パリ、あるいは、市場への一歩

 放課後の教室で、スケッチブックを閉じる。部屋にはまだ西日の光が残っていて、机の上のシャープペンシルの先を、細く照らしていた。
 青井が椅子の背もたれに掛けていたカーディガンを肩にかけると、隣の席にいた飯島が、ゆっくりこちらを見た。飯島は、いつも何かを言いかけて、そのまま飲み込むような癖があった。
「今日、帰りどうするの」
 飯島が言った。
「歩いて、そのまま帰るつもり。どうして?」
 青井は、スケッチブックを鞄にしまいながら答える。
「最近、絵描いてるとこあんまり見ないな、と思って」 青井は動きを止めた。その言葉は、痛むほどまっすぐだったわけではない。ただ、薄い紙の端で指先をなぞられたときのような、かすかなひりつきがあった。
 青井は、いまだに美大に落ちたことを引きずっていた。
 落ちたという事実より、それによって自分が「才能のない人間」と印を押されたように思えてしまうことが、胸の奥に重たく沈んでいた。青井は試験会場で、隣の席の受験生が驚くほど上手に石膏像を描いているのを見た。その線は迷いがなく、構図も陰影も、何もかも揺らぎがなかった。
 青井は考え続けていた。美術の自由は思ったほど広くない。「自由表現」という言葉が与える開放感の影に、実際にはいくつもの枠がある。これまでにない視点、これまでにない形。しかし、あまりに新しすぎるものは人の心に届かない。人は、自分の過去の記憶をもとに世界を感じるからだ。前触れのない造形や感情は、ただ奇妙なものとして片づけられてしまう。新奇さを求めながら、どこか伝統の手触りを含ませる。その均衡の上にしか、「良い」と評価されるものは生まれない。青井は、その天秤の上で毎日ぐらぐらと揺れていた。個性とは、自由に飛び出すことではなく、限られた幅の中での微細なズレだ。そのわずかな差が、目に見えるか、心に触れるか。それだけが、世界を分ける。
 油絵を始めたのは八歳のときだった。母が習い事のひとつとして勧めた教室だった。
 はじめてキャンバスに向かったとき、青井は何も考えていなかった。
 ただ、絵の具の匂いが好きだった。油が乾きかけるときの、少し甘く、少し苦い匂い。
筆に含ませたときの、わずかな重たさ。色を重ねるとき、絵はゆっくりと呼吸するように動いた。青井は、それがたまらなく好きだった。上手いかどうかなんて、どうでもよかった。実際「うまく描けた」と思ったことは、ほとんどない。ただ、色が思った通りに乗ったとき、胸の奥がぽっと温かくなる瞬間があった。その小さなぬくもりを、青井は追いかけ続けていた。
 中学生のとき、先生に褒められた。「印象に残る色使いだね」と言われた。
 その一言が、青井の中にずっと残っている。自分はもしかしたら、絵でなにかをつくれるのかもしれない。そう思えた唯一の言葉だった。
 高校に入ってから、描けば描くほど、青井は自信を失っていった。自分より技術がある人間はどこにでもいた。感性がある人間も、努力ができる人間も。自分が特別である証拠など、なにもなかった。
 試験に落ちた日は、中田島砂丘の海を見た。明るく、冷たく、広かった。自分の絵が、どれだけ小さく、か弱いものかが胸に刺さった。それからしばらく、筆を持てなかった。描こうとすると、うまく描けない自分の手を思い出す。描かないことで自分を守っているのだと、薄々気づいていた。
 青井には恋人がいる。岩田という、同級生の男の子だった。
 彼は受験前、サッカー部に所属していて、いつも校舎裏のグラウンドでボールを蹴っていた。陽に焼けた横顔が、青井には妙にまぶしかった。強いというより、ただまっすぐだった。風に押されても、ぐらりともしないような、芯のある人だった。
 青井は、岩田のそういうところが好きだった。「いい人」という言葉は、便利で、つかみどころのない形をしている。だが青井にとっては、その曖昧さのなかに、確かな実体がふくまれていた。
