冷遇令嬢、最恐軍医に嫁ぎました~大正深愛綴り~


 その夜、屋敷に一本の電話が入った。勇心が急な会食で帰宅が遅れるという。

「そうですか……承知いたしました」

 電話を受けたタミが、紫乃にそう伝えると、紫乃は小さく頷いた。

(……夕食の時に、彫り細工のお礼を伝えようと思っていたのに)

 少しだけ、胸がしゅんと縮む。けれど、仕方のないことだと自分に言い聞かせ、紫乃は一人で夕食の席についた。
 食卓には、肉料理と魚料理が並んでいた。どれも、勇心の好物ばかり。

(私が食べても、仕方ないのに……)

 箸を持つ手が、ふと止まる。紫乃は、湯気の立つ料理を見つめたまま、遠い記憶に沈んでいく。

(……お父様も、よく“急な会食”と称して、花街へ出かけていた。芸子の洋子さんと出会ったのも、あの頃だった)

 紫乃の胸に、重たいものが沈んでいく。
 年の離れた夫。目の不自由な妻。軍医という仕事を支えることもできない無力さ。

(……私なんかじゃ、物足りないのかもしれない)

 けれど、ふと指先に残る、薬膏のぬくもりを思い出す。
 あの夜、勇心が自分の手に塗ってくれた、優しい手つき。あの距離で交わした視線。「この距離なら、俺の顔がわかるのか?」と、そっと頬に触れてくれたあの瞬間。

(……信じたい。あの優しさを)

 紫乃は、そっと箸を取り直した。
 一口、口に運ぶ。味噌の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

(勇心様が帰ってきたら、ちゃんとお礼を言おう。……それから、もう少しだけ、近づけたらいいな)

 夜の静けさの中、紫乃の胸に、小さな灯がまた一つ灯った。