月曜日の朝は、少しだけ足取りが重い。
でも今日は違った。
エレベーターを待っていると、聞き慣れた声。
「葵ちゃん、おはよ!」
ネクタイが少し曲がっているのが、いかにも彼らしい。
「南実くん、おはよう」
「始業前に確認したい資料あって、デスク寄っていい?」
「うん、いいよ」
今となっては唯一の同期で、いろんなことを一緒に乗り越えてきた「戦友」だ。
エレベーターに乗ると、周りを確認した南実くんが、少しだけ声を落とした。
「……もう、部屋の方は大丈夫?」
「うん。まだ完全じゃないけど、落ち着いてきたよ」
「そっか。それならよかった」
心から安心した顔の南実くん。
メッセージで同居のことは伝えたけど、
余計な詮索も、踏み込みもしない。
(こういうところ、ほんと優しいな)
フロアに到着し、いつの間にか増えた人の流れに押されていく。
つまづきそうになるところで、南実くんが腕を支えてくれた。
「大丈夫?」
「うん、ありがと」
ふと視線を感じた。
少し離れた場所。
見慣れた背の高いシルエット。
――あ。
鷹宮先輩と、雪乃先輩。
二人で歩いてきたところだった。
鷹宮先輩と目が合う。
一瞬だけ。
何かを言いかけるように、唇が動いた気がしたけど、すぐに視線は外れた。
南実くんが、気づいて小さく首を傾げる。
「葵ちゃん?」
フロアに向かう前、もう一度だけ振り返る。
鷹宮先輩は、もうこちらを見ていなかった。
ただ、ポケットに入れた手が、少しだけ強く握られているのが見えた。
(……気のせい、だよね)
そう思いながら、前を向く。
今日も、仕事は始まる。
――でも、
この朝が、後から思い返すと
静かに揺れ始めた「最初の一歩」だったことを、
あたしはまだ知らない。
***
「……ていうかさ」
雪乃先輩に誘われて休憩室に来ていた。
ソファに座り、午後の始業開始までコーヒーブレイク中。
「ほーりーも本当に災難続きよね」
「…………はい」
ここ最近の出来事を振り返ると、確かにそうかも知れない。
火事にあうとか、人生で一度も無いと思っていたし。
「でもあの璋と同棲とは、やるわねぇ~」
言葉の意味が違いすぎて、思わず声が裏返った。
「ち、違いますよ!同居ですっ!……好きとかではなく……一時的に、住まわせてもらってて……あたしがご厚意に甘えっぱなしで……」
言い訳みたいになってから、気づく。
(あ、これ言い方ミスった……)
でも雪乃先輩は、笑わなかった。
ただ、静かに続きを促すみたいに、首を傾ける。
「……それで?」
少し考えてから、あたしは正直に言った。
「……あの」
「ん?」
「鷹宮先輩って……他の後輩にもあんなに甘やかしますか?」
雪乃先輩が、きょとんと目を瞬かせる。
「あんなに?」
「はい。えっと……」
言葉を探しながら続ける。
「『ご飯ちゃんと食べてるか』とか、『無理してないか』とか、 あと……『風邪ひくからって』」
そこであたしは、色んな表情の鷹宮先輩を思い出して、ふふっと笑ってしまった。
「昨日なんて、髪まで乾かしてくれて」
雪乃先輩の動きが、ピタッと止まった。
「……は?」
でも雪乃先輩は、すぐに咳払いして取り繕う。
「いや、あの……髪?」
「はい。『濡れたままやったらあかん』って、それも「ルール」らしくて」
言葉にすると何だか照れてしまい「あはは」と軽く笑ってみせる。
でも。
雪乃先輩は、紙カップを口に運んだまま、数秒黙った。
(……え?)