 たとえば、他人の悪口を言わないこと。勉強も、部活も、素直に、まじめに取り組むこと。授業中に居眠りしないこと。それらは、先生たちが何年も「きちんとしなさい」と教えてきた当たり前のことばかりだった。けれど、当たり前を続けられる同級生なんて、ほとんどいなかった。皆、型にはまることを怖がっていた。「普通」は「個性がない」と笑われる。だから皆、わざと少しルールを破ったり、だらしなくふるまったりしていた。そうやって、必死に「自分らしさ」の形をかたどっていた。
 でも、岩田はちがった。彼は、涼しい顔をして型にはまっていた。それが、かえって強かった。何かを壊さないと自分を証明できない人とちがって、彼は壊さなくても、そのままでそこにいた。
 ある夕方、図書室で勉強をしていたとき、青井はふと聞いてみた。
「岩田君は大学、どうするの?」
 岩田は、ボールペンをまわしながら言った。
「東京に行くよ」
「学部は?」
「経済」
「経済に興味あったんだ?」
「いや、別に」
 少しの間を置いて、彼はつけ加えた。
「就職するのに、有利そうじゃん。金融系は求人も多いし」
 それは、あまりにも自然な口調だった。迷いも、熱も、夢もなかった。
 青井には、それが信じられなかった。
 四年間。興味もない学問を、四年間。
 自分がもし同じことをしたら、息が詰まって、絵が描けなくなる。でも岩田は、それを「大したことじゃない」というように受け止めている。自分の人生を、ある程度は折りたたんでもいい。そこに、潔さと、強さがあった。青井は、自分にはそんな強さはないと思った。
 卒業式も間近になるころ、岩田は大学に合格し、東京へ行く準備をしていた。教室の空気は、にぎやかで、どこか浮いていた。
 放課後、二人で海沿いの防波堤を歩いた。潮風は冷たくて、春はまだ遠かった。波はやわらかく揺れていたけれど、青井の心は、どこにも着地しなかった。
 岩田は、きっと変わっていくだろう。東京でたくさんの人と出会い、たくさん吸収し、広がっていく。それは自然なことだ。そのあいだ、青井はきっと、同じ海の前で立ち止まってしまう。何も掴めないまま。波は、寄せては返し、を繰り返す。まるで、希望と諦めの境界線みたいに、何度も形を変えながら。
「モネの《印象・日の出》って、こういう光だったのかな」
 青井は、海へ向かってつぶやいた。
 岩田は、聞き慣れた名にうっすら反応して、横目で青井を見た。
「空と海の境目がなくなるやつだろ。なんか、ぼんやりしてて」
「そう。はっきりしてなくて、でも確かにそこにある感じ」
 青井は、波打ち際の白い泡を目で追いながら言った。
「写実じゃないのに、あんなに見たことある光って思えるの、すごいよね」
「青井の絵も、そういう感じじゃん」
 岩田は簡単に言う。
「そうかな」
「そうだよ」
 岩田は迷いなく言った。
「なんか、風みたいな絵だと思う。形よりも、温度が先にくる」
 青井は、わずかに肩をすくめた。
 褒められることは、嬉しいはずなのに、胸の奥がきゅっと縮む。
「でも、受からなかった」
 その一言は、風よりも小さかった。
「落ちたからって、描いたものがよくなかったわけじゃないだろ」
 岩田は海を見たまま言う。
「ルノワールだって、サロン落とされてばっかだったんだろ?」
「うん。らしいね」
 青井は答えた。
「でもルノワールは、そのあと自分たちで展覧会を開いたじゃん。わたしにはそんな仲間もいない」
「仲間は、そのうちできるだろ」
 岩田は、簡単に言う。けれどその簡単さは、残酷ではなく、ただ真っ直ぐだった。
 青井は、ほんの少し笑った。
「岩田君は、いつも迷いがないね」
「あるよ」と岩田は言った。
「でも、立ち止まってても変わらないから」
 風がひとつ、ふたりの間を抜けていった。潮の匂いが、淡く鼻の奥に残る。
 青井は、その言葉を胸の内でゆっくり撫でた。
