週末の夜、柚月は再び天文科学館を訪れていた。
昼間とはまるで別の建物のようだった。
塔はライトアップされ、夜空に静かに浮かび上がっている。
昼は多かった来館者の姿も、今はまばらだ。
受付を済ませると、参加者は二十人ほど集まっていた。
年齢もばらばらで、小学生くらいの子どもを連れた家族もいれば、一人で来ている人もいる。
柚月は、少しだけ緊張しながら、その輪の端に立った。
「今日は天気に恵まれましたね」
聞き覚えのある声がして、振り返ると星野さんがいた。
昼間のブレザーとは違い、動きやすそうな上着を羽織っている。
「こんばんは」
「こんばんは。来てくれて、ありがとうございます」
その言葉に、柚月は小さく頷いた。
来てよかったのかどうか、まだ分からない。
でも、ここにいること自体は、不思議と悪くなかった。
簡単な説明のあと、参加者たちは屋上へと案内された。
外に出た瞬間、空気が変わる。
昼の暖かさが嘘のように、夜風が肌に触れた。
「まずは、月を見てみましょう」
屋上の中央には、大型の望遠鏡が据えられている。
白い筒が、夜空に向かって静かに構えていた。
順番に、望遠鏡を覗いていく。
柚月の番が来て、接眼レンズに目を近づけた。
「……わ」
思わず、声が漏れた。
月が、そこにあった。
ただの白い丸ではない。
凹凸があり、影があり、立体として存在している。
「クレーターがよく見えますね」
星野さんの声が、すぐ近くから聞こえた。
「はい……思っていたより、ずっと」
「月は、いちばん身近な天体ですから。最初に見るには、ちょうどいいんです」
柚月はもう一度、そっと覗いた。
昼間に見たプラネタリウムの月とは、まるで違う。
本物は、少しだけ無骨で、でも確かだった。
次に見たのは、木星だった。
小さな円盤のような姿の横に、いくつかの光の点が並んでいる。
「ガリレオ衛星です」
そう教えられて、柚月は頷いた。
名前だけは知っていた星が、実際に目の前にある。
望遠鏡での観測がひと段落すると、今度は肉眼で星空を見る時間になった。
「街の明かりがあるので、全部は見えませんが……」
星野さんがレーザーポインターで空を指す。
「あのオレンジ色の星が、アークトゥルス。その下の白い星が、スピカです」
柚月は、空を見上げた。
昼間の星座解説と同じ名前。
でも、今見ているのは、本物の空だ。
星は、思っていたより少ない。
それでも、確かにそこにある。
「きれいですね」
誰かが、ぽつりと呟いた。
柚月も、同じことを思っていた。
東京では、夜空を見上げることすらなかった。
見ても、何も見えなかったから。
ここでは、違う。
星は少なくても、ちゃんと見える。
観望会は、ゆっくりと終わりに近づいていった。
参加者たちは、名残惜しそうにしながらも、少しずつ帰っていく。
屋上には、柚月と星野さん、それから数人が残っていたが、やがてそれも減っていった。
しばらくのあいだ、二人とも何も言わず、ただ夜空を見上げていた。
「……私、最初は研究者になりたかったんです」
星野さんは、空を見たまま、ぽつりと言った。
「大学では天文学を専攻して、大学院にも進みました」
語り口は淡々としていて、特別なことを話しているようには聞こえない。
柚月は、何も言わず、そのまま耳を傾けた。
「星を研究するのは、すごく楽しかったです。でも、途中で分かってしまって」
星野さんは、少しだけ間を置いた。
「向いてないな、って」
夜風が、屋上を通り抜ける。
望遠鏡の駆動音も、もう聞こえない。
「研究って、好きなだけじゃ続けられない仕事で。才能とか、運とか、タイミングとか……いろいろあって」
そう言ってから、星野さんは小さく息をついた。
「それで、この仕事を選びました」
天文科学館の塔が、視界の端に入る。
「最初は、正直、逃げたのかなって思ったこともあります」
声に、後悔は混じっていなかった。
ただ、事実をそのまま置いているようだった。
「でも、ここで星を見せて、誰かが立ち止まってくれる瞬間を見るのが、私は好きで」
星野さんは、再び空を見上げた。
「だから、今は……これで良かったんだと思っています」
それきり、言葉は続かなかった。
柚月は、空を見上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。
星は、何も答えない。
それでも、夜空は静かにそこにある。
「そろそろ、下りましょうか」
星野さんが、いつもの調子で言った。
「はい」
柚月は短く答えた。
階段を下りながら、柚月は思った。
星を見る仕事にも、いろいろな形がある。
研究する人。
伝える人。
ただ、見上げる人。
どれも、間違いじゃない。
天文科学館を出ると、夜の空気がひんやりとしていた。
空を見上げる癖が、もうつき始めていることに、柚月は気づいていた。
