(……最悪や)
ベッドに腰を下ろし、天井を仰ぐ。
枕からも、葵と同じシャンプーの香りがして逃げ場がない。
目を閉じても、無駄やった。
浮かぶのは――
風呂上がりの、火照った顔。
コーラルレッドに染まった、葵の唇。
(……なんで、あんなことしてん)
触れる理由を、探しただけやろ。
喉が、ひりつく。
さっき風呂上がりの葵が、そのリップをつけて出てきたとき。
松原に「かわいい」と言われた、あの唇。
(……俺が選んだ色、やぞ)
ショッピングモールで声かけられたときもそうやった。
『……俺の連れに、気安く触れんな』
気づいたら、口が先に動いてた。
考える前に、身体が引き寄せてた。
あの瞬間だけは、理性も立場も、全部吹き飛んでた。
(……独占欲、丸出しや)
後輩で、部下で、同居中。
守る立場のはずやのに。
――でもほんまは。
(……めちゃくちゃ触りたい)
甘やかして。
距離を縮めて。
期待させて。
一番タチ悪いんは、俺や。
『これ以上、触れたらあかん』
あれは葵やなくて、自分に言うた言葉やった。
(……戻られへん)
『男が女にリップ贈る意味、知ってる?』
『――「キスしたい」って意味だからね』
雪乃の、あの得意げな顔が浮ぶ。
(全部わかってて言ったな……ほんま腹立つ)
でも。
新人時代の頑張りしか知らない、
甘えベタな彼女が、俺の腕の中で泣いた。
あの泣き顔を見た瞬間、線引きなんか、とっくに消えてたんやろな。
(……先に壊れるんは、俺やわ)
葵が、近づくたびに。
笑うたびに。
名前を呼ぶたびに。
全部、壊したくなる。
(……ほんま、地獄やな)
また一つ、持て余す熱を抱えながら、俺は静かに目を閉じた。
***
あたしは、いつも通りの顔で、仕事をする。
でも視線は、無意識に彼を追っていた。
(……あ)
休憩室で、他の女性と話してる。
外では微塵も感じさせない、完璧な「上司」の男の顔。
あたしを翻弄したあの熱い指先なんて、まるでなかったことみたいに。
(……なんで、あんな顔するんですか)
胸の奥で、芽生えた嫉妬と独占欲が、ちりりと音を立てて燃え上がる。
「羨ましい彼女」になりたいんじゃない。
あたしは――
この人の、特別になりたい。
でも、言えない。
(……もう少しだけ、甘えさせて下さい)
***
(……あかん)
頭の中、全部葵や。
朝の「いってらっしゃい」まで思い出して、息苦しい。
(……甘いの飲も)
自販機の前、ふらふらしながらブラックコーヒー飲んでる葵を見つけた。
(……かわええな、ほんま)
口元が緩むのがわかって、慌てて手で隠す。
それでも葵らしい仕草に、笑みが溢れた。
――その直後。
松原と楽しそうに笑う葵。
(……なんやねん、その顔。殺しにきてるやろ)
あいつには、そんな無防備な顔すんのか。
喉の奥が、焼けるように熱い。
(……俺がどれだけ我慢してると思ってんねん)
あかん、もう限界や。
連れ去りたい。
俺だけのもんにしたい。
(……覚悟しぃや)
ぐしゃり、と手の中の紙カップが歪んだ。
***
机に置いた飲みかけのキャラメルマキアート。
なんとなく、鷹宮先輩が好きな味を、飲んでみたくなって、持ち帰ってきた。
舌先に残るキャラメルの甘さが、鷹宮先輩と重なり不埒に疼く。
「ただいま」
振り返ると、そこにはネイビーの眼鏡を少し指で押し上げた、鷹宮先輩が立っていた。
いつもと違う、獣みたいな視線で、あたしを射抜いている。
「キャラメルマキアート……?」
「先輩が好きな味かなって、思ったら……」
ふわりと広がるキャラメルの甘い香りが、理性をあざ笑うように鼻をくすぐった。
「……お前、ほんまにズルいわ」
低く、地を這うような声。
