夢を見るのも忘れたみたいに、深く眠っていた。
体が軽い。
すっきりと目を覚まして、軽く伸びをしたところで、ふと違和感に気づく。
(……あれ?この部屋……)
カーテンの色。
ベッドの広さ。
天井の高さ。
「……っ!!」
一気に昨日の記憶が蘇って、あたしは慌てて寝室を飛び出した。
リビングへ向かうと、思った通りだった。
昨日、あたしが寝落ちしてしまったソファに、本来の持ち主が横になっている。
眼鏡をかけたまま、気持ち良さそうに眠っている。
身体を少し丸めて、自分の腕を枕にしたまま。
「す、すみません……!」
駆け寄ったものの、起きる気配は無い。
むしろ小さく寝返りを打って、さらにソファに沈み込んだ。
少し窮屈そうなその姿は、さながら丸まって眠る大型犬みたいで。
普段の鋭さが嘘みたいに、無防備だった。
(……かわいい)
何言ってんのあたし、違う違う。
ふと、テーブルの上に散らばった資料に、視線がいく。
赤ペン、付箋、走り書きのメモ。
積まれたバインダー。
冷えきった空のマグカップ。
(あたしが寝たあとも、ここで仕事してたんだ)
言葉にならない感情が、静かなさざ波みたいに胸に広がっていく。
そのとき。
「……んー……」
低い声。
身じろぎして、ゆっくりと目を開ける。
「……はよー…」
寝起き特有の掠れた声で、こちらを見る。
「あ……おはようございます、
すみません、あたしがベッド使って……!」
言い切る前に、片手が伸びてきて、軽く制される。
「ええよ。眠れた?」
自分のことより先に、あたしにそう聞く。
その優しさが、胸をきゅっと締めつけた。
「は、はい……すごく……」
「そらよかった」
あくびを噛み殺しながら、ゆっくり起き上がる。
鷹宮先輩は、机の上に散らばっていたものを片付けて、キッチンへ向かった。
「手伝いますねっ」と慌てて、あたしも背中を追いかけた。
遅めの朝食を並べて向かい合って座る。
食べながら、ふいに鷹宮先輩が口を開いた。
「……なぁ」
「はい?」
「このままやと、生活ごちゃごちゃになるやろ」
箸を置いたその顔は、少しだけ真面目だった。
あたしは、ついにこの話をする時が来たんだと察する。
言わなきゃいけないのは、きっとあたしの方だ。
「ずっとお世話になるのは、やっぱり悪いですし……」
「そろそろ、自分で探さないとって……」
言い終わる前に、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
「……それ、本気で言うてる?」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
ただ、逃げ道を塞ぐような真っ直ぐな目。
「昨日、あの部屋行って」
ゆっくり言葉を選ぶみたいに、続ける。
「まだ落ち着いてへんって、分からんほど鈍くないで」
低くて、静かな声。
その一言で、 あたしの中にあった“遠慮”が、言い訳みたいに崩れていく。
「泊めるとか、世話するとか――そういう曖昧なん、やめよ」
そう言って、鷹宮先輩は一度、静かに息を吐いた。
箸を置く小さな音が、やけに大きく響く。
「ちゃんと決める」
冗談も、逃げ道もない声音だった。
思わず、背筋が伸びる。
ほんの一拍のあと。
「……同居、やな」
“泊めてもらう”じゃない。
――この人と、暮らす。
あたしは、何も言えないまま、 ただ、鷹宮先輩を見返していた。
「ただし、ルールは決める」
「はい……!」
その反応がおかしかったのか、先輩がふっと笑った。
「まず、家賃とかいらんから、俺の健康維持のためにも食費と家事は葵が担当」
反論の隙を与えず、次々に言葉が落ちてくる。
「無理な日は無理って言う。ため込まんことな」
「ご飯は、基本一緒に食べる」
それだけ、少し声が柔らかくなった気がした。
「仕事で遅なる時は、ちゃんと連絡する」
一拍置いて、最後。
「あと……勝手に一人で抱え込まんことと、素直に俺に甘やかされること」
少し意地悪っぽく笑う。
「嫌なら言いや?」
拒否権を残した言い方のはずなのに、断れる空気じゃなかった。
「……い、嫌じゃないです」
(むしろ、あたしだけが得してるみたい……いいのかな?)
