男が来たのは、穏やかな午後のことだった。
魔王級の魔力反応は、王国の監視網に必ず引っかかる。
その知らせが届くまで、そう時間はかからない。
ユナは調合室で仕事をしていた。レオは裏庭にいた。特に何をするわけでもなく、地面に生えてきた薬草の名前をユナから聞いて、それを覚えようとしていた。覚える必要があるかと言えばない。でも暇だったので。
「フィーバールートはこれか」
「そう。葉の裏が赤いやつ」
「これは」
「それはただの雑草。抜いていい」
「見分けがつかない」
「慣れれば分かる」
そういう会話をしていた。
だから気配に気づいたのは、ユナより先だった。
「来客だ」
ユナが顔を上げた。
「誰か知り合い?」
「知らない。ただし」
レオは立ち上がった。
「いい客ではない」
玄関を回ると、馬が二頭いた。立派な馬だった。村には不釣り合いな、王都で使われるような品種だ。
馬の前に男が立っていた。
三十代か四十代か。長い外套。胸に紋章。整った顔立ちだが、笑っていない。笑う必要を感じていない人間の顔だ。
後ろに護衛が一人。剣を持っている。
「ユナ殿ですか」
「そうですが」
「私はヴァルト。王国の命により参りました」
王国、という言葉が、空気を少し変えた。
ユナは表情を変えなかった。
「何の御用でしょう」
「こちらにいる魔王を引き渡していただきたい」
男——ヴァルトの視線が、レオに向いた。
レオはその視線を受けながら、黙っていた。
「引き渡す」
ユナは繰り返した。
「どういう意味ですか?」
「字義通りです。この魔王は管理下に置かれるべき存在だ。王国がそう判断した」
「根拠は?」
「根拠?」
ヴァルトは少し眉を上げた。驚いたというより、想定外の質問を受けた顔だった。
「貴女に説明する義務はありませんが」
「あります。わたしの家の居候ですから」
しばらく間があった。
ヴァルトはユナを見たのち、レオを見た。
「……話を聞かせてもらえますか。中で」
「どうぞ」
四人が机を囲んだ。
護衛は外に残った。ヴァルトと、ユナと、レオと。
お茶が出た。
ヴァルトはそれを見て、少し目を細めた。状況を読んでいる目だ。
「単刀直入に話します」
「そうしてください」
「この魔王——レオと呼ぶのですか」
「はい」
「彼は、今の飼い魔王制度において、極めて異例の存在です」
「どういう意味ですか」
ヴァルトは外套の内側から、書類を取り出した。羊皮紙に、細かい文字が書かれている。
「百年前の戦争の後、人間は契約魔法を完成させました。魔王を従わせる術です。これにより、現在多くの魔王が各地の貴族や王族のもとで管理されている。これは知っていますか」
「知っています」
「では、その契約魔法の仕組みは?」
ユナは少し考えた。
「魔王に術をかけて、飼い主の命令を聞かせる、と理解しています」
ヴァルトは首を振った。
「表向きはそうです。しかし正確ではない」
レオは黙って聞いていた。
「正確に言えば、一般の飼い魔王は、魔王の力を分割して支配しています」
ユナが眉をひそめる。
「分割?」
「ええ。力を細かく奪い、反抗できなくする」
ヴァルトはレオを見た。
「ですが彼は違う」
「何が」
「一般的な飼い魔王の術は、彼には通じない。力の分割ができない。なぜかというと、彼の魔力が他の魔王と比べて格が違いすぎるからです。それが、彼が本物の魔王と言われる所以だ」
「知っている」
初めて口を開いた。
ヴァルトがレオを見た。
「貴方はご存知でしたか」
「生まれたときから、そう言われてきた」
「そうでしょう。だから問題なのです。王国にとって、制御できない魔王は脅威だ」
「それは分かる。だから今まで放っておかれなかったのだろう」
「追いかけ続けた、と言ってください」
「同じことだ」
「ここからが本題です」
書類を、ユナの前に置いた。
「彼女の術を調べました」
ユナは書類を見た。
細かい記述がある。魔法の解析。術式の図。
「……私の、保護術を?」
