扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました

 五の刻を告げる鐘の音が、開け放たれた窓から流れ込んできた。
 凛子は手元の資料から顔を上げ、首を左右にゆっくりと傾ける。こきりと小さな音がして、凝り固まっていた筋肉が僅かに緩んだ。

 執務室の扉を開けたシェイルは、一瞬だけ足を止める。資料室と仮眠室の扉が開け放たれ、窓から冷たい風が流れ込んでいる。凛子の小机には整然と資料が積み上げられ、いくつかの紙片が並べられていた。

「目を悪くするぞ」

 低い声に弾かれたように凛子は顔を上げ振り返った。
 男の表情には影が落ち、こちらからは伺えない。
 室内の角へと移動した男が照明灯の台座を弄ると、淡い光が灯される。

 溜息を吐きながら大股で部屋を横切り、丁寧に四隅にある装置を作動させ、執務机へと移動した男は、ゆっくりとした所作で椅子に座った。

 手元だけを照らしていた卓上の灯りは、室内の明るさに溶けていく。
 漸くかなりの時間が経過していた事に気が付いた凛子は、走らせていたペン先を止めた。

 窓の向こうはとっくに日が落ちている。

「あ! お帰りなさい」

 凛子の声に、シェイルは短く頷いた。
 いつもの無愛想な顔だが、どこか疲れた気配が漂っている。
 凛子は立ち上がると、茶器を手に取った。

「お茶淹れましょうか」

 シェイルは何かの書類に目を通していたが、すぐに顔を上げた。

「先に報告を」
「あ、はい」

 薬缶を術具の上に置くだけ置いて、凛子は纏めていた紙束を抱えると、執務机の前に立つ。

「昨年と今年の討伐記録、および一昨年とその前年の記録を比較しました。まず人員配置についてですが、平均して一回の討伐につき騎士二十名から三十名。魔術師が五名から十名。期間は最短三日、最長で十四日。これは昨年までほぼ一定しています」

 シェイルは腕を組み、凛子の報告に耳を傾けている。

「費用に関しては、人件費、移動費、宿泊費、武器弾薬費、魔術具使用料等を含め、一回平均で金貨五百枚相当。昨年は年間十二回の討伐で、合計金貨六千枚程度です」

 凛子は一枚目の紙をシェイルの前に置いた。
 そこには年度ごとの討伐回数と費用が、表にまとめられている。

「今年は現時点で二十三回。既に昨年の倍近い回数です。費用も金貨一万二千枚を超えています」
「それだけか」

 冷たい声に、凛子は僅かに怯む。
 しかし、続けなければならない。

「いえ。討伐の内容にも変化が見られます」

 二枚目の紙を置く。
 そこにはアゼリアスの簡易地図が描かれ、討伐地点に印が付けられていた。

「昨年までの討伐は、その八割がゼリアス山脈沿いの地域に集中していました。対象も飛行種が主で、被害も街道や宿場、森林が中心でした」

 凛子は地図上の印を指で辿る。

「しかし今年は、討伐地点が全国土に散らばっています。シータ領の港、パリエス湾での巨大海生物。学術都市近郊の村での飛行種による畑の壊滅。エルダの森での魔獣の群れ。サルスェ地方の湖沼地帯での食肉植物の大量発生……」

 指を止めて、凛子は一呼吸し、言葉を続ける。

「対象となる魔物の種類も、生息地域も、被害の内容も、例年に比べて多様化しています。それに――」

 三枚目の紙を取り出す。

「今年の三月以降、討伐の頻度が急激に上がっています。三月までは月一回程度だったのが、四月以降は月二回から三回。特に夏の祝祭週間中に行われた討伐は、通常より長期化しています」

 凛子は紙束を机に置くと、少し躊躇いがちに言葉を続けた。

「私には魔物に関する知識がほとんどありませんので、これが何を意味するのかは判断できません。ですが……素人目に見ても、今年は何か異常な事態が起きているように思えます」