 海の光は、モネの絵の中の光とは少し違ったけれど、きっと同じように「その時にしかない光」だった。それを見ているふたりもまた、いつかどこかへ流れていくのだろう。けれど、いまはただ、手を触れない距離で、同じ海を見ていた。

 春はもう過ぎつつあり、空と道のあいだに湿り気が戻り始める。青井が実家を出て、一人暮らしを始めたのは、五月のはじめだった。新しい始まりというよりは、何かが静かに終わったあとの、余韻のような時期だった。
 青井は、美大を目指す浪人生になった。
 だが「浪人生」という呼び名は、一般の大学を目指す人に向けられている言葉のように思えた。美術の受験は、ただ机に向かうだけでは済まない。描き、考え、破り、また描き直す時間が必要だ。けれど、家庭の経済状況はそれを長く許さなかった。
 青井の家は、父と母と、二歳下の弟との四人家族で、弟は来年、受験を控えていた。静かに流れるはずだった生活に、青井は少し、余分な波を立ててしまったのだと、家の中の空気が言っていた。
 父は、青井が美大に行くと決めたときから反対していた。反対というより、不信に近い。「芸術で食べていける人間なんて、ひと握りだ」というような、ありふれた現実の言葉だった。その言葉は、正しさの形をしていた。だからこそ、青井には痛かった。
 母は何も言わなかった。ただ、食器の置きかたや洗濯物を干す手つきに、少しだけ慎重さが増えた。まるで、壊れものを扱うみたいに。そして青井は、家のどこかに自分がいるだけで、そこに「迷惑」という輪郭が生まれるのを感じるようになった。誰にもはっきりと言われたわけではないのに、その気配は痛いほど明瞭だった。
 四月の終わり、青井は家を出ることを決めた。
 引っ越し先に選んだのは、御前崎だった。浜松からバスで海沿いを揺られていく、少し遠い町。電車は通っておらず、車を持たない青井は、移動のたびにバスの音を聞くことになる。御前崎は、潮風が町に染みこんでいるような場所だった。家々の壁には少し色あせがあり、風の向きによって、しょっぱい匂いが運ばれる。
 借りたアパートは、坂の中腹にあった。木造で、外壁はところどころ剥げ、階段は少し軋んだ。駐車場には、いつも野良猫がいる。毛並みが濡れている日もあれば、日向でのびている日もあった。部屋は、六畳一間。狭いけれど、ひとりには十分だった。
 窓を開ければ、風が入り、遠くで波音がした。家賃は安かった。アルバイトをすればなんとか生活していけるくらい。それに、両親は、出ていくときにまとまったお金を青井の口座に入れてくれた。それは、支援というより、静かな別れのしるしのように感じた。手切れ金、という言葉が青井の頭に浮かんだが、声にはしなかった。
 青井は、小さな画材屋でアルバイトを始めた。店主は、頬に深い皺を刻んだ女性で、絵を描くというより、画材そのものを愛しているような人だった。筆の種類や紙の目の細かさを、やわらかく説明してくれた。
 仕事が終わると、青井は、個人が経営している小さなアトリエに通う。そこには、年齢も目的もばらばらな人がいた。退職後の趣味で絵を描く人、仕事の合間に通う人、ただ時間が欲しくて絵に触れる人。
 美大を目指す浪人生と呼ぶには、青井の生活は、あまりに不確かだった。大きな予備校に通う人たちは、もっと計画的で、もっと意志が明瞭なはずだ。青井には、そういう「まっすぐ」さはなかった。絵を描きたいという気持ちは確かにあるのに、未来の輪郭だけがぼやけていた。
 夕方、坂の途中の部屋に戻ると、窓から海の光が見えた。陽は傾き、光は少し朱を帯びていた。その光を見ていると、ふと、モネやシスレーの絵の中の空気が思い出された。
 絵は、遠くにあるものではなく、ここにもあった。海も、光も、風も。
 自分の人生がどこへ向かうのか、まだわからない。けれど、どこかへ向かうための第一歩だけは、もう踏み出してしまっている。御前崎の夜は静かで、波の音が絶えずに流れていた。その音は、過去と未来のあいだで揺れている青井の心に、ゆっくりと滲み込んでいった。