「村の事件の報告が王国に届いたとき、魔法の痕跡も一緒に調べました。貴女が彼にかけた術は、通常の保護術ではありません」
「怪我を治すために使った、ただの——」
「ただの保護術なら、魔王には効果がない。魔力の差が大きすぎて、弱い術は弾かれます。しかし貴女の術は弾かれなかった」
ユナは沈黙した。
「なぜだと思いますか?」
答えない。
ヴァルトは続けた。
「貴女の師匠について調べました。三年前に亡くなった薬草師。しかし本来の職は違う。その方は、古い契約魔法の研究者でした」
ユナは目を伏せた。
「……知っています」
「では、その方から何を習いましたか」
「薬草の扱いと、基本的な治療術と」
「それだけですか」
「……それだけです」
ヴァルトは微かに首を振った。
「貴女は気づいていないかもしれませんが、貴女は師匠の研究を、
知らないまま継承している。貴女が彼にかけた術は、百年前に完成したとされる、本来の契約魔法です」
部屋が静かになった。
鳥の声が外から聞こえた。
それ以外、何も聞こえなかった。
「本来の契約魔法」
ユナは繰り返した。
「魔王の力を分割せず、ただ二者を結ぶだけの術です。支配でも拘束でもなく、純粋な契約。百年前の戦争が始まる前に存在した術式で、今は失われたと思われていた」
「……」
「その術が発動した場合、対象の魔王は契約者に完全服従します。命令を断れない。命令を無視できない。命令されたことを、すべて実行する。それが本来の契約魔法の効力だ。ただし術は“命令”にのみ反応します。依頼や会話では発動しません」
レオは、机を見続けていた。
完全服従。
その言葉を聞いて、何かが腑に落ちた気がした。
薪割りを頼まれたとき、断ろうとして、でも断れなかった。あの感覚。命令とも強制とも違う、もっと奥深いところから来る何かに従ってしまった、あの感覚。
「だから」
ユナの声が少し低くなっていた。
「レオさんは……」
「彼が貴女の命令を聞いていたのは、術の効果です」
ユナはテーブルの上の自分の手を見た。
「……知らなかった」
「そうでしょう。しかしそれが事実です。だからこそ、王国はこの状況を管理下に置く必要がある」
「管理下」
「本来の契約魔法で繋がれた魔王と人間の組み合わせは、史上例がない。どのような事態が起きるか分からない。安全のために、彼を引き渡していただきたい」
ユナはしばらく、自分の手を見ていた。
それからゆっくり顔を上げた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「引き渡した後、レオさんはどうなりますか」
ヴァルトは少し間を置いた。
「管理されます」
「それは」
「王国の監督下に置かれます。自由な行動は制限される。しかし命の危険はない」
「自由が制限される」
「安全上の措置です」
ユナは再び口を閉じた。
レオは、その横顔を見ていた。
ユナは怒っていなかった。取り乱してもいなかった。ただ考えていた。何かを、慎重に、丁寧に考えていた。
それがレオには分かった。
一緒にいる時間が、それなりに経ったから。
「ユナ」
ユナが顔を上げた。
「お前は、本当に命令しないのか」
少し間があった。
「レオさん」
「何だ」
「知ってた?」
「何を」
「わたしの術が、そういうものだったこと」
レオは少し黙った。
「術の種類は最初から分かっていた」
「でも言わなかった」
「言う必要がなかった」
「なんで」
「お前が命令しなかったから」
ユナはその答えを聞いて、また自分の手を見た。
しばらく何も言わなかった。
「だから……関係なかった」
「関係なかった……」
「命令が来なければ、術がどういうものかは問題じゃない」
「でも。わたしがその気になれば、あなたを完全に動かせた、ってこと」
「そうなる」
「それは」
ユナは言葉を切って、少し考えた。
「それは、ズルでしょう」
レオはそう主張し、顔を上げた。
「ズル」
レオは繰り返した。
ヴァルトが眉を動かした。
「完全服従できる術を持ちながら、あなたに薪を割ってもらったり、水を汲んでもらったり、買い物を頼んだり。それってズルじゃないですか」