「ほーりー」
静かな声で、名前を呼ばれる。
「璋が?後輩の髪、乾かす?」
雪乃先輩の頭の中で、何かが一気に繋がっていく気配がした。
彼女の目が、ほんのり細くなった。
「……あいつとは付き合い長いし……あ、彼女になったこともないけど……」
と、前置きして。
「少なくとも、“誰にでも”って感じは見たことないなぁ」
雪乃先輩はそこで意味ありげに笑った。
「まぁ、ほーりー相手だからでしょうね」
胸が、どくんと鳴る。
「い、いえっ!私は後輩ですし……!」
慌てて否定すると、 雪乃先輩は、楽しそうに目を細めた。
その圧に負けて、「……正直」と、ぽつりとこぼしてしまう。
「……先輩の彼女になる人って、すごく大事にされるんやろなって思います」
雪乃先輩が、声を殺して笑った。
「ほーりー、それさ」
「はい?」
「めちゃくちゃ可愛いこと言うわね、羨ましい?」
「……え?」
(羨ましい……?)
予想外の問いに、言葉に詰まる。
紙カップの縁を指でなぞりながら、視線を落とした。
(もし……鷹宮先輩が誰か他の人を甘やかす……)
想像したら絵空事には思えなくて、胸がチリっと痛んだ。
雪乃先輩は、あたしの肩をぽん、と軽く叩く。
ただ、どこか楽しそうな顔で、「戻りましょ」と言って歩き出した。
(……彼女になる人かぁ……確かに羨ましいかも)
自分を晒け出しても、あんな風に甘やかしてくれるのだろうか。
ありのままのあたしで、大丈夫だよって言ってくれるのだろうか。
羨ましさと、憧れと。
自分でも整理できていない感情。
この時のあたしは何も気づかないまま、デスクに戻った。
***
経営戦略企画部のフロアに足を踏み入れた瞬間、空気がぴんと張っているのが分かった。
資料の音、キーボードの音、低い話し声。
その中心にいるのは――。
「この数字、昨日のと差分出てないから、明日午後の会議までに修正してください」
鷹宮先輩だった。
いつもと同じ。
指示も、声のトーンも、無駄がない。
――なのに。
(……近寄りづらい)
入り口からそっと様子を窺う。
目が合いそうで、合わない。
「……鷹宮主任」
勇気を出して声をかけると、 鷹宮先輩は一拍遅れて、こちらを見た。
「どうした?」
短い。
必要最低限。
「頼まれていたデータをお持ちしました」
「ああ」
資料に目を落として、淡々と続く。
「ここ、仕様が変わっているから修正して。詳しい内容は、八千草に指示してあるから聞いて」
それだけ言って、もうこちらを見ない。
視線はモニターに戻っている。
(……あ)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
(……会社だもの)
そう、分かっている。
分かっているはずなのに。
少し前までの距離を、無意識に探してしまう自分がいる。
「はい、失礼します」
返事は、ちゃんとした。
顔も、たぶん仕事用。
少し鷹宮先輩の眉間に、シワが寄っていたのも、きっと気のせいだと思いたかった。
そのまま席に戻ると、雪乃先輩がちらっとこちらを見る。
「……どうしたの、なんか凹んでるけど」
「……修正くらいました……挽回します!」
そう答えながらも、 指先が、キーボードの上で少し止まった。
「ちょっと資料室に行ってきますね」
雪乃先輩に声をかけて、資料室に向かった。
お目当てのファイルを手に取るも、心ここにあらず。
(昨日は、あんなに……)
髪を乾かしてくれた手。
頬に触れた熱。
背中をポンポンしてくれた。
――同じ人、だよね?
フロアへ戻る廊下で、また鷹宮先輩とすれ違う。
「失礼します」
「お疲れさま」
先輩は一歩、距離を取る。
ぶつからないように、でも必要以上に近づかない。
声音は普通なのに。
(……避けられてる?)
そんな考えが浮かんだ瞬間。
さっきまでの灯火が、ふっと消えた気がした。
仕事中だ、私情を挟む場じゃない。
分かってる。
それでも。
(……ちょっと、寂しい)
その感情に気づいた自分が、一番戸惑っていた。
すると、ポケットの中のスマホが震えた。
『今日の晩御飯は、焼き魚がええなぁ。ちょっと遅なるけど、19:30には帰れると思う』
メッセージと一緒に『よろしく』のスタンプ。
さっきまでの戸惑いは、たった一通のメッセージであっさり吹き飛んだ。
単純だけど、自分の機嫌が浮上するのがわかった。
***
キッチンに、ふわりと廊下の冷たい空気が流れてきた。
知っているシトラスの優しい香りを纏って。
「ただいま……」
「おかえりなさい…………あれ?」
マフラーもコートも脱がず、バッグを持ったまま。
鷹宮先輩がドアにもたれかかって腕組みして、あたしを見ている。
「……朝、誰と一緒やったん」
唐突な質問。
声は低くて、平坦。
「え?」
「エレベーター」
一言だけ補足されて、思い出す。
「あ、南実くんですか?」
「……ふーん」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
(……今の、「ふーん」は何?)