そんな考えまで見透かしたみたいに、鷹宮先輩は肩をすくめた。
「我慢や無理はしてへんで?何なら、葵の作ったメシ食えるん最高やし」
「……他のやつに食わせるん、もったいないくらいやな」
慣れない褒め言葉に、気恥ずかしくなった。
「後は、ややこしなるから、雪乃や和巳とか以外には内緒にしとこか」
「それなら、南実くん……あたしの同期で真鍋さんの――」
「ん、葵が信頼してる子ならええよ」
唯一の同期、松原南実(まつばら みなみ)くん。
新人時代を一緒に乗り越えた戦友みたいな存在だ。
知ってくれる人がいるのは、たしかに心強い。
「ほな、決まりや」
そう言って、鷹宮先輩が右手を差し出した。
あたしもそっと手を重ねる。
「改めてよろしくな、葵」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
重ねた手のひらの熱が、じんわりと残る。
――こうして、曖昧だった居場所は、
ちゃんと「ふたりの生活」に変わっていった。
***
ルールを決めたあと、アパートから持ち帰った荷物の整理を二人で済ませた。
気づけば、もう十五時を回っている。
夕食の準備のため、近所のスーパーへ食材を買いに行った。
「鷹宮先輩……またプリン買ってましたね」
「甘いおやつの常備は常識やで」
「……ちゃんとご飯も食べてくださいね」
「当たり前やん、プリンは別腹やし」
「女子高生みたいなこと、言いますね」
軽口を交わしながら、買ってきた食材を冷蔵庫へ片付けていく。
今日のリクエストはロールキャベツ。
あたしがエプロンをつけて調理を始めると、鷹宮先輩は頬杖をついてカウンター越しにじっと見ていた。
「手際いいな、料理すんの好きなん?」
「そうですね、楽しいし好きですね」
剥いたキャベツをレンジに入れる。
すると、隣に来た鷹宮先輩が「俺も手伝う」と腕まくりを始めた。
具材を合わせたミンチを捏ねながら、先輩がふいに尋ねる。
「葵、ちゃんと食べれてる?」
「普通には……どうしてですか?」
「めっちゃ軽かったから」
昨晩のことだ。
思い出しただけで顔が熱くなる。
「男の人って、細い方が好きなんかなって、なんとなく……」
「それは人それぞれやろ。少なくとも俺はちゃうで」
少し迷ってから、聞いてみる。
「じゃあ、鷹宮先輩のタイプはどんな人ですか?」
はぐらかされると思っていたのに。
なのに、真剣な瞳がまっすぐあたしを捉えた。
「鷹宮璋という――俺自身を見てくれる人」
一瞬、時が止まったみたいな、でもはっきりとした口調。
(それって……)
肩書きでも、仕事ぶりでもなく。
甘いカフェオレを飲んで、プリンを常備して、料理は少し苦手で。
そういう鷹宮先輩自身を、見てほしいってことなんだろうか。
「そういう葵チャンは?」
直後に返ってきた問いに、今度はあたしが息を詰まらせる。
「……今度こそ、自分を偽らず自然体でいられる人……です」
「頑張ってロールキャベツ、作っていきましょう」
誤魔化すように具材を切っていくと、すぐ隣で声が落ちる。
「葵、ストップ。紐ほどけそうや」
先に気づいた先輩が、エプロンの紐を結び直す。
「ん、ええよ」
ぽんっと軽く叩かれて、また心臓が跳ねた。
「……ありがとうございます」
こんな些細なことなのに、触れられただけで意識してしまう。
そのまま、鷹宮先輩は柔らかく笑った。
「こうやって一緒に料理するんも、楽しいな」
そして、何気なく。
「またやろうな、葵」
キッチンに浮かぶ並んだ2つの影。
その光景が、胸の奥をじんわりと溶かしていった。
***
上出来だった夕食とお風呂を終え、乾いた食器を片付けていた。
ふと窓に映った自分の姿に気づく。
髪はまだ少し湿っていて、毛先が無造作に肩へ落ちていた。
(……あとで乾かそ)
そう思ってキッチンを離れようとした瞬間。
「……葵」
低い声に、足が止まる。
「髪」
短く、それだけ。
振り返ると、鷹宮先輩が腕を組んでこちらを見ていた。
視線はまっすぐ、あたしの髪へ向いている。
「まだ濡れとるやろ」
「あ、はい。あとで――」
「あとで、やない」
被せるように言われて、言葉が詰まる。
「風邪ひく」
それだけ言って、先輩はソファの方へ顎をしゃくった。
「おいで」
命令みたいなのに、声は不思議と優しい。
「え、でも……」
「ルール」
一拍。
「甘やかす、言うたやろ」
反論する余地が、どこにもなかった。
ソファの下のラグに座らされて、あたしは落ち着かないまま背筋を伸ばす。
後ろのソファに座った先輩が、ドライヤーを手に取る気配。
スイッチが入った瞬間、温かい風が首筋を撫でていく。
「……やっぱり自分で」
思わずこぼれた声に、「動くな」と即座に返ってくる。
仕事のときと同じ低いトーン。
なのに、距離が違いすぎて心臓がうるさい。
先輩の指が、髪に触れる。
濡れた毛先をすくい上げて、絡まないようにゆっくりと。
「……ちゃんと乾かさんと、クセつくで」
「……はい」
「髪、ほっそいな」
返事しかできない。
耳元をかすめる風と、鷹宮先輩の指先。
時々、髪をかき分けるときに頬に触れる熱。
さっきまで少し冷えていた身体が、違う熱を帯びていくのがわかった。
(……これ、普通?)
