きみが春なら

雨が強くなっていたが、何となく走る気になれなかった。
夏の夜明けだというのに天気が悪いせいでまだ薄暗い。
ぬかるんだ道をだらだら歩きながら。迫る足音にはとっくに気付いている。

「……」

ぱしゃ、と水を跳ねる音が
すぐ後ろで止まった。

「やっぱり。あんたか」

数ヶ月ぶりに見るその男はそんな気がしてた、と続けた。
牢に拘束していた頃とは違い、健康そうな姿を取り戻している。冷たい雨の中で向かい合う。

「どういうつもりだ」
「は」
「これ。ハルが作ったんだろ?」
その手には紙袋と、俺の傘がある。

「よくわかるな?見ただけで」
「わかるさ。何回も食べてきた」

ちく、と。なぜか胸が疼いた。

「どういうつもりと言われても。俺は命令に従っただけだ」
「……ハルが。俺に届けろって?」
「そうだ。もう帰ったなら、傘返せ」

「── 泣いて、ないか」

傘を受け取った時、虚ろな目をしたイーヴァンにそう尋ねられた。

「……泣いてるよ。陰で」

口が勝手に答えていた。

「でも、俺たちの前では無理して笑ってる。」

イーヴァンが唇を噛む。そのまま踵を返そうとすると。

「待ってくれ」

聞き逃しそうになるほど弱々しい声だった。

「ハルは……銃声をすごく怖がるんだ」
「なに?」
「子供の頃に、目の前で父親を銃殺されてる」


── 『マナト』。

俺の名を呼ぶ彼女の声が
瞬間、何故か蘇る。


書庫で見た、涙。
震えていた手。
淋しそうな笑顔。


「守ってやってくれ。……頼む」

ずぶ濡れで言う男の頬に流れているのが雨なのか涙なのか、わからない。
縋るような視線に背を向け、今度こそ立ち去った。