答えたのに、鷹宮先輩は微動だにせず。
「仲、ええな」
独り言みたいに、ぽつり。
「同期ですし……それに同居の話もしてますから」
「わかってる」
即答。
でも、続けて。
「でも、朝から楽しそうやった」
南実くんとの朝を思い出す。
どこの場面を見たのか、全く見当がつかない。
「……気のせいかと」
「そか」
それきり、会話が途切れる。
お湯の沸いた音。
急須に注ぐと、ふわりと昇る湯気と香ばしい番茶の香りが広がる。
先輩は何も言わずに、マグカップを差し出した。
「ん」
「ありがとうございます」
渡す時に、鷹宮先輩の冷えた指先が触れた。
朝出る時は、手袋をしていたはず。
「今日はな」
鷹宮先輩は自分の分を持ったまま、少しだけ視線を逸らす。
「葵、よう頑張ったやろ」
評価みたいな言い方。
でも、仕事のそれとは違う。
「……会社では、あんまり話せへんから」
小さく、付け足す。
(……あ)
「そやから、家では」
マグカップに口をつけて、一拍。
「ちゃんと、甘やかす」
さらっと。
まるで当然みたいに。
「……それ、ルールでしたっけ」
冗談めかして言うと、先輩は片眉を上げた。
「松原がどうとか、別にええねんけど」
え、別にええなら言わなくても――と思った瞬間。
「葵が、他のやつと楽しそうなん、見たら」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
「……ちょっとだけ、落ち着かん」
視線は合わない。
でも、声が正直すぎる。
(……あたしが会社での鷹宮先輩に感じたことと同じかも……)
「晩めし、食べよか」
「脱いだら手伝う」と言い、マグカップを持ったまま、ダイニングテーブルへ向かう。
「あ、忘れてもた…」
「忘れ物ですか?」と尋ねると、少しだけバツの悪そうな顔。
「んー……まぁ、ええわ。明日の朝寒いだけやし」
「もしかして……手袋ですか?」
「そう、ようわかったな」
「ふふっ、さっき指冷たかったんです。朝はしてたのに、なんでかなぁと思ったから」
ちょっと得意気に言ってみせた。
「さ、ご飯たべましょ!」
あたしは後ろを向いて、炊飯器からご飯をよそう。
「……葵のそういうとこ……」
「何かいいました?」
「いや、どれ持ってたらええ?」
今日の献立を机に並べて、少し遅めの夕食を一緒に食べた。
***
あたしがお風呂から出ると、ソファでは鷹宮先輩が待機していた。
もちろん、手にはドライヤー。
と。
昨日にはなかったヘアオイルらしきもの。
(今日は自分で乾かしますよ?……)
問いかけるより先に、先輩の手が伸びてきて、あたしの肩に触れた。
「髪」
一言。
「……あ」
無意識に触ると、まだ少し湿っている。
「拭くの、急いだやろ」
「ちょっとだけ……」
「アウト」
即、却下。
「こっち」
鷹宮先輩の前に座れ、と指さされる。
「……また?」
「ルール」
一切の迷いなし。
ラグに座らされて、背中に気配を感じる。
ドライヤーのスイッチが入る。
温かい風。
首筋に、さっきよりも慣れた距離。
「……今日は」
指で髪をすくいながら、先輩が言う。
「あんまり構えへんかったやろ」
「…………」
「それで、ちょっと不安になる顔するん、ずるい」
(……ばれてる)
「仕事中は、仕事中」
淡々とした声。
「でも、帰ってきたら」
指先が、耳の後ろを通る。
「……ちゃんと、甘やかす」
――言い切るみたいに落ちた声に、心臓が一段強く鳴る。
「……誤解です」
精一杯の反論に、少しだけ笑う気配。
「勘違いすんな。……守る側って意味や」
撫でられているような感覚に、あたしはついうっとりしてしまう。
目をつむって体を預けていると、鷹宮先輩が確認口調で言う。
朝、南実くんに支えられた腕のあたりに、先輩の視線が落ちる。
「……今日触られたとこ、ちゃんと洗ったか?」
「……え?」
「……別の男の匂い、させんな」
腕のあたりを、上からそっと払うように撫でた。
「…………やっぱ、ええわ。忘れて」
再び、ドライヤーの音。
どこか不機嫌そうなのに、髪を扱う手つきだけは壊れ物みたいに優しい。
でも、先輩の優しさは、あたしを逃げられなくさせる。
「後輩やし、放っとかれへんだけ」
声音は変わらず優しい色。
「松原、ええやつやと思う」
「……せやから余計に、心配なんや」
真面目なトーン。
「葵は、無自覚に人を近づけすぎる」
(それ、先輩が言う?)