「貴女は知らなかったんでしょう」
「知らなかったけど、でも今知った。だから今から問題になる」
「問題、とは?」
ヴァルトが眉を寄せた。
「あなたが言う通り、この術がそういうものなら」
ユナはレオを見た。
「今までわたしがあなたに頼んでいたことが、全部、あなたの意思じゃなかった可能性がある。それは——」
「違う」
レオは即答した。
「え」
「薪は自分で割った」
「でも術が——」
「命令されたわけではないと言った。前に」
ユナは黙った。
「確かにそう言ったな。あの夜。術の効果は、命令に従わせることだ。命令がなければ効果は出ない。私が自分で動いたことは、術とは関係ない」
「……でも」
「術がかかっていなくても、薪を割ったかどうかは分からない。しかしお前が命令しなかった以上、私が動いた理由は私の側にある」
ユナはしばらく何も言わなかった。
窓の外で風が動いた。
「……わたしには。自分が命令しなかった理由しか分からない」
「それで十分だ」
「本当に?」
「私がそう言っている」
ヴァルトは二人のやり取りを、黙って見ていた。
何かを計算している顔だった。この状況から何を読み取るべきか、王国の人間として何を判断すべきか。そういうことを考えている顔だった。
「話を戻してもいいですか」
ユナは頷いた。
「どうぞ」
「王国の要請をお断りすることは難しい。これは命令に近いものです。貴女が一般の村人である以上、王国に逆らうことは——」
「嫌です」
「は?」
「断ります。権限がない、でしょうか。でも、引き渡しを断る権利はあります。レオさんは今、わたしの家の居候です。わたしが保護しています。それを取り上げることが正当な手続きなら、手続きをとってください。手続きなしに連れていくというなら、お断りします」
ヴァルトは口を閉じた。
「……強引に連れて行くことはしません。今日のところは。王国としても強制連行は望んでいません。村を刺激するからです」
「ありがとうございます」
「しかし話し合いを続ける必要がある。明日、また来ます」
「承知しました」
ヴァルトは立ち上がった。書類を戻し、扉の方へ歩きかけて、止まった。
「一つ聞かせてください」
振り返って尋ねる。
「何でしょう」
「なぜそこまでするのですか。彼は危険な存在です。王国が管理すれば、貴女の生活は今より安全になる。なぜ手放さないのですか」
ユナは少し考えた。
「飼うなら最後まで責任を持つのが、わたしの信条なので」
ヴァルトが眉を上げた。
「……魔王を飼うつもりですか」
ユナは少し考えてから答えた。
「たぶん。わたしの飼い魔王ですから」
「それだけですか」
「今日のところは、それだけです」
ヴァルトは何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに出て行った。
馬の蹄の音が、遠ざかった。
二人になった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ユナはお茶を片付けた。
レオは窓の外を見ていた。
「怒っているか」
「何に」
「私の術が、そういうものだったこと」
レオは少し考えた。
「怒ってはいない」
「本当に?」
「怒るとすれば、命令に使われたときだ。お前はそうしなかった」
「でも。できたんだよ。わたしは、あなたを完全に動かすことができた。それを知らなかったとしても」
「だから?」
「……それが嫌じゃない?」
レオは振り返った。
ユナは本気の顔をしていた。
責任を感じている顔だった。自分が知らずにやったことを、きちんと怖いと思っている顔だ。
「嫌ではない」
「なんで」
「お前が命令しなかったからだ。同じ答えを何度言えばいい」
「何度でも聞きたい」
「……」
レオは少し黙った。
それから言った。
「術を解除しなくていい」
「え」
「今まで通りにしろ。それで問題ない」
ユナは少し驚いた顔をした。
「どうして」
