第3部 夜明けが世界を染めるころ、悪意の見える伯爵令嬢は王子の執着から逃れられない

静かに廊下を進んでいたところに、突然けたたましい声が響いた。

「ちょっと、これどこ持っていくんですか!?」

「お嬢さんの書斎!!」

「それにしたってなんでこんな重いんだ!?」

わらわらと廊下を塞ぐ三つの影。
アレン、レオ、ロベルト――騎士二人とお嬢様の料理人。

彼らの腕には、大きな花瓶。
しかも、ちゃぷん、ちゃぷんと水の音がする。

まさか、水入りのまま運んでいるのか?

「ちょっと、やめなさい」

そう声を発するより早く――

バシャーンッ!

派手な水音が廊下に響き、冷たい水しぶきが飛び散った。

そして、見事にレイの全身へ。

「す、すみません!!」

「わあ、びしょびしょですよ!」

「ど、どうするんだ!」

三人がそろいもそろって慌てふためき、右往左往する。

レイはというと、濡れた前髪を静かにかき上げ、眼鏡を外した。
水滴が顎先から落ちるのに、表情は驚くほど涼しい。

「いえ、大丈夫ですよ」

その落ち着きに、逆にこちらが焦る。

「大変申し訳ありません……!」

私は慌てて頭を下げた。

レイは軽く首を振り、穏やかに微笑む。

「お気になさらず。それより――」

視線を三人へ向ける。

「そもそも、なぜこんな大きな花瓶を運んでいるんですか?」

レオがオロオロしながら答える。

「お嬢さんの書斎に置いたらきれいだと思って!
お嬢さんも“好きにしていい”って言ってたからぁ!」

「だったら、なんで水を先に入れるんですか」

私の指摘に、三人は同時に固まった。

「た、たしかに……」

「盲点だった……」

「いや、普通気づくだろ……」

三者三様に肩を落とす姿が、なんとも言えず情けない。

廊下には水たまり、花瓶は空っぽ、そしてレイはびしょ濡れ。
静かな伯爵家の廊下に、妙な間だけが残った。