ー"彼"と出会ったのは、紅葉の季節だった。ー
山の中腹にある古い神社は、人の気配もほとんどなく、境内の石段には、濡れた落ち葉が静かに張りついていた。その中を、片目を隠した青年ーー楓が、背負い籠を揺らしながら社殿の裏へと足を運ばせる。
「……この辺りに、確か、、」
独り言を呟きながら、視線を地面へ落とす。
目当ては、神社の裏山に自生する薬草だった。
普通なら、こんな山奥にひとりで入る者はいない。
ましてや、人払いの結界がうっすら残る古社の奥など。
――けれど、楓はむしろわくわくしていた。
人より体は弱い。すぐ熱を出すし、傷の治りも遅い。その代わり、なぜか“危険”に対する感覚だけがどこか鈍い。
……いや、正確には怖がるという感情よりも、「興味」のほうが、いつも先に来てしまうのだ。
「……やっと見つけた」
目的の薬草を見つけ、腰を落としたそのときだった。
―ドンッ、、と。
空が割れたような音と共に空気が震えた。
その直後、とてつもない質量の「何か」が地面に叩きつけられる音がした。
「……?」
楓は顔を上げる。
雷でも、倒木でもない。
けれど、明らかに“何か”が落ちてきた音だった。
(神社の方ですかね、、、)
楓は少し考え――そして、音のした方へ歩き出す。
普通なら、逃げる。間違いなく逃げる。
だが楓は、
「……好奇心旺盛すぎるのも、、、困ったものですね」
と、小さく呟いただけだった。
杉林を抜け、岩場に差し掛かった。その先で、
楓は"それ"を見つけた。
「――龍……?」
思わず、声が漏れる。
そこにいたのは、銀色の鱗に覆われた巨大な龍だった。
翼は破れ、腹部には深い裂傷。
血が岩肌に滲み、呼吸も浅い。
神話や伝承に語られる存在が、まるで捨てられた獣のように横たわっている。
普通の人間なら、腰が抜けて動けなくなるような惨状だった。しかしこの怖いもの知らずの人間は、
「……龍とは、また珍しい」
と、感心したように呟いだけだった。
楓は龍の首もとにしゃがみ込み、怪我の具合を真剣な目で観察する。
「……この傷、相当深いですね。
鱗ごと抉られてる、生きているのが不思議なくらいです。」
まるで野生動物でも見つけたかのような言いようだった。
まじまじと観察していると、銀龍の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。氷のような冷たい銀龍の瞳が、楓を捉える。
「――寄るな、人間」
低く、掠れた声。
「食い殺すぞ」
威嚇の言葉とは裏腹に、
その声には力がなかった。
楓は一瞬だけ瞬きをしてから、
「そんな姿で言われても、説得力ありませんよ」
と、笑った。
銀龍は、ぴくりと喉を鳴らす。
「……なんだと……」
「ほんとのことでしょう」
楓は立ち上がらず、距離を保ったまま続けた。
「私は以前、薬師をしていました。宜しければ、手当てしますよ。龍の治療は初めてですが」
「……巫山戯たことを……!!死にたいのか貴様!!!!」
銀龍は、牙を見せて唸る。
だが、身体は動かない。
翼も、脚も、まともに力が入らないようだった。
「このままでは、おそらく君は数刻もしないうちに出血多量で死にます。もうまともに目も見えてないんじゃないですか??」
楓は、静かに告げる。
「それでもいいなら、私は帰りますが」
「……」
銀龍は、悔しそうに目を細めて唸った。
しばらく沈黙が続いた後、やがて低く吐き捨てるように言う。
「……好きにしろ」
こんなところで死ぬわけにはいかない、、、銀龍は続けてそう言った。
楓は、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
そう言って、立ち上がる。
「では、私の家へ行きましょう」
「……は?」
銀龍は、目を見開いた。
「ここでは手当てできませんから。山奥ですが、古い小屋があります」
「……正気か、人間」
「さあ、どうでしょう」
楓は目を細めた。
「……この姿では、動きにくい」
銀龍は舌打ちすると、その巨体が淡く光を帯びた。
次の瞬間、、銀色の鱗は消え、そこに立っていたのは、銀髪の青年だった。
長い髪、鋭い目元、人間離れした気配だけが、その正体を物語っている。
「……これなら、いいだろう」