「命令してくる気がないのなら、術があってもなくても同じだ」
「でも万が一、わたしが命令してしまったら」
「したら怒る」
「……そういうもの?」
「そういうものだ」
ユナはしばらく考えた。
「分かった。でも一個だけ約束して」
「何だ」
「わたしが本当に嫌なことを命令してしまいそうになったら、言って。わたしには分からないことがある。あなたが嫌なことが何かを、全部は知らない」
レオは少し目を細めた。
「……言う」
「約束?」
「約束だ」
ユナは頷いた。
それから、少し安堵した顔になった。
「明日また来るって言ってたね、あの人」
「ああ」
「どうしようか」
「どうする気だ」
「引き渡したくない。でも王国を完全に敵に回すのも、村に迷惑がかかる」
「そうだな」
「何かいい方法ある?」
レオは少し考えた。
「私が出て行けば解決する」
「それは嫌」
即答だった。
「なぜ」
「拾ったから」
「それだけか」
ユナは少し間を置いた。
「……今日のところは、それだけ」
さっきヴァルトに言ったのと同じ言葉だった。
今日のところは。
それ以外のことは、今日でなくてもいいと言っている。でも今日のことは、今日言える。
レオはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。
「一つ聞いていいか」
「うん」
「お前は、今まで誰かを飼ったことがあるか」
ユナは少し考えた。
「猫を一匹。師匠がいたとき」
「どんな猫だった」
「気難しくて、なでさせてくれなくて、でも寒い夜だけそばに来た」
「……」
「レオさんに少し似てる」
レオは言葉を失った。
「猫と比べるな」
「似てるものは似てる」
「私は魔王だ」
「猫みたいな魔王」
「……」
ユナは少し笑った。
久しぶりに見た笑い方だった。緊張が解けた笑い方。
レオは視線を外した。
外はもう夕方になっていて、空が橙色をしていた。
明日、ヴァルトが来る。
どうなるかは分からない。
でも今日は、まだここにいる。
それだけは、確かだった。
魔王級の魔力反応は、王国の監視網に必ず引っかかる。
その知らせが届くまで、そう時間はかからない。
ユナは調合室で仕事をしていた。レオは裏庭にいた。特に何をするわけでもなく、地面に生えてきた薬草の名前をユナから聞いて、それを覚えようとしていた。覚える必要があるかと言えばない。でも暇だったので。
「フィーバールートはこれか」
「そう。葉の裏が赤いやつ」
「これは」
「それはただの雑草。抜いていい」
「見分けがつかない」
「慣れれば分かる」
そういう会話をしていた。
だから気配に気づいたのは、ユナより先だった。
「来客だ」
ユナが顔を上げた。
「誰か知り合い?」
「知らない。ただし」
レオは立ち上がった。
「いい客ではない」
玄関を回ると、馬が二頭いた。立派な馬だった。村には不釣り合いな、王都で使われるような品種だ。
馬の前に男が立っていた。
三十代か四十代か。長い外套。胸に紋章。整った顔立ちだが、笑っていない。笑う必要を感じていない人間の顔だ。
後ろに護衛が一人。剣を持っている。
「ユナ殿ですか」
「そうですが」
「私はヴァルト。王国の命により参りました」
王国、という言葉が、空気を少し変えた。
ユナは表情を変えなかった。
「何の御用でしょう」
「こちらにいる魔王を引き渡していただきたい」
男——ヴァルトの視線が、レオに向いた。
レオはその視線を受けながら、黙っていた。
「引き渡す」
ユナは繰り返した。
「どういう意味ですか?」
「字義通りです。この魔王は管理下に置かれるべき存在だ。王国がそう判断した」
「根拠は?」
「根拠?」
ヴァルトは少し眉を上げた。驚いたというより、想定外の質問を受けた顔だった。
「貴女に説明する義務はありませんが」
「あります。わたしの家の居候ですから」
しばらく間があった。
ヴァルトはユナを見たのち、レオを見た。
「……話を聞かせてもらえますか。中で」
「どうぞ」
四人が机を囲んだ。
護衛は外に残った。ヴァルトと、ユナと、レオと。
