朝の出来事から数時間が経ち、紫乃はまだ胸の奥のざわめきを引きずっていた。
けれど、じっとしていると、余計に勇心の感触や匂いを思い出してしまう。
(……何か、できることを探さなければ)
紫乃はわずかに認識できる視界を頼りに、壁伝いに廊下を歩いていた。
白木の床に足音を立てぬよう、そろりそろりと歩く。その姿は、まるで屋敷の空気に溶け込むように静かだった。
「紫乃様? どちらへ……?」
突然背後から声をかけてきたのは、女中のタミだった。
紫乃は振り返り、小さく会釈して躊躇いがちに口を開く。
「……あの、タミさん。私にも、何かお手伝いをさせていただけませんか?」
「えっ……?」
タミは目を丸くした。屋敷の女主人である紫乃が、家事を申し出るなど想定外だったのだろう。
「実家では、ずっと家のことをしておりましたので……何もせずにいると、落ち着かなくて」
「えっ!? ご実家で、家事をなさっていたのですか……?」
紫乃の声は控えめだが、その瞳には確かな意志が宿っていた。
タミは、体の前でぎゅっと握りしめている紫乃の手に視線を落とした。そこには、名家の令嬢とは思えぬほどに、赤くただれている手の甲が目に留まった。
タミは暫しの沈黙の後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「では……簡単なものを、お願いしてもよろしいでしょうか? お洗濯物を干したり、花の水やりなど……」
「はい、喜んで!」
紫乃は、無理難題を押しつけているのは重々承知していた。それでも、帰る場所がない紫乃にとって、篁家で過ごすうえで自分の居場所をつくりたかったのだ。



