湿り気を帯びた初夏の風が、教室内に滑り込んでくる。
それが室内の蒸し暑さを加速させ、私は顔をしかめて机に突っ伏した。
「あ、おはよ、藍」
鈴を転がすような嬌声が聞こえ、少しだけ顔を上げる。
「……アヤ、おはよう」
私が視界に捉えたのは、親友の橘彩羽、通称アヤ。
肩の上まで伸ばされた茶髪は、毛先だけが内側にカールしている。
「今日、美術部の見学に行くんだけどさ、…………藍も、どうかな?」
恐る恐るというように尋ねられ、気を遣わせているのが一目で分かった。
いい加減、自分がいやになる。
「……ごめん、私は、ちょっと遠慮しとく」
素っ気ない態度を取ってしまい、気まずく感じて視線を逸らした。
「そっか、分かった。 ……そういえばさ、次のテストっていつだろ―――」
なんでもないというように、アヤは次の話題を振ってきた。
アヤは、私の事情を知らないのに、あえて詮索しないでいてくれている。
本当なら『どうして入らないの?』って聞きたいはずなのに、我慢してくれてるんだ。
と、そのとき
「水瀬さんってこのクラスですかー?」
扉の方から明るい声が響き渡り、一瞬シーンとした教室内が、一気に騒々しくなる。
私は、唐突に自分の名前が呼ばれたことに驚き、反応を忘れてきょとんとする。
顔は少しだけ見えたけど、知らない顔だった。
だけどクラスメイトの大半は知っていたようで、特に女子が悲鳴をあげた。
「きゃあぁぁぁ〜〜〜―――っ!! 楠木さまぁぁぁっっ」
「水瀬さん、楠木さまとどんな関係なの!?」
「私だって、楠木さまとお近づきになりたいわ……!! 水瀬さんが羨ましすぎるぅぅぅっ」
「どうやって認知されたの!? ファンクラブ番号一桁台の私たちでも、認知されてないのに!!」
席のまわりに人が集まって、混乱して何も言えなくなってしまう。
「あっ、えっと、その……」
「もしかして、他人に言えない関係とか!?」
「いやあぁぁぁ〜〜〜っっ、私たちの楠木さまがあぁぁっ」
違います、全くの他人です。 そう伝えたいけど、声が出ない。
どうしよう、これじゃあ誤解が広まって、面倒なことになるな……。
「ちょっと、黙っててくれる? 僕が興味あるの、水瀬さんだけなんだよね」
そう言って、私の手を掴んだ彼。
「あっ、ちょっと……!!」
「ごめん、今は静かにしてて」
彼は誘拐犯のように、華麗に私を引っ張っていった。
走るスピードが速くて、何度もこけそうになりながら裏庭へと連れて行かれる。
「……なんなんですか」
そう言ってから、じっとりと明度の低い視線を送った。
綺麗な形の瞳に、さらさらの短髪。
身長は、中学生だというのに、ゆうに一七〇センチは超えていそうな高さ。
女子たちが騒ぐのも納得のルックスだ。
「急にごめんね。 でも、お願いしたいことがあって。 いいかな」
「……ものによります。 それよりも、貴方は誰なんですか?」
丁寧な物腰の彼に向け、顔を背けてつっけんどんに答える。
「え、僕のこと知らないの?」
「悪いですか。 入って間もないんですよ、一年生は」
たとえ校内で有名だったとしても、私が知るわけがない。 興味がないから。
「え、珍しいね、きみ。 ……僕は、楠木零。 二年生」
「……そうですか」
先輩だった。 なんとなく、一年生のように見えていた。
「で、お願いなんだけど。 ……―――僕の、依頼を受けてほしい」
「い、依頼って、なんのですか……?」
真剣な瞳で見据えられ、反応に困る。
「きみならすぐ分かると思ったんだけどな、……絵の依頼だよ、きみに」
「……絵の依頼……」
反芻する。 どう答えるべきか、少し困る。
けれどすぐに、ストレートに言ったほうがいいと判断した。