「はい、終わり」
スイッチが切れて、静かになる。
最後に、軽く髪を整えられる。
「……あったかいし、ツヤツヤ……」
手櫛で梳くと、指先にさらさらとした感触が絡みついた。
「こんなふうに甘やかしてくれる先輩の彼女さんって……きっと、すごく幸せなんだろうなぁ」
思わず本音がこぼれて、自分で言っておきながら恥ずかしくなり、慌てて口を閉じる。
「……は?」
背後で、ほんの一瞬だけ手が止まる。
沈黙のあと、
「……せやろ」
何事もなかったみたいな声なのに、さっきまでより少し低く聞こえた。
「今日は、特別やからな」
背中に、軽く手が置かれる。
「髪乾かしに、コーヒー付き。……詫びやな」
「……お詫びって何ですか?」
「葵を不安にさせた……気にすんな」
「不安?」
「ええから飲め……」
コーヒーの苦くて少し切ない香り。
鷹宮先輩が、強引にマグカップを握らせて、ブランケットをかけてくれた。
でも、さっきまでの熱は、どこにも残っていなかった。
(……もっと、って思ってしまう)
「ありがとうございます」
(……これ、完全に甘やかし)
でも。
拒否する理由なんて、どこにもなかった。
でも今日は違った。
エレベーターを待っていると、聞き慣れた声。
「葵ちゃん、おはよ!」
ネクタイが少し曲がっているのが、いかにも彼らしい。
「南実くん、おはよう」
「始業前に確認したい資料あって、デスク寄っていい?」
「うん、いいよ」
今となっては唯一の同期で、いろんなことを一緒に乗り越えてきた「戦友」だ。
エレベーターに乗ると、周りを確認した南実くんが、少しだけ声を落とした。
「……もう、部屋の方は大丈夫?」
「うん。まだ完全じゃないけど、落ち着いてきたよ」
「そっか。それならよかった」
心から安心した顔の南実くん。
メッセージで同居のことは伝えたけど、
余計な詮索も、踏み込みもしない。
(こういうところ、ほんと優しいな)
フロアに到着し、いつの間にか増えた人の流れに押されていく。
つまづきそうになるところで、南実くんが腕を支えてくれた。
「大丈夫?」
「うん、ありがと」
ふと視線を感じた。
少し離れた場所。
見慣れた背の高いシルエット。
――あ。
鷹宮先輩と、雪乃先輩。
二人で歩いてきたところだった。
鷹宮先輩と目が合う。
一瞬だけ。
何かを言いかけるように、唇が動いた気がしたけど、すぐに視線は外れた。
南実くんが、気づいて小さく首を傾げる。
「葵ちゃん?」
フロアに向かう前、もう一度だけ振り返る。
鷹宮先輩は、もうこちらを見ていなかった。
ただ、ポケットに入れた手が、少しだけ強く握られているのが見えた。
(……気のせい、だよね)
そう思いながら、前を向く。
今日も、仕事は始まる。
――でも、
この朝が、後から思い返すと
静かに揺れ始めた「最初の一歩」だったことを、
あたしはまだ知らない。
***
「……ていうかさ」
雪乃先輩に誘われて休憩室に来ていた。
ソファに座り、午後の始業開始までコーヒーブレイク中。
「ほーりーも本当に災難続きよね」
「…………はい」
ここ最近の出来事を振り返ると、確かにそうかも知れない。
火事にあうとか、人生で一度も無いと思っていたし。
「でもあの璋と同棲とは、やるわねぇ~」
言葉の意味が違いすぎて、思わず声が裏返った。
「ち、違いますよ!同居ですっ!……好きとかではなく……一時的に、住まわせてもらってて……あたしがご厚意に甘えっぱなしで……」
言い訳みたいになってから、気づく。
(あ、これ言い方ミスった……)
でも雪乃先輩は、笑わなかった。
ただ、静かに続きを促すみたいに、首を傾ける。
「……それで?」
少し考えてから、あたしは正直に言った。
「……あの」
「ん?」
「鷹宮先輩って……他の後輩にもあんなに甘やかしますか?」
雪乃先輩が、きょとんと目を瞬かせる。
「あんなに?」
「はい。えっと……」
言葉を探しながら続ける。
「『ご飯ちゃんと食べてるか』とか、『無理してないか』とか、 あと……『風邪ひくからって』」
