きみが春なら

◇ ◇ ◇ ◇

日付もとっくに変わった頃。客が途切れた隙に走って家に帰った。
窓から明かりが漏れているのを確認し、ますますスピードを上げる。
乱暴に鍵を開け中へ飛び込むと、ソファに座っていたハルが驚いた顔で立ち上がった。
膝に手を付き、あがった息をしばらく整える。

「……何で」

嘘だよな、とか間違いだろ、なんて
そんな言葉に何の意味もなかった。
今にも泣き出しそうな君の表情が、現実である事を物語っていた。

「やっぱり。やっぱりもっと早く結婚すればよかった」
俺の胸に倒れ込む君を、強く強く抱きしめた。
「紙切れ一枚の話だったのに。そうすればこんな事にならなかったのに」

今更遅すぎる後悔を、それでもせずにはいられない。
だって、もう少しだった。
本当に、もう少しで手が届いたんだ。

「イーヴァン。どうしよう……どうしよう」

ハルの体はがくがく震えていた。
「あなた以外の人と、なんて。私……」
両肩を掴み真っ直ぐに君を見る。

「させないよ。絶対、そんな事させない」
「でも。昼間、王子様がお店に来て……もう覆らないって。決定事項だって言ったの」
ハルは両手で顔を覆う。

「二人で逃げよう。また汽車に乗って。今度はうんと遠くへ」
「……二人、で?」
「当たり前だろ。手放せる訳ない」

潤んだ瞳が不安気に揺れる。
「出来るかしら」
「出来るさ。俺の前職、何だと思ってる」
そう断言すると、少しだけ笑ってくれた。

「大丈夫。式まで一週間あるんだろ。上手い方法を必ず考える」
「……」
「今夜はもう休もう。きっと眠れてないだろうなと思って戻ってきたんだ」

ベッドに腰かけ、彼女の手を引いた。

「店が混んでるから、少ししたら仕事に戻るけど。君が眠るまでは側にいるよ」

── 強くいよう、と思った。
たとえ虚勢でも、
君が安心して眠りにつけるまでは。