左京は両腕を伸ばして優しく呼びかける。

「おいで」
「……はいっ」

桜子は立ち上がると、タタッと駆け寄って左京の腕の中に飛び込んだ。

「桜子」

ギュッと抱きしめられ、耳元で聞こえる声に安心して、桜子は左京の胸に頬を寄せる。

「はい、左京さん」
「……桜子、戻ろうか。まだなにも食べてないだろう?」

うん!と、桜子は顔を上げて頷いた。

「美味しいもの、たくさん食べたいです」
「ああ、好きなだけ食べろ。デザートもな」
「はい」
「でも俺のそばを離れるなよ?」
「分かりました。左京さんの腕にしっかり掴まってますね。ほら、おさるのぬいぐるみみたいに」

両腕でガシッと左京の左腕を抱え込むと、左京は笑って桜子の頭にポンポンと手を置く。

「こんなに可愛いおさるさん、見たことない」
「おさる子って呼んでもいいですよ?」
「呼ばない。桜子としか」
「おさるの桜子は?」
「だめだ。可愛い桜子としか呼ばない」

そんなことを話しながら、二人は身を寄せ合ってバンケットホールに戻った。