扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました

 延期となった歓迎会は、翌日の夜に幕を上げた。一階食堂に集まった軍本部の若手騎士たちは、久々の女性入居者というだけで浮き立っていたらしい。凛子が姿を見せると、ざわめきは歓声へと変わった。

「おお、噂の秘書官殿!」
「将軍閣下のお墨付きだってな、只者じゃねえぞ」
「いやいや、天文院で賢者様を手玉に取ったって話も聞いたぜ」

 いったい誰がそんな尾ひれを付けたのか。凛子は微笑を貼り付けたまま、内心ではそっと頭を抱える。

「皆、騒ぎすぎだ。席に付け」

 カトレアの一喝で、熱気はようやく落ち着きを取り戻し、次々と差し出される酒や皿に礼を述べるだけで手一杯になった。卓に並ぶ料理は思いのほか豪華だ。香ばしく焼かれた鶏の丸焼き、じっくり煮込まれた野菜、数種のパン、そして甘い果実のパイ。普段の軍官舎では考えられない豪勢さで、今日が特別であることが否応なく伝わる。

「リィン殿は、どちらのご出身で?」

 隣の若い騎士が人懐っこい調子で問う。徽章を見るに、まだ駆け出しっぽい。

「えーっと、西方大陸の、小さな村です」

 息を吸うように嘘をついている。この世界に居付いて、繰り返し何度も説明してきた架空の身の上話に、別の騎士が興味深そうに身を乗り出す。

「西方語、しゃべれたり?」
「いえ、えーと、母がこちらの出で。共通語の方が得意なんです」

 曖昧な笑みで受け流す。こうした質問攻めは、すでに慣れたものだった。

「では、改めて。リィン・カミーヤの入居を祝して」

 グラスが一斉に掲げられ、凛子も慌てて立ち上がる。

 深く礼を返した瞬間、その場の熱気がようやく身体に沁みてくるのを感じた。宴が進むにつれ、騎士たちの話題はいつしか現場の愚痴へと変わっていた。

「しかし討伐の多さ、どうなってんだ」
「休みが一日もねえ」
「魔物の質が変わってねえか? 妙に凶暴だし」

 彼らの会話の断片は、昨日まとめた分析資料の内容と、奇妙に一致している。

「春先からだよな、変なのは」
「王都支部も警備強化に踏み切ったらしいし。あの通り魔事件も、まだ片付いてねえ」

 通り魔事件──。無意識に、指先が首筋へ触れた。痣は消えた。それでも、あのひどく冷たい手の感触だけは記憶から離れない。

「髪を切るだけで命までは奪わないなんて、何が目的なんだか」
「魔術の材料って噂もあるぜ。色持ちの髪は魔力を宿すとか」
「でも、被害者全員が色持ちってわけでもねえだろ?」
「いや、最初の被害者は──」

 その先が口に出る前に、誰かが咳払いで会話を断ち切った。

「……まあ、物騒な話はやめとこうぜ。今日は歓迎会だ」

 凛子は手元の酒を見つめた。琥珀が揺れ、妙に遠い味がした。こういう時は飲むに限る。

「じゃあ、飲み比べ、しませんか? 明日に支障出ない程度に!」

 新人の言葉に、騎士達が大いに沸いた。凛子の隣の席では、カトレアが信じられないものを見る様な目つきをしている。

「飲み比べるほど、飲めるのか?」
「飲めます! ちなみに私のせか……国では、飲んでも飲んでも酔わない人の事をザルと言うのですが、私はなんと……」

 反対側に居た騎士がグラスを手にしたまま興味深そうに見つめる。

「ザル通り越してワクでーす! こっちでいうとザルは笊、ワクは枠ですね!」
「目の粗いあれのこと?」
「そうそう!」
「それの枠だけ?」
「です!」

 胸を張って断言する凛子を前に、騎士たちは一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに面白がるように笑い声を上げた。

