扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました

 軍本部へ戻る道の途中、凛子は革封筒を胸に抱えていた。中に収められた被害者一覧は紙束にすぎないはずなのに、不思議なほど重い。紙が重いのではない。そこに刻まれた名前一つ一つが、彼女の腕を沈ませていた。

 最初の被害者――イリーナ・ヴェルト。商家の娘、二十四歳。黒髪に黒い瞳。二ヶ月前に通り魔に襲われ、祝祭週間のただ中で殺害された。黒と黒。二つの色持ち。凛子は無意識に首筋へ触れた。あの夜、防御の魔術具が起動しなければ――この封筒の中にある名簿の末尾に、自分の名前が並んでいたかもしれない。

「リィン!」

 呼ばれて振り返ると、エイゼルが軽く駆けてきていた。

「何してんの、そんな顔して」
「え、そんなってどんな?」

「疲労困憊て顔」
 覗き込むエイゼルの目は素直に心配を孕んでいた。

「新しい職場がね……ほら、慣れないし。上司も微妙だし」

 無難に笑ってみせると、エイゼルの視線が凛子の手元の封筒に落ちた。

「王都支部に行ってたんだろ。通り魔の資料もらいに」
「え、なんで知ってるの」
「塔主から聞いた。軍が本腰入れて動き出したって」
 周囲を一瞥したあと、エイゼルは声を落とした。
「リィン、あの事件……まだ未解決。ただの通り魔じゃないかもしれない。最初の被害者が、殺された。知ってるか?」
 凛子は静かにうなずく。
「現場にね、妙な黒い像が残されてたらしい」
 足が止まる。
「黒い……像」
「ああ。人っぽいのか生き物なのかも判別つかない、雑な彫りの置物だ。何かの象徴物に見えたって」
「役に立たないお土産みたいな?」
 エイゼルの目がわずかに開く。
「……あれ、知ってる?」
「最初に支部行ったときに見せられた。あれ何なの?」
 エイゼルは少しの間思案に沈み、それから低く続ける。
「俺が最初に見たのは特別自由都市ゼイレン。終末信仰系の祈物らしい。塔主が調べた限りじゃ……西方大陸のとある地域で崇められる、終わりの神とやらを模した像だそうだ」
「西方……」
「お前の出身地ってことになってるところな」
 エイゼルの視線が、探るように細くなる。
「なあリィン。お前が元居た世界と、何か関係あるってことないよな?」
「うーん……分からない。私の世界、宗教なんて山ほどあったし、変な偶像は掃いて捨てるほど出てきたし。でも、個人的に、気になることはあるんだよね」
「何が?」
「……気のせいだと思いたいんだけど。魔物の活性化も、通り魔事件も、今年の春以降。で、私がこの世界に、完全に留まる事になったのも春で……関係ないとは思うけど」

 言葉にして初めて、ぼんやりとした不安の輪郭が見えてくる。自分が巻き込まれた事件が動き始めた時期と、重なっている。偶然といえば偶然なのだが。それらは嫌な輪郭を帯びてぼんやりと浮かび上がってくる。

「でもさ、私が異世界から来たって知ってるの、ラストゥーリャさんと、エイゼルと、あとディエルさんだけじゃん」

 そこでふと、思考が途切れた。
 唯一、自分の世界を深く知っていたシェイルは――記憶を失った。
 ぽたりと何かが胸の底に落ちるような痛み。
 無関係であってほしい願いの傍らに、根拠のない不安が並ぶ。

「ま、今は、閣下の調査に協力するしかないか」
 エイゼルは凛子の肩をがしっと掴んだ。
「絶対に一人で行動するな。夜は特にだ。いいな? 外にふらっと飲みにいくなよ? 飲むなら部屋で、もしくは外宮の食堂! 飲みたい気分の時はいつでも呼べよ」
「さすがに食堂は怒られるんじゃないの……あ、でもこの前官舎で歓迎会の時飲み比べしたわ」
「え……なにやってんの」

◇◇◇

 執務室に戻ると、シェイルは地図の前に立っていた。壁一面の地図には、既に複数の印が打ち込まれている。

「戻りました」

 振り返ったシェイルへ、凛子は封筒を差し出した。中身に目を通すにつれ、その横顔はゆっくりと強張っていく。

「……成程な」
 呟きとともに、彼は地図へ視線を戻す。
「被害者七名。うち三名が黒二つの色持ち。残りも魔力値が高い」
「全員、魔力を持っていたんですか」
「まあ二つの色持ちのうち一人は除外して、だがな」
 シェイルは新たな印を地図に打つ。
「もし、被害地点に規則性があると仮定すると」
 凛子は息を呑み、地図を追った。印が描く線は――円形の紋様を成しているように見えた。
「これって……魔術の陣形ですか」
「巨大な紋様術式陣だ。七つの点で成す大規模な陣。そして中心にあるのは」
 と、指が一点を示す。
「……えっと、大聖堂でしょうか?」
「正確には、その奥だ。アゼリアス建国以前からある祈りの道の最深部――封印の地」
「封印……?」
「昔、この国に災厄をもたらした魔物が封じられた場所だ。リアス神の力で千年封じられてきた、と言われている。……が、もしこの陣が完成すれば、封印は解かれる可能性がある」
 凛子は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「じゃあ、魔物の活性化は……」
「封印弱体化への呼応かもしれん。そして、この陣を完成させるには――あと一つ、生贄が必要だ。強い魔力を宿した者の髪や血肉、魂」
 ふいに自分の髪に手をやる凛子を認め、シェイルは薄く笑った。
「まあ、お前も狙われたが、術具が発動して転移しただろう」
 声はどこまでも淡々としている。
「ゆえに、結果として助かった……まあ魔力も大した値じゃないから、贄としては価値が低いだろうが」

「じゃあ最初の被害者さんって」
「代わりに選ばれたのだろうな」

 シェイルの言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかった凛子は、示唆された内容に、震える。つまり、自分が助かった分、誰かが死んだ――。

「お前のせいではない」
 シェイルの低い声が、凛子の思考を易く断ち切った。
「これらは全て誰かによる悪意に他ならない。お前が狙われたのも、イリーナが殺されたのも、犯人の思惟だろう」
「でも……」
「今、我々がすべきは犯人を見つけることだ、そしてこれ以上被害を広げないように、解決の道を模索する事だ。ウェントワースとローワンを呼べ。ラストゥーリャにも連絡を。学術庁の協力が要る」

 凛子は部屋を出かけて――足を止めた。

「あの、閣下」
「何だ」
「……私は、大丈夫ですよね?」

 震える声は自分でも情けないと思った。しかし口から出てしまった。長い長い沈黙のあと、シェイルは静かに言った。
「……俺の書記官だからな。民を守るのは将軍の務め。そして部下を守るのは上官の務め。当たり前の話だろう」
 視線はもう書類へ戻っている。
「行け」

 廊下に出ると、壁に背を預け、深い息を吐く。
 ――俺の書記官だからな。

 無論、ただの職務だと分かっている。民を守るという文脈で口にしただけの言葉だ。
 それでも。
 胸の底に、抑えきれない熱がじわりと疼いた。
 彼の言葉が、自分ただ一人に向けられたもののように響いたから。