楓は、じっと青年を見つめた。
「……君、人にも化けられるんですか」
「何だその反応は」
「いえ、単純に感心しているだけです」
あまりにも遠慮なく見つめるので、銀龍――青年は眉をひそめる。
「……じろじろ見るな」
「すみません。でも、珍しくて」
「……」
ため息混じりに視線を逸らす青年に、楓は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それから、楓は山道を支えながら人間の姿になった龍を歩かせ、自身の住む古い小屋へと向かう。
途中、銀髪の青年は何度もよろめいた。見た目は人間でも、傷は龍のままなのだろう。
「……なぜ、逃げなかった」
不意に、青年が言った。
「普通の人間なら、悲鳴を上げて逃げるだろ」
「そうですね」
楓は頷いた。
「たぶん、私は異常なんだと思います」
「……は?」
「普通の人より、恐怖に対しての感覚ががズレているというか」
「自覚はあるのか」
「そこまで馬鹿じゃないですから」
そう言って、楓は少しだけ困ったように笑った。
「でもそのおかげで、私は君を見殺しにせずに済みました」
楓は少し眉尻を下げた。
銀龍はというと、先ほどの威厳は何処へやら。呆れて物が言えないという様子だった。
「……意味がわからん」
「よく言われます」
楓はなぜか嬉しそうだった。
ーーーーーーーーーーー
小屋に着く頃には、青年の息はかなり荒くなっていた。
中に入ると、楓はすぐに布団を敷き、傷口を露わにするよう促す。
「……手際がいいな」
「えぇ、慣れてますから」
そう言いながら、楓は淡々と消毒をし、薬草をすり潰し、傷口へと塗り込んでいく。
銀龍は歯を食いしばりながら、それに耐えていた。
「……痛いですか」
「……うるさい」
「まぁ、痛いですよね」
「……わかってるなら聞くな」
そのやり取りに、銀龍は少しだけ力が抜けるのを感じた。
処置が一段落した頃、楓は湯を沸かして茶を淹れた。
「……名前は」
唐突に、楓が尋ねる。
「何?」
「君の名前です」
「俺の名は、教えるつもりはない」
銀龍は、即答した。
「お前ら人間と違って、龍は軽々しく名を明かさないからな」
「そうですか」
楓は、特に気にした様子もなく頷いた。
「では、私が勝手に付けますね」
「……は?」
「だって、名前が分からなくては呼びにくいでしょう」
「勝手な……」
抗議の言葉を遮るように、
楓は窓の外を見た。
ちょうど、風に煽られた紅葉が、ひらりと舞い落ちる。
「……紅葉(もみじ)」
「……何だと」
「今、思いつきました」
銀龍は、眉を吊り上げる。
「ふざけるな」
「ふざけてません」
楓は、真顔だった。
「紅葉。ちょうど今の季節でしょう?」
「……単純すぎる」
「覚えやすいですよ」
それに、と楓が続けた。
「私が楓で君が紅葉、なんだかお揃いみたいですね」
そう言って笑った。
「お前はさっきから何を勝手に、、、」
言いかけて、銀龍は口を閉じた。『お前はさっきから何を勝手に決めているんだ』そう言って怒ることもできたのだが、なぜか、楓につけられた名前が胸の奥に引っかかった。
――悪くない。
不覚にもそう思ってしまった。しかし、それを認めるのは非常に癪だった為、
「……好きに呼べ」
吐き捨てるように言った。
楓は、少し驚いた顔をしてから、ふっと微笑んだ。
「ありがとうございます、紅葉」
「……礼を言われる筋合いはない」
「そうですか」
そう言いながらも、楓の声は、どこか嬉しそうだった。
ーーー夜。
雨が降り始め、小屋の屋根を叩く音が響く。
紅葉は布団に横になり、天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……なぜ、俺を助けた」
「怪我をしていたからです」
「それだけか」
「ええ」
即答だった。
「理由が必要ですか」
「……いや」
紅葉は、目を閉じる。
「……変な人間だ」
「よく言われます」
楓は、火に薬缶をかけながら続けた。
「でも、本音を言えば龍を治療することに少なからず興味を持ったからですね、どんな薬が効くのか気になるじゃないですか」
「正直すぎるわ」
「聞いたのは君でしょう」
楓は紅葉の方を見る。
「……紅葉」
「なんだ」
「君、相当無茶をしましたね」