お茶が出た。
ヴァルトはそれを見て、少し目を細めた。状況を読んでいる目だ。
「単刀直入に話します」
「そうしてください」
「この魔王——レオと呼ぶのですか」
「はい」
「彼は、今の飼い魔王制度において、極めて異例の存在です」
「どういう意味ですか」
ヴァルトは外套の内側から、書類を取り出した。羊皮紙に、細かい文字が書かれている。
「百年前の戦争の後、人間は契約魔法を完成させました。魔王を従わせる術です。これにより、現在多くの魔王が各地の貴族や王族のもとで管理されている。これは知っていますか」
「知っています」
「では、その契約魔法の仕組みは?」
ユナは少し考えた。
「魔王に術をかけて、飼い主の命令を聞かせる、と理解しています」
ヴァルトは首を振った。
「表向きはそうです。しかし正確ではない」
レオは黙って聞いていた。
「正確に言えば、一般の飼い魔王は、魔王の力を分割して支配しています」
ユナが眉をひそめる。
「分割?」
「ええ。力を細かく奪い、反抗できなくする」
ヴァルトはレオを見た。
「ですが彼は違う」
「何が」
「一般的な飼い魔王の術は、彼には通じない。力の分割ができない。なぜかというと、彼の魔力が他の魔王と比べて格が違いすぎるからです。それが、彼が本物の魔王と言われる所以だ」
「知っている」
初めて口を開いた。
ヴァルトがレオを見た。
「貴方はご存知でしたか」
「生まれたときから、そう言われてきた」
「そうでしょう。だから問題なのです。王国にとって、制御できない魔王は脅威だ」
「それは分かる。だから今まで放っておかれなかったのだろう」
「追いかけ続けた、と言ってください」
「同じことだ」
「ここからが本題です」
書類を、ユナの前に置いた。
「彼女の術を調べました」
ユナは書類を見た。
細かい記述がある。魔法の解析。術式の図。
「……私の、保護術を?」
「村の事件の報告が王国に届いたとき、魔法の痕跡も一緒に調べました。貴女が彼にかけた術は、通常の保護術ではありません」
「怪我を治すために使った、ただの——」
「ただの保護術なら、魔王には効果がない。魔力の差が大きすぎて、弱い術は弾かれます。しかし貴女の術は弾かれなかった」
ユナは沈黙した。
「なぜだと思いますか?」
答えない。
ヴァルトは続けた。
「貴女の師匠について調べました。三年前に亡くなった薬草師。しかし本来の職は違う。その方は、古い契約魔法の研究者でした」
ユナは目を伏せた。
「……知っています」
「では、その方から何を習いましたか」
「薬草の扱いと、基本的な治療術と」
「それだけですか」
「……それだけです」
ヴァルトは微かに首を振った。
「貴女は気づいていないかもしれませんが、貴女は師匠の研究を、
知らないまま継承している。貴女が彼にかけた術は、百年前に完成したとされる、本来の契約魔法です」
部屋が静かになった。
鳥の声が外から聞こえた。
それ以外、何も聞こえなかった。
「本来の契約魔法」
ユナは繰り返した。
「魔王の力を分割せず、ただ二者を結ぶだけの術です。支配でも拘束でもなく、純粋な契約。百年前の戦争が始まる前に存在した術式で、今は失われたと思われていた」
「……」
「その術が発動した場合、対象の魔王は契約者に完全服従します。命令を断れない。命令を無視できない。命令されたことを、すべて実行する。それが本来の契約魔法の効力だ。ただし術は“命令”にのみ反応します。依頼や会話では発動しません」
レオは、机を見続けていた。
完全服従。
その言葉を聞いて、何かが腑に落ちた気がした。
薪割りを頼まれたとき、断ろうとして、でも断れなかった。あの感覚。命令とも強制とも違う、もっと奥深いところから来る何かに従ってしまった、あの感覚。
「だから」
ユナの声が少し低くなっていた。
「レオさんは……」
「彼が貴女の命令を聞いていたのは、術の効果です」
ユナはテーブルの上の自分の手を見た。
「……知らなかった」
