彼は魅惑のバレリーノ

カフェを出て、アパートの前まで戻ると、入口付近が妙にざわついていた。
人の気配がいつもより多い。ざわざわとした声が階段の方から漏れてくる。

胸がざわつく。
嫌な予感が背中をつたっていく。

――あれ。
あの集まってる場所、私の部屋の前じゃない?

階段を上がろうとした瞬間、大家さんが慌てた様子でこちらに駆け寄ってきた。
顔が青ざめていて、手には雑巾を握りしめている。

「貴女、この部屋の人?」

「はい、そうですが……何かありました?」

息を整える間もなく、大家さんは眉を寄せて言った。

「実はね……上の階の人が水漏れさせちゃったみたいで。
中、確認してもらえるかしら?」

まじか。
心臓が一瞬で冷たくなる。

私は震える指で鍵を差し込み、急いでドアを開けた。

その瞬間、ひやりとした湿気が顔にまとわりつく。
部屋の奥から、ぽた……ぽた……と規則的な水音が響いていた。

天井を見上げると、白いクロスがじわりと濡れ、そこから透明な雫が落ちている。
床にはすでに小さな水たまりができていた。

「あ、これは……まずいやつ……」

思わず声が漏れる。

後ろから柊くんもついてくる。

「とりあえずパソコン!」

慌てて確認すると、袋の中に入れてあったので無事だった。
胸の奥が一気に緩む。

「セーフ……!」

「良かったね。」

柊くんはほっと息をつきながら、天井を見上げる。

「でも、これ……しばらくは住めないね。」

ぽたぽたと落ちる水音が、妙に現実味を帯びて耳に刺さる。

「た、確かに……。」

部屋の空気は湿気で重く、床は冷たく濡れて、生活の気配が一瞬で奪われたようだった。