「はじめまして堀川葵さん。あなた、ここがどういう場かおわかり?」
美と気品に圧倒されて、息をするのも忘れそうになる。
一歩踏み出せば、飲み込まれてしまいそうな気配。
「わかっています……」
静かな圧が、空気を張り詰めさせる。
「四ノ宮の人間と一緒になるって、あなたが思ってるよりずっと重いことよ」
「茉白っ……」
「璋は黙ってなさい」
ぴたりと遮る宝生さんの声。
彼女の視線は、あたしを捉えたまま。
「わかりません、先のことなんて……」
ただ、今の正直な想いを言葉にのせる。
「正直、あなたに会うのも怖かったです。家柄だって、立場だって、何もかも違いすぎるから」
比べ始めたらきりがないし、暗い気持ちになるだけ。
一瞬、自分の視線が揺れる。
「それでも――」
顔をあげて、まっすぐに見る。
「それでも、諦められないんです」
「欲しいのは、璋さんただひとりです」
沈黙を破るように、低い声が落ちる。
「……俺もや」
璋さんの言葉に、胸の奥が強く震えた。
「茉白さんにとって、鳥居さんがそうであるように」
「――あたしにとっては、四ノ宮璋さんなんです」
その瞬間。
璋さんの瞳に灯っていた絶望が、鮮やかな熱に塗り替えられた。
「……葵」
次の瞬間、強く腕を掴まれた。
「もう、離さん」
そのまま、引き寄せられる。
「……っ」
腕の中の体温が、あまりにも現実で。
逃げていた時間が、一気に戻ってくる。
「ですってよ、璋、良かったじゃない」
「……言うたやろ。葵はめっちゃええ女やって」
「認めてあげるわ」
茉白は、ふっと笑った。
「……ありがとう。璋の隣に立つのが、あなたで良かったわ」
そう言って宝生さんは、カップを一口啜った。
その目はもう、試すものじゃない。
「……いいわ。璋は、あなたに返す」
「だから――最後まで、手放さないで」
「宝生さん……」
「じゃ、破談ってことで。璋、葵さんを幸せにしたげなさいよ」
あっさりとした声で、手を震る。
「あぁ、茉白もな」
「余計なお世話よ……でも」
軽く肩をすくめたあと、宝生さんは真面目な顔で言う。
「お互い、ここからが、本当の正念場なのだから」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「堀川さん、ありがとうございました」
鳥居さんの穏やかな声が、空気をやわらかくほどく。
「そんな、鳥居さんのおかげですっ……」
彼がいなければ、ここまで来られなかった。
あたしは改めてお辞儀をする。
「さあ、次は葵さんの番です、言いたいこと全部ぶつけてきてくださいね」
いたずらっぽく笑うその顔に、背中を押される。
――もう、逃げない。
***
玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、静かな部屋。
繋がれたままの手だけが、やけに熱い。
「……あたし、まだ怒ってるんだからね」
「うん……」
「……勝手に決めて、勝手に離れてっ……」
「うん……」
手をひかれたまま、ソファに座らされる。
座りなれた感触なのに、まだ張り詰めたままの心。
「言いたいこと……いっぱい……あるんですっ」
「うん……ちゃんと……聞く」
「……重荷だった?……」
ずっと、聞けなかった言葉。
「ちゃうよ……そんなわけないやろ」
低く、でも震えるくらい優しい声。
(あぁ……もう、だめ)
「……あたしも、ごめんなさい」
「……逃げたんじゃないのに……」
「ちゃんと向き合う前に、璋さんの手を離してしまった……」
溢れ出した涙と一緒に、止まっていた時間が動き出す。
「……ずっと寂しかったっ……璋さんが……足りないっ……」
「……俺もや……」
璋さんが小さく息を吐く。
「死ぬほど足りんかった」
そのまま、ゆっくり向き合う。
「……ごめん。もう、逃げへん」
その声に、迷いはなかった。
「…………触れてもええ?」
忘れていた鼓動が、跳ねる。
あたしは、小さく頷いた。
次の瞬間、そっと抱き寄せられる。
さっきまでとは違う。
壊さないように、確かめるみたいに。
(…………璋さんだ)
璋さんの香りと腕の中にいる実感がわいて、ぽろぽろと涙が止まらなかった。
璋さんが、あまりにも優しく甘やかす声でささやくから。
「……もう一人で決めへん」
耳元で、低く落ちる声。
「……あたしも、一人で決めない」
「守るよ……一緒に、守ろ」
あたしは、広い背中を力一杯、抱きしめ返す。
璋さんが、安心したのか、少しだけ小さく笑った。
その声が、ずっと凍っていたあたしの心を、ゆっくりと溶かしていく。
「ほんまに奪いに来るとは思わんかった」
「鳥居さんのおかげです。……宝生さんも」
そう口にすると、璋さんが少しだけ目を細めた。
「あいつ、最初から全部わかってたんかもしれんな」
「茉白さんと鳥居さん……幸せになりますよね」
「なるやろ。……あいつもやっと、自分の欲しいもんを自分で選べたんやから」
その声音はどこかやわらかくて、敵だったはずの相手への、静かな祝福みたいに聞こえた。
「俺も、葵のおかげで覚悟できたわ」
腕をほどかれて、向かい合わせになる。
まっすぐに見る瞳には、あの日の揺らぎは消えていた。
「一緒に、四ノ宮のばあちゃんとこ行ってくれる?」
「いのさん……」
嵐山でのあの姿を思い出すと、少しだけ怖い。
でも。
「……はい」
迷いは、もう、無い。
「璋さんが隣にいてくれるから、大丈夫です」
ぎゅっと、手を握られる。
離さない、って言葉の代わりみたいに。
「葵……」
改まって名前を呼ばれる。
「…………触れてもええ?」
もう一度。
さっきとは違う色に気づいた。
「……はい」
その返事を聞いた瞬間、
璋さんの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
重なった唇は
静かで、ただただ優しく。
それでも――確かなものがあった。
(この先がどんな場所でも)
(それでも、あたしは――この人の隣にいたい)
――もう二度と、この手は離さない。
――もう二度と、この心は離れない。