「そうでしょう。しかしそれが事実です。だからこそ、王国はこの状況を管理下に置く必要がある」
「管理下」
「本来の契約魔法で繋がれた魔王と人間の組み合わせは、史上例がない。どのような事態が起きるか分からない。安全のために、彼を引き渡していただきたい」
ユナはしばらく、自分の手を見ていた。
それからゆっくり顔を上げた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「引き渡した後、レオさんはどうなりますか」
ヴァルトは少し間を置いた。
「管理されます」
「それは」
「王国の監督下に置かれます。自由な行動は制限される。しかし命の危険はない」
「自由が制限される」
「安全上の措置です」
ユナは再び口を閉じた。
レオは、その横顔を見ていた。
ユナは怒っていなかった。取り乱してもいなかった。ただ考えていた。何かを、慎重に、丁寧に考えていた。
それがレオには分かった。
一緒にいる時間が、それなりに経ったから。
「ユナ」
ユナが顔を上げた。
「お前は、本当に命令しないのか」
少し間があった。
「レオさん」
「何だ」
「知ってた?」
「何を」
「わたしの術が、そういうものだったこと」
レオは少し黙った。
「術の種類は最初から分かっていた」
「でも言わなかった」
「言う必要がなかった」
「なんで」
「お前が命令しなかったから」
ユナはその答えを聞いて、また自分の手を見た。
しばらく何も言わなかった。
「だから……関係なかった」
「関係なかった……」
「命令が来なければ、術がどういうものかは問題じゃない」
「でも。わたしがその気になれば、あなたを完全に動かせた、ってこと」
「そうなる」
「それは」
ユナは言葉を切って、少し考えた。
「それは、ズルでしょう」
レオはそう主張し、顔を上げた。
「ズル」
レオは繰り返した。
ヴァルトが眉を動かした。
「完全服従できる術を持ちながら、あなたに薪を割ってもらったり、水を汲んでもらったり、買い物を頼んだり。それってズルじゃないですか」
「貴女は知らなかったんでしょう」
「知らなかったけど、でも今知った。だから今から問題になる」
「問題、とは?」
ヴァルトが眉を寄せた。
「あなたが言う通り、この術がそういうものなら」
ユナはレオを見た。
「今までわたしがあなたに頼んでいたことが、全部、あなたの意思じゃなかった可能性がある。それは——」
「違う」
レオは即答した。
「え」
「薪は自分で割った」
「でも術が——」
「命令されたわけではないと言った。前に」
ユナは黙った。
「確かにそう言ったな。あの夜。術の効果は、命令に従わせることだ。命令がなければ効果は出ない。私が自分で動いたことは、術とは関係ない」
「……でも」
「術がかかっていなくても、薪を割ったかどうかは分からない。しかしお前が命令しなかった以上、私が動いた理由は私の側にある」
ユナはしばらく何も言わなかった。
窓の外で風が動いた。
「……わたしには。自分が命令しなかった理由しか分からない」
「それで十分だ」
「本当に?」
「私がそう言っている」
ヴァルトは二人のやり取りを、黙って見ていた。
何かを計算している顔だった。この状況から何を読み取るべきか、王国の人間として何を判断すべきか。そういうことを考えている顔だった。
「話を戻してもいいですか」
ユナは頷いた。
「どうぞ」
「王国の要請をお断りすることは難しい。これは命令に近いものです。貴女が一般の村人である以上、王国に逆らうことは——」
「嫌です」
「は?」
「断ります。権限がない、でしょうか。でも、引き渡しを断る権利はあります。レオさんは今、わたしの家の居候です。わたしが保護しています。それを取り上げることが正当な手続きなら、手続きをとってください。手続きなしに連れていくというなら、お断りします」
ヴァルトは口を閉じた。
「……強引に連れて行くことはしません。今日のところは。王国としても強制連行は望んでいません。村を刺激するからです」
「ありがとうございます」