「じゃあ試してみるか! どっちが先に潰れるか勝負だ!」
「俺、強い方だけどな? 覚悟しろよ、秘書官殿!」

 どこかで誰かが酒瓶を掲げ、いつの間にか空いた杯が卓の上にずらりと並んでいた。カトレアは額に手を当てている。

「お前たち……ほんとうに馬鹿じゃないの」
「隊長もどうです?」
「冗談じゃない。私は匂いだけで倒れる」

 その宣言どおり、カトレアはほんの一滴を舐めただけで耳まで真っ赤になり、すぐさま水を求めて席を離れる羽目になった。

 さて、勝負はというと──。

「ほらほら、次ですよ!」
「…………お、おう……」

 最初に沈んだのは張り切っていた新人だった。杯を三つ空にしたところで急に机に突っ伏し、静かな寝息を立て始める。

「おい、まだ始めたばっ──」
「次の方どうぞ!」
「……ッ」

 二人目は寡黙な剣士で、無表情のまま平然と飲み進めていたものの、六杯目で突然、椅子ごと後ろへ倒れた。仲間が慌てて抱え起こすが、本人はまるで石のように動かない。

「…………ちょっと待て。なんで平気なんだ」
「あ、次お願いします」

 凛子は頬すら赤くならない。世辞でも虚勢でもなく、ただ淡々としていた。

「お、お前……ほんとに大丈夫なのか……?」
「はい! 全部通しちゃいますから! 何事も無く!」

 意味のわからない理屈に、騎士たちは笑いながらもどこかで恐れを抱き始めているようだ。そして三人目、四人目と倒れ──最後に残ったのは、一番年嵩の騎士だった。

「若いもんに、負けられっか……」
「尊敬します!」
「……だがな……俺はな……ぐ……」

 ぐらり。そのまま静かに横へ滑り落ちた。食堂の喧騒は、いつの間にか嘘のように静まり返っていた。床にもたれるように果てた騎士たち。頬杖をついたまま寝落ちしている者もいる。そして、ただ一人。グラスを持ったまま、凛子──だけが正気の目をしていた。

「……ふう。さっぱり! あーただでこんなに飲んでいいなんて幸せ過ぎる」

 その声に、壁際に避難していたカトレアが呻くように言った。

「……お前、本当に人間?」
「なんでそんなこと言うんですか!」
「こっちの台詞だ……」

 宴の残り香が漂う食堂に、凛子の元気な声だけが妙に澄んで響いた。


 翌朝、凛子は始業開始より確かに早く執務室へ向かった。現実逃避を兼ねてあれだけ飲んだのにも関わらず、昨夜の会話が頭にまとわりついたままだったからだ。すでに机に向かっていたシェイルは、彼女の挨拶に顔も上げず「遅い」と返す。始業前だというのに、と言い返したかったが飲み込む。

「昨日まとめた資料だが、追加で調べてもらう」
「承知しました」
「王都で多発している通り魔事件の被害者一覧を王都支部から取り寄せろ。今年の未解決事件もだ」

 ペンを持つ手がわずかに止まった。

「……えーっと何か、関連が?」

 初めてシェイルが顔を上げる。青灰の瞳が、凛子を真っ直ぐ射抜いた。

「調べ直す必要がある。お前が遭遇した件とも無関係ではない」

 その言葉の鋭さに、胸の奥で冷たい波が立つ。

「すぐ対応します」

 魔物の活性化。
 通り魔事件。
 自分が襲われたあの夜。
 本当に、何一つ繋がっていないと言い切れるのだろうか。

 窓辺の陽光が石畳を照らしていたが、その明るさがやけに遠い。

 その日の午後、凛子は王都支部を訪れた。書簡だけでは時間がかかるとの理由で、シェイルが直接の派遣を命じたのだ。

「通り魔事件の被害者一覧……ですか?」

 応対の受付官が戸惑いを隠せずにいる。

「右将軍閣下の命です。お願いします」

 辞令書を示すと、真面目そうな彼は慌てて奥へと引っ込んだ。待合室では時間の流れがやけに遅く感じられた。掲げられた王国の紋章、告知がびっしり貼られた掲示板──視線を滑らせていると、受付官が戻ってくる。

「お待たせしました。こちらが被害者一覧です。それと、隊長がお話があると」

 案内された部屋には、先日も顔あわせた男が座っていた。

「先日はご協力いただきましたな。……秘書官になられたとか」
 男──グレアムは席を勧めながら、探るように目を向ける。
「閣下がこの事件に関心をお持ちになったということは……何か掴まれたのですか?」

 凛子は小さく首を振った。

「いえ、私は資料を受け取りに来ただけで」
「そうですか。しかし一つだけ、伝えておきたいことがあります」

 グレアムの声が潜められる。

「実は──最初の被害者が殺害されました。祝祭週間の最中、自宅で喉を掻き切られて亡くなっていました。表向きは自殺とされましたが……現場の状況は、そうではありません。リィン殿。あなたも被害者の一人だ。どうか、気をつけてください」

 その声音は現実味を欠くほど落ち着いていたが、逆に凛子の胸奥へ鋭く突き刺さった。