普通じゃない気がする。
「……鷹宮先輩」
呼ぶと、少しだけ手が止まった。
「ん?」
「……慣れてますね」
「何が」
「髪、乾かすの」
一瞬の間。
「……妹おるからな」
さらっと言われて、なるほどと妙に納得してしまう。
でも、そのあと。
「せやけど」
指先が、ゆっくりと耳の後ろを通る。
「他人にこんな近づくん、久々やわ」
「……葵は、なんか別やけどな」
(……他人)
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ、ひやりとした。
もっと、違う名前で呼ばれたい。
そう願ってしまう自分が、どうしようもなく怖くなった。
「よし」
ドライヤーの音が止み、部屋に静けさが戻る。
さっきまで掻き消されていた、お互いの呼吸の音が耳の奥に響いた。
名残惜しむみたいに、最後に一度だけ髪をすいて流す。
「……終わったで」
肩に落ちた髪に触れて、思わず呟いた。
「あったかいし、サラサラ……」
「せやろ」
すぐ後ろから、得意気な声。
「……これも、ルール追加な」
「え?」
「風呂上がりは、俺が乾かす」
あまりにも自然に言うから、言葉の意味が追いつかない。
「これは俺のワガママ、嫌やったら言え」
そう言いながら、もう一度だけ髪に触れる。
「……でも」
少し低くなった声で。
「濡れたまま放っとく方が、俺が落ち着かん」
――無自覚。
完全に。
何も言えずにいるあたしの背中へ、軽く手を置く。
「はい、おしまい」
その一言で全部終わったみたいなのに、鼓動だけがまるで終わってくれなかった。
(……これが、甘いルール)
解ける気なんて、最初からしなかった。
***
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めて、静かにリビングへ向かう。
キッチンでは、すでに鷹宮先輩がコーヒーを淹れていた。
「……おはようございます」
「おはよ。早いな」
それだけなのに、胸が落ち着く。
テーブルには、並んだマグカップ。
昨日と同じ配置。
最初からそうだったみたいに、自然に。
「……ちゃんと寝たんか?」
「はい。……ぐっすり」
「そらよかった」
差し出されたカップを受け取る。
あたたかさが、そのまま身体に染みていく。
「月曜やな」
「……はい」
「会社、行くで」
当たり前みたいに言われて、 一緒に出ることが前提になっているのだと気づく。
玄関でコートを羽織る。
「……あの」
「ん?」
「よろしくお願いします。同居も仕事も」
一瞬だけ目を瞬かせてから、鷹宮先輩は軽く笑った。
「今さらやな。カードキー持ったか?」
「ほな、行こか」
ドアが開き、冬の匂いがする空気が流れ込んだ。
並んで外へ出る、その距離が昨日より近い。
エレベーターの中。
「……髪」
一言だけ。
「ちゃんと乾いてるな」
(……覚えてる)
「はい」
「よし」
外へ出る直前。
ほんの一瞬だけ、背中に触れられる。
押すでもなく、支えるでもなく。
そこにいることを確かめるみたいに。
その一瞬だけで、背中の奥にまで熱が残った。
「寒いから、気ぃつけや」
あたしは駅へ。
鷹宮先輩は駐車場へ。
別々に歩き出すのに、
――もう、ちゃんと、帰る場所になっていた。
体が軽い。
すっきりと目を覚まして、軽く伸びをしたところで、ふと違和感に気づく。
(……あれ?この部屋……)
カーテンの色。
ベッドの広さ。
天井の高さ。
「……っ!!」
一気に昨日の記憶が蘇って、あたしは慌てて寝室を飛び出した。
リビングへ向かうと、思った通りだった。
昨日、あたしが寝落ちしてしまったソファに、本来の持ち主が横になっている。