「しかし話し合いを続ける必要がある。明日、また来ます」
「承知しました」
ヴァルトは立ち上がった。書類を戻し、扉の方へ歩きかけて、止まった。
「一つ聞かせてください」
振り返って尋ねる。
「何でしょう」
「なぜそこまでするのですか。彼は危険な存在です。王国が管理すれば、貴女の生活は今より安全になる。なぜ手放さないのですか」
ユナは少し考えた。
「飼うなら最後まで責任を持つのが、わたしの信条なので」
ヴァルトが眉を上げた。
「……魔王を飼うつもりですか」
ユナは少し考えてから答えた。
「たぶん。わたしの飼い魔王ですから」
「それだけですか」
「今日のところは、それだけです」
ヴァルトは何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに出て行った。
馬の蹄の音が、遠ざかった。
二人になった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ユナはお茶を片付けた。
レオは窓の外を見ていた。
「怒っているか」
「何に」
「私の術が、そういうものだったこと」
レオは少し考えた。
「怒ってはいない」
「本当に?」
「怒るとすれば、命令に使われたときだ。お前はそうしなかった」
「でも。できたんだよ。わたしは、あなたを完全に動かすことができた。それを知らなかったとしても」
「だから?」
「……それが嫌じゃない?」
レオは振り返った。
ユナは本気の顔をしていた。
責任を感じている顔だった。自分が知らずにやったことを、きちんと怖いと思っている顔だ。
「嫌ではない」
「なんで」
「お前が命令しなかったからだ。同じ答えを何度言えばいい」
「何度でも聞きたい」
「……」
レオは少し黙った。
それから言った。
「術を解除しなくていい」
「え」
「今まで通りにしろ。それで問題ない」
ユナは少し驚いた顔をした。
「どうして」
「命令してくる気がないのなら、術があってもなくても同じだ」
「でも万が一、わたしが命令してしまったら」
「したら怒る」
「……そういうもの?」
「そういうものだ」
ユナはしばらく考えた。
「分かった。でも一個だけ約束して」
「何だ」
「わたしが本当に嫌なことを命令してしまいそうになったら、言って。わたしには分からないことがある。あなたが嫌なことが何かを、全部は知らない」
レオは少し目を細めた。
「……言う」
「約束?」
「約束だ」
ユナは頷いた。
それから、少し安堵した顔になった。
「明日また来るって言ってたね、あの人」
「ああ」
「どうしようか」
「どうする気だ」
「引き渡したくない。でも王国を完全に敵に回すのも、村に迷惑がかかる」
「そうだな」
「何かいい方法ある?」
レオは少し考えた。
「私が出て行けば解決する」
「それは嫌」
即答だった。
「なぜ」
「拾ったから」
「それだけか」
ユナは少し間を置いた。
「……今日のところは、それだけ」
さっきヴァルトに言ったのと同じ言葉だった。
今日のところは。
それ以外のことは、今日でなくてもいいと言っている。でも今日のことは、今日言える。
レオはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。
「一つ聞いていいか」
「うん」
「お前は、今まで誰かを飼ったことがあるか」
ユナは少し考えた。
「猫を一匹。師匠がいたとき」
「どんな猫だった」
「気難しくて、なでさせてくれなくて、でも寒い夜だけそばに来た」
「……」
「レオさんに少し似てる」
レオは言葉を失った。
「猫と比べるな」
「似てるものは似てる」
「私は魔王だ」
「猫みたいな魔王」
「……」
ユナは少し笑った。
久しぶりに見た笑い方だった。緊張が解けた笑い方。
レオは視線を外した。
外はもう夕方になっていて、空が橙色をしていた。
明日、ヴァルトが来る。
どうなるかは分からない。
でも今日は、まだここにいる。
それだけは、確かだった。