 室内に沈黙が落ちる。
 薬缶から湯気が立ち上り、小さな音を立て始めていた。

 シェイルは凛子が纏めた資料を手に取ると、ゆっくりと目を通し始める。その青灰色の瞳が、淡々と文字を追っていく。凛子は息を詰めて、その様子を見守った。

「――短時間でよく纏めてある」
 予想外の言葉に、凛子は目を見開く。
「え……?」

 シェイルは資料から目を離すと、凛子を見据えた。そこには先程までの冷たさとは違う、わずかな評価の色が見えた。

「お前の指摘は正しい。今年に入ってから魔物の活性化は異常だ。学術庁でも調査を進めさせているが、未だ原因は不明。だが、傾向としては三月以降、確かに変化が見られる」

 シェイルは立ち上がると、資料室の方へと歩を進めた。凛子も慌ててそれに続く。

「今月末から、サルスェ地方とゼリアス山岳要塞への大規模討伐が予定されている。期間は最低でも二週間。場合によっては一月に及ぶ」

 資料室の壁に掛けられた大きな地図の前で、シェイルは立ち止まった。

「お前が気づいた通り、魔物の出現様態は変化している。だがそれ以上に問題なのは――」
 シェイルの指が、地図上のある一点を示す。
「これらの地点を線で結ぶと、ある場所を中心とした同心円状になる」
 凛子は目を凝らす。確かに、シェイルの言う通りだった。そして、その中心に位置するのは――
「大聖堂……ですか?」

「正確には、大聖堂の更に奥。祈りの道の最深部だ」
 シェイルの声は低く、どこか遠くを見ているようだった。
「何が……」
「それを確かめるのが、今度の討伐の真の目的だ」

 凛子は息を呑む。
 薬缶の湯が、沸騰の音を立てていた。

「煮え立っているぞ」

 シェイルの言葉に我に返り、凛子は慌てて資料室を飛び出した。
 薬缶を火から下ろし、茶葉を折り淹れる。手が僅かに震えていることに気づき、凛子は深く息を吐いた。

 自分が纏めた資料が、ただの数字の羅列ではなく、何か大きな事態の予兆だったのだと、遅れて理解する。そして、これから向かおうとしている場所が、どれほど危険なのかも。

 シェイルは既に地図から離れ、机に戻って別の書類に目を通していた。

「あの……」
 凛子は言葉を探す。
「もしかして、討伐に、私も随行するのでしょうか」

 凛子の言葉に手が止まり、一瞬だけ伏せられた瞳がこちらを射抜く。

「当然だ。お前は俺の秘書官だろう」
「承知、しました」

 窓の外では、既に夜の帳が降り始めている。
 
 冷たい風が室内を抜けていく中で、凛子は改めて、自分がこの世界で生きていくということの意味を噛み締めていた。それは、ただ日々を過ごすということではなく、この国の、そして彼の戦いに、自分も関わっていくということなのだと。

◇◇◇

 軍官舎に戻った凛子を、カトレアが仁王立ちで待ち構えていた。

「遅かったな。歓迎会は明日に延期だ」
「わーそうだった! すみません」

「いや、構わない。ただ、顔色が悪いぞ」
 凛子は首を横に振る。
「少し、色々、考え事をしていただけで」

 カトレアは曖昧な言葉に少しだけ考える様なそぶりを見せ、やがて小さく頷き「そうか。ならいい。だが無理はするな。倒れられると、こちらも困る」そう言って、自室へと戻っていった。

 軍服を脱ぎ、だらしなくも足だけで靴を脱ぎ、敷物の上に腰を下ろす。石造りの壁が、今夜はいつも以上に冷たく感じられる。窓の外に目をやると、遠くに王宮の灯りが見えた。あの中で、シェイルは今も仕事を続けているのだろうか。昨日までのどこか、ぬくぬくとした安寧が、足元から音を立てて崩れていくような錯覚を覚える。答えの出ない問いを胸に、凛子は長い夜を迎えた。