眼鏡をかけたまま、気持ち良さそうに眠っている。
身体を少し丸めて、自分の腕を枕にしたまま。
「す、すみません……!」
駆け寄ったものの、起きる気配は無い。
むしろ小さく寝返りを打って、さらにソファに沈み込んだ。
少し窮屈そうなその姿は、さながら丸まって眠る大型犬みたいで。
普段の鋭さが嘘みたいに、無防備だった。
(……かわいい)
何言ってんのあたし、違う違う。
ふと、テーブルの上に散らばった資料に、視線がいく。
赤ペン、付箋、走り書きのメモ。
積まれたバインダー。
冷えきった空のマグカップ。
(あたしが寝たあとも、ここで仕事してたんだ)
言葉にならない感情が、静かなさざ波みたいに胸に広がっていく。
そのとき。
「……んー……」
低い声。
身じろぎして、ゆっくりと目を開ける。
「……はよー…」
寝起き特有の掠れた声で、こちらを見る。
「あ……おはようございます、
すみません、あたしがベッド使って……!」
言い切る前に、片手が伸びてきて、軽く制される。
「ええよ。眠れた?」
自分のことより先に、あたしにそう聞く。
その優しさが、胸をきゅっと締めつけた。
「は、はい……すごく……」
「そらよかった」
あくびを噛み殺しながら、ゆっくり起き上がる。
鷹宮先輩は、机の上に散らばっていたものを片付けて、キッチンへ向かった。
「手伝いますねっ」と慌てて、あたしも背中を追いかけた。
遅めの朝食を並べて向かい合って座る。
食べながら、ふいに鷹宮先輩が口を開いた。
「……なぁ」
「はい?」
「このままやと、生活ごちゃごちゃになるやろ」
箸を置いたその顔は、少しだけ真面目だった。
あたしは、ついにこの話をする時が来たんだと察する。
言わなきゃいけないのは、きっとあたしの方だ。
「ずっとお世話になるのは、やっぱり悪いですし……」
「そろそろ、自分で探さないとって……」
言い終わる前に、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
「……それ、本気で言うてる?」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
ただ、逃げ道を塞ぐような真っ直ぐな目。
「昨日、あの部屋行って」
ゆっくり言葉を選ぶみたいに、続ける。
「まだ落ち着いてへんって、分からんほど鈍くないで」
低くて、静かな声。
その一言で、 あたしの中にあった“遠慮”が、言い訳みたいに崩れていく。
「泊めるとか、世話するとか――そういう曖昧なん、やめよ」
そう言って、鷹宮先輩は一度、静かに息を吐いた。
箸を置く小さな音が、やけに大きく響く。
「ちゃんと決める」
冗談も、逃げ道もない声音だった。
思わず、背筋が伸びる。
ほんの一拍のあと。
「……同居、やな」
“泊めてもらう”じゃない。
――この人と、暮らす。
あたしは、何も言えないまま、 ただ、鷹宮先輩を見返していた。
「ただし、ルールは決める」
「はい……!」
その反応がおかしかったのか、先輩がふっと笑った。
「まず、家賃とかいらんから、俺の健康維持のためにも食費と家事は葵が担当」
反論の隙を与えず、次々に言葉が落ちてくる。
「無理な日は無理って言う。ため込まんことな」
「ご飯は、基本一緒に食べる」
それだけ、少し声が柔らかくなった気がした。
「仕事で遅なる時は、ちゃんと連絡する」
一拍置いて、最後。
「あと……勝手に一人で抱え込まんことと、素直に俺に甘やかされること」
少し意地悪っぽく笑う。
「嫌なら言いや?」
拒否権を残した言い方のはずなのに、断れる空気じゃなかった。
「……い、嫌じゃないです」
(むしろ、あたしだけが得してるみたい……いいのかな?)