先輩は一歩、また一歩と、あたしとの距離を詰めてくる。
「松原と笑ってた思たら、今度はこれか」
「……葵、ほんまにタチ悪いな」
あまりの熱量に気圧されて、あたしは無意識に後ずさった。
ドスンっとぶつかる低く音。
――気づいたときには、逃げ場がなかった。
それを打ち消す鷹宮先輩の、怖いほど甘く優しい体温。
わずかに鼻をくすぐる、清潔なシトラスと甘いキャラメルの混じった香り。
憧れてたはずの壁ドンも、
この距離では、ただの逃げ場の消失だった。
「へぇ……そーなんや」
たったそれだけの相槌なのに、背筋がぞくりと震える。
「鷹宮先輩……っ」
呼んだ声が、情けなく揺れる。
視線を上げると、綺麗な指がネクタイを少しだけ緩める。
社内随一のイケメンは、余裕そのものの表情でこちらを見下ろしていた。
仕事では決して見せない、近すぎる距離。
「……そんな顔で見られて、ほっとけるわけないやろ」
――その言葉。
ずっと、
後輩だからだと思ってた。
でも。
ネイビーの眼鏡越しに射抜くその瞳は、もう、上司のそれじゃない。
牙を隠すのをやめた、一人の男の熱そのものだった。
「もう逃がさへんから」
低く艶やかに囁く声。
ほんの数センチまで、唇が近づく。
――息が触れる距離。
「覚悟しぃや?」
怖いのに。
どうしようもなく、甘い。
気づけば、震える唇から、音が漏れていた。
「……好きなんです、先輩が」
「……我慢、しなくていいですよ」
息が、止まる。
「……嫌われるのが怖くて、ずっと言えなかった。……でも、好きです」
鷹宮先輩の瞳が暗く、熱く揺れた。
そして、奪うように腕の中へ閉じ込められた。
――堪えていたものが、切れたみたいに。
「…………先に言うなや、俺なんかとっくに好きやったわ」
「俺がどれだけ耐えてきたと思ってんねん……」
小さく落ちたその声に、あたしも思わず抱きしめ返す。
「……あたしもです」
「……好きて言うたら最後、俺はもう止まれへん」
先輩の手が、あたしの顎を持ち上げた。
壊れ物を扱うような手つきなのに、言葉はあまりにも剥き出しで。
「逃げ道ないで」
「後悔しても知らんからな」
低く掠れた声で囁かれた言葉に、あたしの理性が音を立てて崩れていく。
先輩の親指が、あたしの唇の端を、あの日と同じようにゆっくりなぞる。
けれど、あの時よりもずっと力強く、独占的な熱。
「っ……」
吐息が触れる。
――その瞬間。
ぐぅぅぅ……。
静寂を切り裂いた音に、時間が止まる。
「「…………っ」」
「……お前、タイミング神か」
「違っ……これは不可抗力です!」
あたしは顔がこれでもかと言うほど真っ赤になり、
先輩は一瞬だけ目を伏せ、肩を震わせた。
その反応に、 なんだか少しだけ、拗ねたくなる。
「葵」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
――息が、止まった。
さっきより、ずっと危ない目。
熱を一切逃がしていない、男の顔。
「わかっててやってるやろ」
頬を撫でる指先に、わずかに力がこもる。
「そんな顔で誘ったら、俺がどうなるか」
低く、掠れた声。
「……壊したいくらい抱きしめたいんを、オジサンのなけなしの理性で止めてるんやからな」
その言葉と、視線と、熱に、ゾクリとする。
「このまま終わると思うなよ」
指の腹であたしの唇を押さえたあと、鷹宮先輩はようやく距離を離した。
「早よ食お」
そう言ってキッチンへ向かう背中に、まだ熱が残っている。
(……望んで、捕まえた)
もう、後戻りなんてできない。
捕まえたはずなのに、 捕まってるのは、きっとあたしのほうだ。
あたしは 初めて好きになった人のもとへ、
まっすぐ駆け寄った。



