「遅くなりました……」
シェイルの開口一番の声に一瞬怯んだものの、凛子は執務机の前に背筋を伸ばして立つ。
が、顎で隣室をしゃくられ、首を傾げた。
「昨年と今年度の討伐記録の洗い出しをして簡単に纏めておけ。人数、行程、それらに掛かる軍備と各費用の費用対効果。本日これ以降は部屋を不在にするが、随行は必要ない。五の刻までには戻るから、それまでに俺が見られる資料として仕上げておくように。明日の議事日程と俺の予定に関しては頭に入っているな?」
「えっと、午前に新年に向けての警備に関する会議が有ります。午後一は鍛錬所、その後厩舎関連の業者の方との打ち合わせ、王都支部の方は三の刻にいらっしゃいます。四の刻からウェントワース副官を含めたサルスェ地方およびゼリアス山岳要塞討伐隊の会議が三階小議場で行われます」
必死に覚えたスケジュールを、縺れそうになる舌を動かし答える。
シェイルは腕を組んだ手の甲の上に己の顎を置き、その様子を眺めていた。しどろもどろな様子は多少あるものの、一度しか伝えなかった言葉を、しっかりと返してくる。
秘書官は今までも必要としていなかった。半ば思い付きで、手近な場所にこの女を呼んだのだが、その使い方に関しては、未だ思案中である。もし使えるのならば、使っても悪くないという印象を、あに図らんや考えた自分に、少し意外な気持ちになる。
隣室の扉を開けると、壁面いっぱいに書棚が並び中央にも背中合わせで棚が四つほど並んでいた。ラストゥーリャの執務室横にあった資料室と同等の広さで、混沌とした様子は、あちらよりもだいぶ酷かった。上部の方に転がっている書簡や木箱にはうっすらと埃が積もっているようで、久しく掃除をした気配が無い。
入り口近くに、書簡や冊子、巻物が乱雑に突っ込まれてある木箱が数箱あった。これらは使用頻度が高いものなのかもしれない。インデックス等が当然あるわけもなく、この中から目当ての資料を探すのは、困難そうだった。いつか言われた言葉が頭をよぎっていた。
――掃除をしろ。
中に入るのを躊躇していると、頭の上を小突かれた。
凛子は憮然とした表情をするも、主に問う。
「えっと……見てはいけないものとか有りますか?」
「特に無い。不必要に持ち出せば判る」
少し立て付けの悪い窓は、シェイルが片手で上にあげると、ぎしぎしと音をさせた。
籠っていた空気が外に流れるのを感じ、凛子は漸く室内へと足を踏み入れる。
正面の壁には、隣室へと続くであろう扉が薄く開かれたままだった。
「あっちの部屋にも資料とか有りますか?」
「ああ……」
シェイルは大股で部屋を横切ると、その扉を大きく開け放つ。
「そこの棚と床にも幾つかあるから、併せて纏めておけ」
男の腕の下から中を覗き込むと、資料部屋同様、酷い有様である。
寝台が壁際にあり、寝具は丸められて床に落ちていた。
酒瓶等も数本その横に転がっている。
そして書類の類が床に積み上げられており、一部はバランスを失い崩れたように散らばっている。
どこかで見た様な荒れ具合に、自分の部屋を思い出す。
仕事の忙しさにかまけ、家事は放棄し、ただ寝る為だけの場所だったあの部屋。
思わず横から男の顔を見上げると「なんだ」と片眉を上げて返される。
疲労の色は欠片も見えなかった。
だいたいこういう場合、自分の疲れには気が付かないものだ。
次々と降ってくる案件を、片っ端から片付け、脳を連続稼働させていくと仕事以外はすべて些事となる。食べる事も休息する事も。最低限の人間らしさとして、衣類だけは着替える事を心掛けていたが、会社に寝泊まりを始めるとそれさえも、今日はちゃんと下着を替えた、というレベルまで落ちる。
あの部屋から遠く離れたこの場所に住まう様になって、凛子自身はかつての自分の生活に関してよく思い出し、比較あるいは反省をしていなくもない。今の生活は慣れない事も多いが、最低限人間のレベルを保つという悲惨なものではなく、それなりに充足しているとも言えなくもない。
「判りました。色々やっておきます」
シェイルに関しては思う所は沢山ある。
それこそ言葉として簡単に説明できない感情もある。
ただ、今は、かつての自分が後々からそう感じたように、少しは気楽に、あるいはもっと仕事に打ち込めるであろう補助業務を担ってあげても良いかなという気持ちになっていた。
自分がそうであったように、きっと直ぐには気が付かないだろうけど。
精々、上司となったこの男が、倒れないようなサポートをしよう。
それもまた秘書官として与えられた業務なのだから。
壁に背を預けたままこちらを見下ろしてくる青灰色の瞳に、凛子はにっこりと微笑む。
「それでは、いってらっしゃいませ。閣下」
そして男の大きな背を押し出すと、荒れ果てた資料室と仮眠室に向き合った。