そんな考えまで見透かしたみたいに、鷹宮先輩は肩をすくめた。
「我慢や無理はしてへんで?何なら、葵の作ったメシ食えるん最高やし」
「……他のやつに食わせるん、もったいないくらいやな」
慣れない褒め言葉に、気恥ずかしくなった。
「後は、ややこしなるから、雪乃や和巳とか以外には内緒にしとこか」
「それなら、南実くん……あたしの同期で真鍋さんの――」
「ん、葵が信頼してる子ならええよ」
唯一の同期、松原南実(まつばら みなみ)くん。
新人時代を一緒に乗り越えた戦友みたいな存在だ。
知ってくれる人がいるのは、たしかに心強い。
「ほな、決まりや」
そう言って、鷹宮先輩が右手を差し出した。
あたしもそっと手を重ねる。
「改めてよろしくな、葵」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
重ねた手のひらの熱が、じんわりと残る。
――こうして、曖昧だった居場所は、
ちゃんと「ふたりの生活」に変わっていった。
***
ルールを決めたあと、アパートから持ち帰った荷物の整理を二人で済ませた。
気づけば、もう十五時を回っている。
夕食の準備のため、近所のスーパーへ食材を買いに行った。
「鷹宮先輩……またプリン買ってましたね」
「甘いおやつの常備は常識やで」
「……ちゃんとご飯も食べてくださいね」
「当たり前やん、プリンは別腹やし」
「女子高生みたいなこと、言いますね」
軽口を交わしながら、買ってきた食材を冷蔵庫へ片付けていく。
今日のリクエストはロールキャベツ。
あたしがエプロンをつけて調理を始めると、鷹宮先輩は頬杖をついてカウンター越しにじっと見ていた。
「手際いいな、料理すんの好きなん?」
「そうですね、楽しいし好きですね」
剥いたキャベツをレンジに入れる。
すると、隣に来た鷹宮先輩が「俺も手伝う」と腕まくりを始めた。
具材を合わせたミンチを捏ねながら、先輩がふいに尋ねる。
「葵、ちゃんと食べれてる?」
「普通には……どうしてですか?」
「めっちゃ軽かったから」
昨晩のことだ。
思い出しただけで顔が熱くなる。
「男の人って、細い方が好きなんかなって、なんとなく……」
「それは人それぞれやろ。少なくとも俺はちゃうで」
少し迷ってから、聞いてみる。
「じゃあ、鷹宮先輩のタイプはどんな人ですか?」
はぐらかされると思っていたのに。
なのに、真剣な瞳がまっすぐあたしを捉えた。
「鷹宮璋という――俺自身を見てくれる人」
一瞬、時が止まったみたいな、でもはっきりとした口調。
(それって……)
肩書きでも、仕事ぶりでもなく。
甘いカフェオレを飲んで、プリンを常備して、料理は少し苦手で。
そういう鷹宮先輩自身を、見てほしいってことなんだろうか。
「そういう葵チャンは?」
直後に返ってきた問いに、今度はあたしが息を詰まらせる。
「……今度こそ、自分を偽らず自然体でいられる人……です」
「頑張ってロールキャベツ、作っていきましょう」
誤魔化すように具材を切っていくと、すぐ隣で声が落ちる。
「葵、ストップ。紐ほどけそうや」
先に気づいた先輩が、エプロンの紐を結び直す。
「ん、ええよ」
ぽんっと軽く叩かれて、また心臓が跳ねた。
「……ありがとうございます」
こんな些細なことなのに、触れられただけで意識してしまう。
そのまま、鷹宮先輩は柔らかく笑った。
「こうやって一緒に料理するんも、楽しいな」
そして、何気なく。
「またやろうな、葵」
キッチンに浮かぶ並んだ2つの影。
その光景が、胸の奥をじんわりと溶かしていった。
***
上出来だった夕食とお風呂を終え、乾いた食器を片付けていた。
ふと窓に映った自分の姿に気づく。
髪はまだ少し湿っていて、毛先が無造作に肩へ落ちていた。
(……あとで乾かそ)
そう思ってキッチンを離れようとした瞬間。
「……葵」
低い声に、足が止まる。
「髪」
短く、それだけ。
振り返ると、鷹宮先輩が腕を組んでこちらを見ていた。
視線はまっすぐ、あたしの髪へ向いている。
「まだ濡れとるやろ」
「あ、はい。あとで――」
「あとで、やない」
被せるように言われて、言葉が詰まる。
「風邪ひく」
それだけ言って、先輩はソファの方へ顎をしゃくった。
「おいで」
命令みたいなのに、声は不思議と優しい。
「え、でも……」
「ルール」
一拍。
「甘やかす、言うたやろ」
反論する余地が、どこにもなかった。
ソファの下のラグに座らされて、あたしは落ち着かないまま背筋を伸ばす。
後ろのソファに座った先輩が、ドライヤーを手に取る気配。
スイッチが入った瞬間、温かい風が首筋を撫でていく。
「……やっぱり自分で」
思わずこぼれた声に、「動くな」と即座に返ってくる。
仕事のときと同じ低いトーン。
なのに、距離が違いすぎて心臓がうるさい。
先輩の指が、髪に触れる。
濡れた毛先をすくい上げて、絡まないようにゆっくりと。
「……ちゃんと乾かさんと、クセつくで」
「……はい」
「髪、ほっそいな」
返事しかできない。
耳元をかすめる風と、鷹宮先輩の指先。
時々、髪をかき分けるときに頬に触れる熱。
さっきまで少し冷えていた身体が、違う熱を帯びていくのがわかった。
(……これ、普通?)
