きみが春なら

◇ ◇ ◇ ◇

ある日の夜。いつものように過ごしていると突然、ドアをノックされた。
隠れ家であるこの場所を知る人間はいないはずだ。ダニーと顔を見合わせる。

そうしているうちにまたコンコン、とドアを叩く音。

「……」

ダニーがワインボトルを後ろ手に隠し持ち、慎重にドアに近付いた。

「やぁ。邪魔するよ」
「アーサー!?」

その名を聞き、弾かれたように立ち上がる。

驚くダニーを押しのけどかどかと入ってきたのはロシアに幾つも存在する詐欺グループの実質的なリーダー、アーサーだった。

「久しぶりだな、イーヴァン。どうした?最近大人しいそうだが」
「……どうしてここを知ってる?」
「お前たちの縄張りは、金を持った観光客で溢れてる。今が稼ぎ時なんじゃないのか」

俺の問いに答える気は無いらしい。
金髪をオールバックに固め黒のスーツを着たアーサーは、我が物顔でソファに腰かけ煙草をふかす。

「何の用だ」
「君たちに協力を頼みたい。久しぶりにデカい案件だ」
「協力?」

アーサーの持つ威圧感に少々たじろぎつつ、ダニーが空き缶を差し出す。

「五日後。大通りのメインバンクに多額の金が運び込まれる」

煙草の煙が、細く天井に上る。

「ある大会社の社長が、月に一度車で乗り付け金を預けに来るんだ。そこに奇襲をかけて車ごと奪う」
「なっ……!?バカな。いよいよ大犯罪じゃないか」
「そうだ。だから人数が要る。相手は警備の人間も連れているが、大勢で一気に攻めれば簡単だ。報酬は山分け。君たちも大切な仲間たちも、当分食うに困らない」
「すごいじゃないか!」

ダニーは目を輝かせ、身を乗り出している。

「確かな筋の情報なんだろうな?」
「もちろん」
「詳しい話を聞いておいてくれ、イーヴァン!お、俺は仲間を集めておく!」

家を飛び出すダニーを、アーサーが笑いながら見送る。

「ははは、張り切ってやがる。まだあのジジイとツルんでるんだな?」
「……」
「まぁ奴には鞄持ち程度しか期待しちゃいない。せいぜい若い仲間を集めてくれればいいが」

沈黙が続き、部屋中に甘い匂いの煙が満ちる。

アーサーが二本目の煙草に火をつけた頃
「……捕まったら処刑だ。俺はのれない」
そう口を開いた。

アーサーが眉根を寄せる。射竦めるような視線から逃れるべく、立ち上がった。

「らしくないなぁ。怖いのか?」
「違う!」
「じゃあ、」
ねっとりした声が全身に絡みついてくる。

「命を懸けられない理由でも出来たか」

何も言えずにいる俺の背中に、

「── 彼女は恋人か?」

そんな言葉が飛んできた。

「何?」
「あの華奢で可愛らしい子だよ。ホットドッグ屋の」

耳を疑った。振り返る俺の顔を見て、アーサーは楽しげに笑う。

「異人をものにするとは。お前も隅に置けないなぁ」

心臓が早鐘を打っている。

まさか。まさか。
どこで、
どこで見られた?

「あの子のカラダ。一晩幾らくらい稼げるんだろうな?」

「……ふ、っざけんな!」

耳元で囁かれ我を忘れた俺は、アーサーに掴みかかっていた。

「調子に乗るなよ、イーヴァン?」

地の底を這うような、重たく低い声。

「詐欺のやり方を一から叩き込んでやったのは誰だと思ってる。貴様が今生きているのは誰のおかげか忘れたか?」

思わず手の力が緩んだ瞬間に襟首を掴まれ、思い切り投げ飛ばされた。

「今更、陽の当たる場所に出ていけると思うなよ!」

テーブルの角に顔を強打し、あまりの痛みに目が眩む。口内には瞬く間に血の味が広がった。

「五日後だ。協力してくれるだろ?親友」

俺の顎を掴んだアーサーがにやりと笑った。


── 果てしない絶望を感じていた。

どこまでいっても自分は自分である事に。
自分が、自分でしかない事に。

彼女が少しだけ見せてくれた希望の光は
もう全く届かなくなっていた。