昼間とはまるで別の建物のようだった。
塔はライトアップされ、夜空に静かに浮かび上がっている。
昼は多かった来館者の姿も、今はまばらだ。
受付を済ませると、参加者は二十人ほど集まっていた。
年齢もばらばらで、小学生くらいの子どもを連れた家族もいれば、一人で来ている人もいる。
柚月は、少しだけ緊張しながら、その輪の端に立った。
「今日は天気に恵まれましたね」
聞き覚えのある声がして、振り返ると星野さんがいた。
昼間のブレザーとは違い、動きやすそうな上着を羽織っている。
「こんばんは」
「こんばんは。来てくれて、ありがとうございます」
その言葉に、柚月は小さく頷いた。
来てよかったのかどうか、まだ分からない。
でも、ここにいること自体は、不思議と悪くなかった。
簡単な説明のあと、参加者たちは屋上へと案内された。
外に出た瞬間、空気が変わる。
昼の暖かさが嘘のように、夜風が肌に触れた。
「まずは、月を見てみましょう」
屋上の中央には、大型の望遠鏡が据えられている。
白い筒が、夜空に向かって静かに構えていた。
順番に、望遠鏡を覗いていく。
柚月の番が来て、接眼レンズに目を近づけた。
「……わ」
思わず、声が漏れた。
月が、そこにあった。
ただの白い丸ではない。
凹凸があり、影があり、立体として存在している。
「クレーターがよく見えますね」
星野さんの声が、すぐ近くから聞こえた。
「はい……思っていたより、ずっと」
「月は、いちばん身近な天体ですから。最初に見るには、ちょうどいいんです」
柚月はもう一度、そっと覗いた。
昼間に見たプラネタリウムの月とは、まるで違う。
本物は、少しだけ無骨で、でも確かだった。
次に見たのは、木星だった。
小さな円盤のような姿の横に、いくつかの光の点が並んでいる。
「ガリレオ衛星です」
そう教えられて、柚月は頷いた。
名前だけは知っていた星が、実際に目の前にある。
望遠鏡での観測がひと段落すると、今度は肉眼で星空を見る時間になった。
「街の明かりがあるので、全部は見えませんが……」
星野さんがレーザーポインターで空を指す。
「あのオレンジ色の星が、アークトゥルス。その下の白い星が、スピカです」
柚月は、空を見上げた。
昼間の星座解説と同じ名前。
でも、今見ているのは、本物の空だ。
星は、思っていたより少ない。
それでも、確かにそこにある。
「きれいですね」
誰かが、ぽつりと呟いた。
柚月も、同じことを思っていた。
東京では、夜空を見上げることすらなかった。
見ても、何も見えなかったから。
ここでは、違う。
星は少なくても、ちゃんと見える。
観望会は、ゆっくりと終わりに近づいていった。
参加者たちは、名残惜しそうにしながらも、少しずつ帰っていく。
屋上には、柚月と星野さん、それから数人が残っていたが、やがてそれも減っていった。
しばらくのあいだ、二人とも何も言わず、ただ夜空を見上げていた。
「……私、最初は研究者になりたかったんです」
星野さんは、空を見たまま、ぽつりと言った。
「大学では天文学を専攻して、大学院にも進みました」
語り口は淡々としていて、特別なことを話しているようには聞こえない。
柚月は、何も言わず、そのまま耳を傾けた。
「星を研究するのは、すごく楽しかったです。でも、途中で分かってしまって」
星野さんは、少しだけ間を置いた。
「向いてないな、って」
夜風が、屋上を通り抜ける。
望遠鏡の駆動音も、もう聞こえない。
「研究って、好きなだけじゃ続けられない仕事で。才能とか、運とか、タイミングとか……いろいろあって」
そう言ってから、星野さんは小さく息をついた。
「それで、この仕事を選びました」
天文科学館の塔が、視界の端に入る。
「最初は、正直、逃げたのかなって思ったこともあります」
声に、後悔は混じっていなかった。
ただ、事実をそのまま置いているようだった。
「でも、ここで星を見せて、誰かが立ち止まってくれる瞬間を見るのが、私は好きで」
星野さんは、再び空を見上げた。
「だから、今は……これで良かったんだと思っています」
それきり、言葉は続かなかった。
柚月は、空を見上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。
星は、何も答えない。
それでも、夜空は静かにそこにある。
「そろそろ、下りましょうか」
星野さんが、いつもの調子で言った。
「はい」
柚月は短く答えた。
階段を下りながら、柚月は思った。
星を見る仕事にも、いろいろな形がある。
研究する人。
伝える人。
ただ、見上げる人。
どれも、間違いじゃない。
天文科学館を出ると、夜の空気がひんやりとしていた。
空を見上げる癖が、もうつき始めていることに、柚月は気づいていた。