楓は少し声を低くしていう。
「……」
「龍同士の諍いですか」
紅葉は、わずかに目を開けた。
「……なぜ、わかる」
「傷のつき方で、なんとなく」
楓は、淡々と答える。
「人より遥かに大きな君に、人の武器でここまで深手を負わせるのは限りなく不可能に近いです。野生動物とも考えにくい、そうなると必然的に龍同士の争いとしか考えられません。」
「……」
「……あぁ、負けた」
少しの沈黙の後、紅葉は吐き捨てるように言う。
「群れの長に刃向かったんだ。それで、力及ばずこのザマさ。全く、情けないったらありゃしねえ、、、」
その言葉に、楓は首を振った。
「生きているなら、十分です」
「……」
「君が嫌でなければ、ここで少し休んでいってはどうですか?」
紅葉は、思わず楓を見た。
「……本気で言ってるのか」
「はい」
君は本意じゃないかもしれませんがね、と楓は微笑む。
「長いこと一人なので、暇だったんです」
紅葉は、何も言い返せなかった。
しばらく沈黙が流れ、やがて、楓がぽつりと呟く。
「……紅葉」
「なんだ」
「君、本当の名前を呼ばれないのは、寂しくないですか」
「……別に」
「そうですか」
楓は、少しだけ目を伏せ、「でも」と穏やかに言った。
「私の中では、君は紅葉です」
紅葉が僅かに目を見開いた。
名を与えられることの重さを、銀龍は誰よりも知っている。だからこそ、この人間がそれを自分に軽く差し出していることが恐ろしくもあり――同時に少しだけうれしかったのだ。
「……勝手なやつだ」
「そうですね」
「……だが」
紅葉は、目を閉じたまま言う。
「今は、お前の望むとおりにしてやる」
楓は、少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、紅葉」
その呼び方に、紅葉の胸の奥が、わずかに温かくなる。
――誰にも名を明かすつもりはない。
ーーだが。
この人間に付けられた名前だけは、受け入れずには居られなかった。雨音が遠く聞こえる中、小屋の灯りは、静かに揺れていた。
こうして――
一人の青年と、銀龍、もとい紅葉の、奇妙な関係は始まった。
山の中腹にある古い神社は、人の気配もほとんどなく、境内の石段には、濡れた落ち葉が静かに張りついていた。その中を、片目を隠した青年ーー楓が、背負い籠を揺らしながら社殿の裏へと足を運ばせる。
「……この辺りに、確か、、」
独り言を呟きながら、視線を地面へ落とす。
目当ては、神社の裏山に自生する薬草だった。
普通なら、こんな山奥にひとりで入る者はいない。
ましてや、人払いの結界がうっすら残る古社の奥など。
――けれど、楓はむしろわくわくしていた。
人より体は弱い。すぐ熱を出すし、傷の治りも遅い。その代わり、なぜか“危険”に対する感覚だけがどこか鈍い。
……いや、正確には怖がるという感情よりも、「興味」のほうが、いつも先に来てしまうのだ。
「……やっと見つけた」
目的の薬草を見つけ、腰を落としたそのときだった。
―ドンッ、、と。
空が割れたような音と共に空気が震えた。
その直後、とてつもない質量の「何か」が地面に叩きつけられる音がした。
「……?」
楓は顔を上げる。
雷でも、倒木でもない。
けれど、明らかに“何か”が落ちてきた音だった。
(神社の方ですかね、、、)
楓は少し考え――そして、音のした方へ歩き出す。
普通なら、逃げる。間違いなく逃げる。
だが楓は、
「……好奇心旺盛すぎるのも、、、困ったものですね」
と、小さく呟いただけだった。
杉林を抜け、岩場に差し掛かった。その先で、
楓は"それ"を見つけた。
「――龍……?」
思わず、声が漏れる。
そこにいたのは、銀色の鱗に覆われた巨大な龍だった。
翼は破れ、腹部には深い裂傷。
血が岩肌に滲み、呼吸も浅い。
神話や伝承に語られる存在が、まるで捨てられた獣のように横たわっている。
普通の人間なら、腰が抜けて動けなくなるような惨状だった。しかしこの怖いもの知らずの人間は、
「……龍とは、また珍しい」
と、感心したように呟いだけだった。
楓は龍の首もとにしゃがみ込み、怪我の具合を真剣な目で観察する。
「……この傷、相当深いですね。
鱗ごと抉られてる、生きているのが不思議なくらいです。」