シェイルの開口一番の声に一瞬怯んだものの、凛子は執務机の前に背筋を伸ばして立つ。
が、顎で隣室をしゃくられ、首を傾げた。
「昨年と今年度の討伐記録の洗い出しをして簡単に纏めておけ。人数、行程、それらに掛かる軍備と各費用の費用対効果。本日これ以降は部屋を不在にするが、随行は必要ない。五の刻までには戻るから、それまでに俺が見られる資料として仕上げておくように。明日の議事日程と俺の予定に関しては頭に入っているな?」
「えっと、午前に新年に向けての警備に関する会議が有ります。午後一は鍛錬所、その後厩舎関連の業者の方との打ち合わせ、王都支部の方は三の刻にいらっしゃいます。四の刻からウェントワース副官を含めたサルスェ地方およびゼリアス山岳要塞討伐隊の会議が三階小議場で行われます」
必死に覚えたスケジュールを、縺れそうになる舌を動かし答える。
シェイルは腕を組んだ手の甲の上に己の顎を置き、その様子を眺めていた。しどろもどろな様子は多少あるものの、一度しか伝えなかった言葉を、しっかりと返してくる。
秘書官は今までも必要としていなかった。半ば思い付きで、手近な場所にこの女を呼んだのだが、その使い方に関しては、未だ思案中である。もし使えるのならば、使っても悪くないという印象を、あに図らんや考えた自分に、少し意外な気持ちになる。
隣室の扉を開けると、壁面いっぱいに書棚が並び中央にも背中合わせで棚が四つほど並んでいた。ラストゥーリャの執務室横にあった資料室と同等の広さで、混沌とした様子は、あちらよりもだいぶ酷かった。上部の方に転がっている書簡や木箱にはうっすらと埃が積もっているようで、久しく掃除をした気配が無い。
入り口近くに、書簡や冊子、巻物が乱雑に突っ込まれてある木箱が数箱あった。これらは使用頻度が高いものなのかもしれない。インデックス等が当然あるわけもなく、この中から目当ての資料を探すのは、困難そうだった。いつか言われた言葉が頭をよぎっていた。
――掃除をしろ。
中に入るのを躊躇していると、頭の上を小突かれた。
凛子は憮然とした表情をするも、主に問う。
「えっと……見てはいけないものとか有りますか?」
「特に無い。不必要に持ち出せば判る」
少し立て付けの悪い窓は、シェイルが片手で上にあげると、ぎしぎしと音をさせた。
籠っていた空気が外に流れるのを感じ、凛子は漸く室内へと足を踏み入れる。
正面の壁には、隣室へと続くであろう扉が薄く開かれたままだった。
「あっちの部屋にも資料とか有りますか?」
「ああ……」
シェイルは大股で部屋を横切ると、その扉を大きく開け放つ。
「そこの棚と床にも幾つかあるから、併せて纏めておけ」
男の腕の下から中を覗き込むと、資料部屋同様、酷い有様である。
寝台が壁際にあり、寝具は丸められて床に落ちていた。
酒瓶等も数本その横に転がっている。
そして書類の類が床に積み上げられており、一部はバランスを失い崩れたように散らばっている。
どこかで見た様な荒れ具合に、自分の部屋を思い出す。
仕事の忙しさにかまけ、家事は放棄し、ただ寝る為だけの場所だったあの部屋。
思わず横から男の顔を見上げると「なんだ」と片眉を上げて返される。
疲労の色は欠片も見えなかった。
だいたいこういう場合、自分の疲れには気が付かないものだ。
次々と降ってくる案件を、片っ端から片付け、脳を連続稼働させていくと仕事以外はすべて些事となる。食べる事も休息する事も。最低限の人間らしさとして、衣類だけは着替える事を心掛けていたが、会社に寝泊まりを始めるとそれさえも、今日はちゃんと下着を替えた、というレベルまで落ちる。
あの部屋から遠く離れたこの場所に住まう様になって、凛子自身はかつての自分の生活に関してよく思い出し、比較あるいは反省をしていなくもない。今の生活は慣れない事も多いが、最低限人間のレベルを保つという悲惨なものではなく、それなりに充足しているとも言えなくもない。
「判りました。色々やっておきます」
シェイルに関しては思う所は沢山ある。
それこそ言葉として簡単に説明できない感情もある。
ただ、今は、かつての自分が後々からそう感じたように、少しは気楽に、あるいはもっと仕事に打ち込めるであろう補助業務を担ってあげても良いかなという気持ちになっていた。
自分がそうであったように、きっと直ぐには気が付かないだろうけど。
精々、上司となったこの男が、倒れないようなサポートをしよう。
それもまた秘書官として与えられた業務なのだから。
壁に背を預けたままこちらを見下ろしてくる青灰色の瞳に、凛子はにっこりと微笑む。
「それでは、いってらっしゃいませ。閣下」
そして男の大きな背を押し出すと、荒れ果てた資料室と仮眠室に向き合った。