「―――ごめんなさい。私、もう自分から筆を持たないと決めたんです」
「……、絵が、嫌いになったの?」
驚いたような楠木先輩に向けて、首を横に振った。
「…………私、ちょっとした病気を持っていて、……それで、絵を描くのを辞めたんです」
「病気……?」
楠木先輩は首を傾げ、説明を求めるように私を見つめる。
これは、親友のアヤも知らない秘密だ。
答えようか迷った。
彼はきっと、私が『なんでもないです』と言えば、無かったことにしてくれるはず。
……だけど、それじゃだめな気がして、唇を噛んだ。
今の私は、弱いけど……甘えてばかりなのは、もっと頼りなくなりそうで、いやだから。
意を決して、口を開いた。
「……青が、見えないんです」
一瞬、楠木先輩が息を呑んだのが分かった。
「僕の髪と目は、どう見えてるの?」
そう質問されて、再び口を開く。
「灰色に見えます。 だから空も、全部グレーです」
なるべく落ち着いているふうを装って、そう言った。
私にとって先輩の髪や瞳の色は、明るい感じ。
だから恐らく、ディープスカイブルーみたいな色だろう。
「……いつからなの?」
「五年生の、後半あたりです。 『ジュニコン』の少し後くらい」
『ジュニコン』とは、『全国ジュニア絵画コンクール』のこと。
そのときの私は、『海と砂はま』という絵を提出した。
それは、吸い込まれるような深い青色を重ねて、近くの浜辺の風景を描いたもの。
そして、金賞を受賞した。 金賞を取ったのは、人生のうちで七度目だった。
景品に貰ったのは、ライトブルーの魔法瓶。
そのあたりの時期から、私は『天才少女画家』と称された。
だから先輩は、『私なら分かる』って言ったんだ。
「そうなんだ、……ごめんね、いやなこと言わせて」
申し訳なさそうな先輩の声が耳に入る。
「いえ、別に大丈夫です」
そう言うと、私は頭を下げてその場を離れようとする。
背後から響いた先輩の声に聞こえないふりして、教室へと駆けた。
「水瀬さん! 一体どういうことなの!?」
「楠木さまと何をしていたの!?」
「どうして水瀬さんが、あんなに優しくされてるのっ!!」
教室へ戻ってきた瞬間、女子らに取り囲まれる。
「なんでもない。 楠木先輩が、私に頼み事があったらしくて」
そう答えてから、私は付け加えた。
「ああでも、結局勘違い……というか人違いで、なにもなかったんだけどね」
「へ〜……まあそっか」
「言われてみれば、その可能性が一番高かったわよね」
私なんかは先輩の眼中にないと言いたげな視線に、微妙な気持ちになる。
ほんとは、違うけど……穏便に済ませるほうが、省エネで楽だし。
きっともう関わることもないし、それなら嘘を吐いたとバレることはありえない。
妙な噂……例えば『先輩が、水瀬藍と会っていた』みたいな意味深な話が出回ることが、一番いや。
だって、それでもしも詮索されて、『水瀬藍は、実は有名な画家』だって学校中の人が知ったら……
―――『ねえ、ちょっと美術手伝ってよ』
―――『天才画家なんだから、簡単でしょ。 代わりに描いて』
―――『……え、青見えないってまじ?』
―――『それが絵の天才とか笑える』
―――『落ちぶれてんじゃん。 カワイソ〜』
…………きっと、話題のタネにされる。
そんなふうな日常になるくらいなら、こうやって机に伏せてるほうがマシだ。
感覚をシャットダウンして、眠っているふりをする。 こういうのは得意。
「あ、また水瀬寝てんじゃん」
「え〜、正直、どーでもよくない? てかさあ、Miiの新曲まじ最高」
「あれのことぉ? 私、半年前のあれが好き。 ほら、『感傷バイアス』」
「あっ、確かに!! サッカーはどう思う〜?」