まるで野生動物でも見つけたかのような言いようだった。
まじまじと観察していると、銀龍の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。氷のような冷たい銀龍の瞳が、楓を捉える。
「――寄るな、人間」
低く、掠れた声。
「食い殺すぞ」
威嚇の言葉とは裏腹に、
その声には力がなかった。
楓は一瞬だけ瞬きをしてから、
「そんな姿で言われても、説得力ありませんよ」
と、笑った。
銀龍は、ぴくりと喉を鳴らす。
「……なんだと……」
「ほんとのことでしょう」
楓は立ち上がらず、距離を保ったまま続けた。
「私は以前、薬師をしていました。宜しければ、手当てしますよ。龍の治療は初めてですが」
「……巫山戯たことを……!!死にたいのか貴様!!!!」
銀龍は、牙を見せて唸る。
だが、身体は動かない。
翼も、脚も、まともに力が入らないようだった。
「このままでは、おそらく君は数刻もしないうちに出血多量で死にます。もうまともに目も見えてないんじゃないですか??」
楓は、静かに告げる。
「それでもいいなら、私は帰りますが」
「……」
銀龍は、悔しそうに目を細めて唸った。
しばらく沈黙が続いた後、やがて低く吐き捨てるように言う。
「……好きにしろ」
こんなところで死ぬわけにはいかない、、、銀龍は続けてそう言った。
楓は、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
そう言って、立ち上がる。
「では、私の家へ行きましょう」
「……は?」
銀龍は、目を見開いた。
「ここでは手当てできませんから。山奥ですが、古い小屋があります」
「……正気か、人間」
「さあ、どうでしょう」
楓は目を細めた。
「……この姿では、動きにくい」
銀龍は舌打ちすると、その巨体が淡く光を帯びた。
次の瞬間、、銀色の鱗は消え、そこに立っていたのは、銀髪の青年だった。
長い髪、鋭い目元、人間離れした気配だけが、その正体を物語っている。
「……これなら、いいだろう」
楓は、じっと青年を見つめた。
「……君、人にも化けられるんですか」
「何だその反応は」
「いえ、単純に感心しているだけです」
あまりにも遠慮なく見つめるので、銀龍――青年は眉をひそめる。
「……じろじろ見るな」
「すみません。でも、珍しくて」
「……」
ため息混じりに視線を逸らす青年に、楓は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それから、楓は山道を支えながら人間の姿になった龍を歩かせ、自身の住む古い小屋へと向かう。
途中、銀髪の青年は何度もよろめいた。見た目は人間でも、傷は龍のままなのだろう。
「……なぜ、逃げなかった」
不意に、青年が言った。
「普通の人間なら、悲鳴を上げて逃げるだろ」
「そうですね」
楓は頷いた。
「たぶん、私は異常なんだと思います」
「……は?」
「普通の人より、恐怖に対しての感覚ががズレているというか」
「自覚はあるのか」
「そこまで馬鹿じゃないですから」
そう言って、楓は少しだけ困ったように笑った。
「でもそのおかげで、私は君を見殺しにせずに済みました」
楓は少し眉尻を下げた。
銀龍はというと、先ほどの威厳は何処へやら。呆れて物が言えないという様子だった。
「……意味がわからん」
「よく言われます」
楓はなぜか嬉しそうだった。
ーーーーーーーーーーー
小屋に着く頃には、青年の息はかなり荒くなっていた。
中に入ると、楓はすぐに布団を敷き、傷口を露わにするよう促す。
「……手際がいいな」
「えぇ、慣れてますから」
そう言いながら、楓は淡々と消毒をし、薬草をすり潰し、傷口へと塗り込んでいく。
銀龍は歯を食いしばりながら、それに耐えていた。
「……痛いですか」
「……うるさい」
「まぁ、痛いですよね」
「……わかってるなら聞くな」
そのやり取りに、銀龍は少しだけ力が抜けるのを感じた。
処置が一段落した頃、楓は湯を沸かして茶を淹れた。
「……名前は」
唐突に、楓が尋ねる。
「何?」
「君の名前です」
「俺の名は、教えるつもりはない」
銀龍は、即答した。
「お前ら人間と違って、龍は軽々しく名を明かさないからな」