そこであたしは、色んな表情の鷹宮先輩を思い出して、ふふっと笑ってしまった。
「昨日なんて、髪まで乾かしてくれて」
雪乃先輩の動きが、ピタッと止まった。
「……は?」
でも雪乃先輩は、すぐに咳払いして取り繕う。
「いや、あの……髪?」
「はい。『濡れたままやったらあかん』って、それも「ルール」らしくて」
言葉にすると何だか照れてしまい「あはは」と軽く笑ってみせる。
でも。
雪乃先輩は、紙カップを口に運んだまま、数秒黙った。
(……え?)
「ほーりー」
静かな声で、名前を呼ばれる。
「璋が?後輩の髪、乾かす?」
雪乃先輩の頭の中で、何かが一気に繋がっていく気配がした。
彼女の目が、ほんのり細くなった。
「……あいつとは付き合い長いし……あ、彼女になったこともないけど……」
と、前置きして。
「少なくとも、“誰にでも”って感じは見たことないなぁ」
雪乃先輩はそこで意味ありげに笑った。
「まぁ、ほーりー相手だからでしょうね」
胸が、どくんと鳴る。
「い、いえっ!私は後輩ですし……!」
慌てて否定すると、 雪乃先輩は、楽しそうに目を細めた。
その圧に負けて、「……正直」と、ぽつりとこぼしてしまう。
「……先輩の彼女になる人って、すごく大事にされるんやろなって思います」
雪乃先輩が、声を殺して笑った。
「ほーりー、それさ」
「はい?」
「めちゃくちゃ可愛いこと言うわね、羨ましい?」
「……え?」
(羨ましい……?)
予想外の問いに、言葉に詰まる。
紙カップの縁を指でなぞりながら、視線を落とした。
(もし……鷹宮先輩が誰か他の人を甘やかす……)
想像したら絵空事には思えなくて、胸がチリっと痛んだ。
雪乃先輩は、あたしの肩をぽん、と軽く叩く。
ただ、どこか楽しそうな顔で、「戻りましょ」と言って歩き出した。
(……彼女になる人かぁ……確かに羨ましいかも)
自分を晒け出しても、あんな風に甘やかしてくれるのだろうか。
ありのままのあたしで、大丈夫だよって言ってくれるのだろうか。
羨ましさと、憧れと。
自分でも整理できていない感情。
この時のあたしは何も気づかないまま、デスクに戻った。
***
経営戦略企画部のフロアに足を踏み入れた瞬間、空気がぴんと張っているのが分かった。
資料の音、キーボードの音、低い話し声。
その中心にいるのは――。
「この数字、昨日のと差分出てないから、明日午後の会議までに修正してください」
鷹宮先輩だった。
いつもと同じ。
指示も、声のトーンも、無駄がない。
――なのに。
(……近寄りづらい)
入り口からそっと様子を窺う。
目が合いそうで、合わない。
「……鷹宮主任」
勇気を出して声をかけると、 鷹宮先輩は一拍遅れて、こちらを見た。
「どうした?」
短い。
必要最低限。
「頼まれていたデータをお持ちしました」
「ああ」
資料に目を落として、淡々と続く。
「ここ、仕様が変わっているから修正して。詳しい内容は、八千草に指示してあるから聞いて」
それだけ言って、もうこちらを見ない。
視線はモニターに戻っている。
(……あ)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
(……会社だもの)
そう、分かっている。
分かっているはずなのに。
少し前までの距離を、無意識に探してしまう自分がいる。
「はい、失礼します」
返事は、ちゃんとした。
顔も、たぶん仕事用。
少し鷹宮先輩の眉間に、シワが寄っていたのも、きっと気のせいだと思いたかった。
そのまま席に戻ると、雪乃先輩がちらっとこちらを見る。
「……どうしたの、なんか凹んでるけど」
「……修正くらいました……挽回します!」
そう答えながらも、 指先が、キーボードの上で少し止まった。
「ちょっと資料室に行ってきますね」
雪乃先輩に声をかけて、資料室に向かった。
お目当てのファイルを手に取るも、心ここにあらず。
(昨日は、あんなに……)
髪を乾かしてくれた手。
頬に触れた熱。
背中をポンポンしてくれた。
――同じ人、だよね?
