森で拾った魔王を飼うことになりましたが、薬草師のわたしは命令しないことにしました

ヴァルトが来たのは、翌朝だった。
今日は護衛が二人になっていた。
ユナはそれを見て、昨日より話が硬くなったと判断した。馬の数も増えている。本格的に連れて行くつもりで来ている。
「おはようございます」
「おはようございます。昨夜、考えていただけましたか」
「考えました」
「結論は」
「同じです」
ヴァルトは少し目を細めた。
「中で話しましょう」
四人が、また机を囲んだ。護衛は外だ。お茶が出た。今日もヴァルトはそれを少し見た。
「単刀直入に言います。王国は、この魔王を放置しておくことができない」ヴァルトは書類を出した。今日は昨日より分厚い。
「先例のない契約の組み合わせ、管理下にない最上位の魔王。これが同時に存在する状況は、王国にとって許容できないリスクです」
「リスク」
 ユナは繰り返した。
「彼が今後、何をするか分からない。貴女への完全服従の術がある以上、貴女の意思次第で彼は何でもできる。王都を攻めることも、王国の秩序を壊すことも」
「するつもりはありません」
「今日のところは、でしょう」
ユナは口を閉じた。
昨日自分が言った言葉を、そのまま返された。
「人間の意思は変わります。貴女が善意の人物であることは、今日の段階では信じましょう。しかし十年後も同じ保証はできない。人間は環境で変わる。立場で変わる。感情で変わる」
「……」
「だからこそ、制度が必要なのです。個人の善意に頼るのではなく、仕組みで管理する。それが王国の考え方だ」
レオは黙って聞いていた。
正論だと思った。
感情を抜きにすれば、ヴァルトの言っていることは正しい。人間の善意は永続しない。制度は個人より長く続く。百年前の戦争が終わった後、人間がそういう仕組みを作ったのは、合理的な判断だった。
「契約魔法を使って従わせろ。貴女が持つ術を、制御のために使う。そうすれば王国も納得できる」
「嫌です。命令しないと約束したので」
「約束より王国の安全が優先されます」
「わたしの約束は、わたしが優先するものをわたしが決めます」
 ヴァルトは少し息を吐いた。
 苛立ちではなかった。難しい交渉相手に当たったときの、静かな整理の息だった。
「では聞きますが。貴女は何を恐れているのですか。彼に命令することを、なぜそこまで拒む」
ユナは少し考えた。
「命令したら。それはわたしとレオさんじゃなくなるから」
「どういう意味ですか」
「今、わたしたちは一緒にいる。レオさんが自分でここにいることを選んでいる。薪を割るのも、水を汲むのも、自分でそうしている。命令したら、それが全部、術の効果になる」
「実質は変わらないでしょう」
「変わります。全然違う」
「説明してもらえますか」
ユナはしばらく黙った。
言葉を選んでいた。

「従わせるのは簡単です」
「でもそれは、一緒にいることじゃない」
「わたしは、命令してそばに置くくらいなら」
「逃げられた方がいい」

迷いがなかった。
ヴァルトは沈黙した。
レオは、ユナの横顔を見ていた。
それから、ヴァルトを見た。
「彼はどう思っているのですか」
「何を」
「この状況を。貴女と一緒にいることを」
 レオは少し間を置いてから言った。
「私の話を聞くつもりがあるか」
「あります」
レオは少し間を置いた。
「私は今まで、多くの人間に従わせようとされてきた」
「知っています」
「力で。術で。脅しで。どれも通じなかった」
「通じなかったから、王国が手を焼いてきた」
「そうだ。従わせようとする人間は、必ず何かを見ている。私の力を。私の権能を。私が倒せる魔物を。私が守れる城壁を。私そのものを見ている人間はいなかった」
ヴァルトは黙って聞いていた。
「この女は」とレオは続けた。
ユナが少し顔を向けた。
「拾った。傷だらけで倒れている私を、薬草師として拾った。魔王だと言ったら、はいはいと言った。熱があると言ったら、ないと言い張った私に、三十九度あると言った」
「……」
「命令されなかった。恐れられたが、それを理由に追い出されなかった。薪を割れと言われた。気づいたら割っていた。命令だったか、そうでなかったか、あの瞬間は自分でも分からなかった」
レオは机の木目を見た。
「でも今は分かる」
「何が分かりますか」とヴァルトは聞いた。
「自分でいたかったんだ。命令されてではなく、術に従ってでもなく、自分の意思で何かをしたかった。ここにいると、それができる気がする」
静寂が落ちた。
長い静寂だった。
ヴァルトは書類を見た。それから二人を見た。
何かを考えていた。計算ではなく、もう少し人間的な何かを考えている顔だった。
「……貴方は。自由になりたいのですか」
レオは少し考えた。
ヴァルトの言う自由は、どこへでも行ける自由のことだろう。誰にも縛られない、誰にも従わない、そういう自由。
「どうだろうな」とレオは言った。
「曖昧な答えですね」
「曖昧なんだ。どこへでも行けることが自由だとは、今は思っていない」
「では何が自由だと思いますか」
レオはユナを見た。
ユナはレオを見ていた。
「命令されない場所にいることだ」

ヴァルトはしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
書類を見て、窓の外を見て、また二人を見た。
「一つ提案があります」
「聞きます」
「王国は、この状況を管理下に置きたい。しかし管理の方法は、必ずしも彼を王都に連れて行くことではない」
「どういう意味ですか」
「定期的な報告義務と、問題が起きた際の優先協力、という条件で、この状況を認める可能性があります」
ユナは少し目を細めた。
「王国が……わたしとレオさんの関係を、公式に認めると?」
「認めるというより、監視下に置く、という言い方が正確です。貴女は定期的に王国の担当者に状況を報告する。問題が起きた際には王国の指示に従う。その条件で、彼をここに置くことを許可する」
「……」
「これは王国としても前例のない判断になります。私個人の裁量では決められない。上に諮る必要がある。しかし、可能性としては提示できます」
ユナはレオを見た。
レオはユナを見た。
二人の間で、言葉のない確認があった。
「条件の詳細を、書面で出してもらえますか」
「用意します」
「それを確認してから、返答します」
「分かりました」
ヴァルトは立ち上がった。
今日は早い退場だった。昨日より話が進んだということかもしれなかった。
扉のところで、ヴァルトは止まった。
振り返った。
「一つだけ」
「何でしょう」
「先ほどの言葉。命令されない場所が自由だ、と言った。それを聞いて、私には少し分かる気がした。王国の仕事は、命令することと命令されることで成り立っている。私も同じです。命令しない場所の話を、久しぶりに聞きました」
それだけ言って、今度こそ出て行った。
馬の音が遠ざかった。

「どう思う」
「悪い条件ではない」
「定期報告は面倒だけど」
「定期的に誰かが来るより、こちらから出向く方がましだ」
「それもそうか」
ユナはお茶を片付けた。
「怒ってる?」
「何に」
「王国に、管理されることに」
「監視されることを好む者はいない。しかし現実的に考えれば、今できる最善の落としどころだ」
「現実的、って言った」
「……うるさい」
ユナは少し笑った。
レオは窓の外を見た。
護衛が馬を引いて遠ざかっていくのが見えた。
「一つ聞いていいか」
「うん」
「先ほど、従わせると一緒にいるは違うと言った」
「言った」
「それは、誰かに言うために考えた言葉か」
ユナは少し考えた。
「違う。ずっとそう思ってた」
「いつから」
「師匠に動物の飼い方を習ったとき。怪我した鹿を助けて、治ったら逃がすっていう話をしてたら、師匠が聞いたんだ。逃げたら寂しくないかって」
「なんと答えた」
「逃げたかったなら、それでよかったって」
ユナは少し遠い顔をした。
「師匠は笑って、そうか、って言った。それだけだったけど、なんか正解だったんだと思って。それからずっとそう思ってた」
レオは黙った。
「レオさんは」
「何だ」
「逃げたいとき、言っていいから」
「……言わない」
「なんで」
「今は逃げたいと思っていないからだ」

ユナは少し黙った。

「そっか」
「そっか、だけか」
「他に何か言う?」
「……いや」
「じゃあそっか」
レオは視線を外した。
外は穏やかな午前だった。
どこかで鳥が鳴いている。軒下の雀だろうか。
「薪が減っていた」
「あ、本当だ」
「割ってくる」
「ありがとう」
レオは立ち上がった。
裏庭に出ると薪の山の前に立ち、斧を手に取った。
昨日も一昨日も、ここに立ってこれをやった。
命令されたわけではなかった。
今日も、命令されたわけではない。

それでもレオは、その場に残った。

自分でここに立っている。
それがどういうことか、言葉にしようとすると難しい。
それでも、それは確かにあった。
レオは斧を振り上げた。
薪が割れた。
気持ちのいい音がした。