「そうですか」
楓は、特に気にした様子もなく頷いた。
「では、私が勝手に付けますね」
「……は?」
「だって、名前が分からなくては呼びにくいでしょう」
「勝手な……」
抗議の言葉を遮るように、
楓は窓の外を見た。
ちょうど、風に煽られた紅葉が、ひらりと舞い落ちる。
「……紅葉(もみじ)」
「……何だと」
「今、思いつきました」
銀龍は、眉を吊り上げる。
「ふざけるな」
「ふざけてません」
楓は、真顔だった。
「紅葉。ちょうど今の季節でしょう?」
「……単純すぎる」
「覚えやすいですよ」
それに、と楓が続けた。
「私が楓で君が紅葉、なんだかお揃いみたいですね」
そう言って笑った。
「お前はさっきから何を勝手に、、、」
言いかけて、銀龍は口を閉じた。『お前はさっきから何を勝手に決めているんだ』そう言って怒ることもできたのだが、なぜか、楓につけられた名前が胸の奥に引っかかった。
――悪くない。
不覚にもそう思ってしまった。しかし、それを認めるのは非常に癪だった為、
「……好きに呼べ」
吐き捨てるように言った。
楓は、少し驚いた顔をしてから、ふっと微笑んだ。
「ありがとうございます、紅葉」
「……礼を言われる筋合いはない」
「そうですか」
そう言いながらも、楓の声は、どこか嬉しそうだった。
ーーー夜。
雨が降り始め、小屋の屋根を叩く音が響く。
紅葉は布団に横になり、天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……なぜ、俺を助けた」
「怪我をしていたからです」
「それだけか」
「ええ」
即答だった。
「理由が必要ですか」
「……いや」
紅葉は、目を閉じる。
「……変な人間だ」
「よく言われます」
楓は、火に薬缶をかけながら続けた。
「でも、本音を言えば龍を治療することに少なからず興味を持ったからですね、どんな薬が効くのか気になるじゃないですか」
「正直すぎるわ」
「聞いたのは君でしょう」
楓は紅葉の方を見る。
「……紅葉」
「なんだ」
「君、相当無茶をしましたね」
楓は少し声を低くしていう。
「……」
「龍同士の諍いですか」
紅葉は、わずかに目を開けた。
「……なぜ、わかる」
「傷のつき方で、なんとなく」
楓は、淡々と答える。
「人より遥かに大きな君に、人の武器でここまで深手を負わせるのは限りなく不可能に近いです。野生動物とも考えにくい、そうなると必然的に龍同士の争いとしか考えられません。」
「……」
「……あぁ、負けた」
少しの沈黙の後、紅葉は吐き捨てるように言う。
「群れの長に刃向かったんだ。それで、力及ばずこのザマさ。全く、情けないったらありゃしねえ、、、」
その言葉に、楓は首を振った。
「生きているなら、十分です」
「……」
「君が嫌でなければ、ここで少し休んでいってはどうですか?」
紅葉は、思わず楓を見た。
「……本気で言ってるのか」
「はい」
君は本意じゃないかもしれませんがね、と楓は微笑む。
「長いこと一人なので、暇だったんです」
紅葉は、何も言い返せなかった。
しばらく沈黙が流れ、やがて、楓がぽつりと呟く。
「……紅葉」
「なんだ」
「君、本当の名前を呼ばれないのは、寂しくないですか」
「……別に」
「そうですか」
楓は、少しだけ目を伏せ、「でも」と穏やかに言った。
「私の中では、君は紅葉です」
紅葉が僅かに目を見開いた。
名を与えられることの重さを、銀龍は誰よりも知っている。だからこそ、この人間がそれを自分に軽く差し出していることが恐ろしくもあり――同時に少しだけうれしかったのだ。
「……勝手なやつだ」
「そうですね」
「……だが」
紅葉は、目を閉じたまま言う。
「今は、お前の望むとおりにしてやる」
楓は、少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、紅葉」
その呼び方に、紅葉の胸の奥が、わずかに温かくなる。
――誰にも名を明かすつもりはない。
ーーだが。
この人間に付けられた名前だけは、受け入れずには居られなかった。雨音が遠く聞こえる中、小屋の灯りは、静かに揺れていた。
こうして――
一人の青年と、銀龍、もとい紅葉の、奇妙な関係は始まった。