フロアへ戻る廊下で、また鷹宮先輩とすれ違う。
「失礼します」
「お疲れさま」
先輩は一歩、距離を取る。
ぶつからないように、でも必要以上に近づかない。
声音は普通なのに。
(……避けられてる?)
そんな考えが浮かんだ瞬間。
さっきまでの灯火が、ふっと消えた気がした。
仕事中だ、私情を挟む場じゃない。
分かってる。
それでも。
(……ちょっと、寂しい)
その感情に気づいた自分が、一番戸惑っていた。
すると、ポケットの中のスマホが震えた。
『今日の晩御飯は、焼き魚がええなぁ。ちょっと遅なるけど、19:30には帰れると思う』
メッセージと一緒に『よろしく』のスタンプ。
さっきまでの戸惑いは、たった一通のメッセージであっさり吹き飛んだ。
単純だけど、自分の機嫌が浮上するのがわかった。
***
キッチンに、ふわりと廊下の冷たい空気が流れてきた。
知っているシトラスの優しい香りを纏って。
「ただいま……」
「おかえりなさい…………あれ?」
マフラーもコートも脱がず、バッグを持ったまま。
鷹宮先輩がドアにもたれかかって腕組みして、あたしを見ている。
「……朝、誰と一緒やったん」
唐突な質問。
声は低くて、平坦。
「え?」
「エレベーター」
一言だけ補足されて、思い出す。
「あ、南実くんですか?」
「……ふーん」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
(……今の、「ふーん」は何?)
答えたのに、鷹宮先輩は微動だにせず。
「仲、ええな」
独り言みたいに、ぽつり。
「同期ですし……それに同居の話もしてますから」
「わかってる」
即答。
でも、続けて。
「でも、朝から楽しそうやった」
南実くんとの朝を思い出す。
どこの場面を見たのか、全く見当がつかない。
「……気のせいかと」
「そか」
それきり、会話が途切れる。
お湯の沸いた音。
急須に注ぐと、ふわりと昇る湯気と香ばしい番茶の香りが広がる。
先輩は何も言わずに、マグカップを差し出した。
「ん」
「ありがとうございます」
渡す時に、鷹宮先輩の冷えた指先が触れた。
朝出る時は、手袋をしていたはず。
「今日はな」
鷹宮先輩は自分の分を持ったまま、少しだけ視線を逸らす。
「葵、よう頑張ったやろ」
評価みたいな言い方。
でも、仕事のそれとは違う。
「……会社では、あんまり話せへんから」
小さく、付け足す。
(……あ)
「そやから、家では」
マグカップに口をつけて、一拍。
「ちゃんと、甘やかす」
さらっと。
まるで当然みたいに。
「……それ、ルールでしたっけ」
冗談めかして言うと、先輩は片眉を上げた。
「松原がどうとか、別にええねんけど」
え、別にええなら言わなくても――と思った瞬間。
「葵が、他のやつと楽しそうなん、見たら」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
「……ちょっとだけ、落ち着かん」
視線は合わない。
でも、声が正直すぎる。
(……あたしが会社での鷹宮先輩に感じたことと同じかも……)
「晩めし、食べよか」
「脱いだら手伝う」と言い、マグカップを持ったまま、ダイニングテーブルへ向かう。
「あ、忘れてもた…」
「忘れ物ですか?」と尋ねると、少しだけバツの悪そうな顔。
「んー……まぁ、ええわ。明日の朝寒いだけやし」
「もしかして……手袋ですか?」
「そう、ようわかったな」
「ふふっ、さっき指冷たかったんです。朝はしてたのに、なんでかなぁと思ったから」