普通じゃない気がする。
「……鷹宮先輩」
呼ぶと、少しだけ手が止まった。
「ん?」
「……慣れてますね」
「何が」
「髪、乾かすの」
一瞬の間。
「……妹おるからな」
さらっと言われて、なるほどと妙に納得してしまう。
でも、そのあと。
「せやけど」
指先が、ゆっくりと耳の後ろを通る。
「他人にこんな近づくん、久々やわ」
「……葵は、なんか別やけどな」
(……他人)
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ、ひやりとした。
もっと、違う名前で呼ばれたい。
そう願ってしまう自分が、どうしようもなく怖くなった。
「よし」
ドライヤーの音が止み、部屋に静けさが戻る。
さっきまで掻き消されていた、お互いの呼吸の音が耳の奥に響いた。
名残惜しむみたいに、最後に一度だけ髪をすいて流す。
「……終わったで」
肩に落ちた髪に触れて、思わず呟いた。
「あったかいし、サラサラ……」
「せやろ」
すぐ後ろから、得意気な声。
「……これも、ルール追加な」
「え?」
「風呂上がりは、俺が乾かす」
あまりにも自然に言うから、言葉の意味が追いつかない。
「これは俺のワガママ、嫌やったら言え」
そう言いながら、もう一度だけ髪に触れる。
「……でも」
少し低くなった声で。
「濡れたまま放っとく方が、俺が落ち着かん」
――無自覚。
完全に。
何も言えずにいるあたしの背中へ、軽く手を置く。
「はい、おしまい」
その一言で全部終わったみたいなのに、鼓動だけがまるで終わってくれなかった。
(……これが、甘いルール)
解ける気なんて、最初からしなかった。
***
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めて、静かにリビングへ向かう。
キッチンでは、すでに鷹宮先輩がコーヒーを淹れていた。
「……おはようございます」
「おはよ。早いな」
それだけなのに、胸が落ち着く。
テーブルには、並んだマグカップ。
昨日と同じ配置。
最初からそうだったみたいに、自然に。
「……ちゃんと寝たんか?」
「はい。……ぐっすり」
「そらよかった」
差し出されたカップを受け取る。
あたたかさが、そのまま身体に染みていく。
「月曜やな」
「……はい」
「会社、行くで」
当たり前みたいに言われて、 一緒に出ることが前提になっているのだと気づく。
玄関でコートを羽織る。
「……あの」
「ん?」
「よろしくお願いします。同居も仕事も」
一瞬だけ目を瞬かせてから、鷹宮先輩は軽く笑った。
「今さらやな。カードキー持ったか?」
「ほな、行こか」
ドアが開き、冬の匂いがする空気が流れ込んだ。
並んで外へ出る、その距離が昨日より近い。
エレベーターの中。
「……髪」
一言だけ。
「ちゃんと乾いてるな」
(……覚えてる)
「はい」
「よし」
外へ出る直前。
ほんの一瞬だけ、背中に触れられる。
押すでもなく、支えるでもなく。
そこにいることを確かめるみたいに。
その一瞬だけで、背中の奥にまで熱が残った。
「寒いから、気ぃつけや」
あたしは駅へ。
鷹宮先輩は駐車場へ。
別々に歩き出すのに、
――もう、ちゃんと、帰る場所になっていた。