ちょっと得意気に言ってみせた。
「さ、ご飯たべましょ!」
あたしは後ろを向いて、炊飯器からご飯をよそう。
「……葵のそういうとこ……」
「何かいいました?」
「いや、どれ持ってたらええ?」
今日の献立を机に並べて、少し遅めの夕食を一緒に食べた。
***
あたしがお風呂から出ると、ソファでは鷹宮先輩が待機していた。
もちろん、手にはドライヤー。
と。
昨日にはなかったヘアオイルらしきもの。
(今日は自分で乾かしますよ?……)
問いかけるより先に、先輩の手が伸びてきて、あたしの肩に触れた。
「髪」
一言。
「……あ」
無意識に触ると、まだ少し湿っている。
「拭くの、急いだやろ」
「ちょっとだけ……」
「アウト」
即、却下。
「こっち」
鷹宮先輩の前に座れ、と指さされる。
「……また?」
「ルール」
一切の迷いなし。
ラグに座らされて、背中に気配を感じる。
ドライヤーのスイッチが入る。
温かい風。
首筋に、さっきよりも慣れた距離。
「……今日は」
指で髪をすくいながら、先輩が言う。
「あんまり構えへんかったやろ」
「…………」
「それで、ちょっと不安になる顔するん、ずるい」
(……ばれてる)
「仕事中は、仕事中」
淡々とした声。
「でも、帰ってきたら」
指先が、耳の後ろを通る。
「……ちゃんと、甘やかす」
――言い切るみたいに落ちた声に、心臓が一段強く鳴る。
「……誤解です」
精一杯の反論に、少しだけ笑う気配。
「勘違いすんな。……守る側って意味や」
撫でられているような感覚に、あたしはついうっとりしてしまう。
目をつむって体を預けていると、鷹宮先輩が確認口調で言う。
朝、南実くんに支えられた腕のあたりに、先輩の視線が落ちる。
「……今日触られたとこ、ちゃんと洗ったか?」
「……え?」
「……別の男の匂い、させんな」
腕のあたりを、上からそっと払うように撫でた。
「…………やっぱ、ええわ。忘れて」
再び、ドライヤーの音。
どこか不機嫌そうなのに、髪を扱う手つきだけは壊れ物みたいに優しい。
でも、先輩の優しさは、あたしを逃げられなくさせる。
「後輩やし、放っとかれへんだけ」
声音は変わらず優しい色。
「松原、ええやつやと思う」
「……せやから余計に、心配なんや」
真面目なトーン。
「葵は、無自覚に人を近づけすぎる」
(それ、先輩が言う?)
「はい、終わり」
スイッチが切れて、静かになる。
最後に、軽く髪を整えられる。
「……あったかいし、ツヤツヤ……」
手櫛で梳くと、指先にさらさらとした感触が絡みついた。
「こんなふうに甘やかしてくれる先輩の彼女さんって……きっと、すごく幸せなんだろうなぁ」
思わず本音がこぼれて、自分で言っておきながら恥ずかしくなり、慌てて口を閉じる。
「……は?」
背後で、ほんの一瞬だけ手が止まる。
沈黙のあと、
「……せやろ」
何事もなかったみたいな声なのに、さっきまでより少し低く聞こえた。
「今日は、特別やからな」
背中に、軽く手が置かれる。
「髪乾かしに、コーヒー付き。……詫びやな」
「……お詫びって何ですか?」
「葵を不安にさせた……気にすんな」
「不安?」
「ええから飲め……」
コーヒーの苦くて少し切ない香り。
鷹宮先輩が、強引にマグカップを握らせて、ブランケットをかけてくれた。
でも、さっきまでの熱は、どこにも残っていなかった。
(……もっと、って思ってしまう)
「ありがとうございます」
(……これ、完全に甘やかし)
でも。
拒否する理由なんて、どこにもなかった。



