それ、は頭上から降ってきた。
派手な音を立てて、執務机の上の物が散らばる。
あまりの惨状に、だがそこに殺意の塊も何もない事を本能で感じ取った彼は、珍しく呆然と机上を眺める。倒れたインク壺から墨が流れ、ぽたりぽたりと床石に落ち、黒い染みを作り上げる。
警備の合間を縫って、裁可すべき書類にサインをしに来たところだった。
「――お前は……」
闖入者は、うつ伏せのまま頭を抱えて呻いている。
いかにも手折れそうな細い首が、襟から白い肌を見せていた。
無言でその体を引っ繰り返し、起き上がらせる。いつぞやの様に、刃をその無防備な喉元に当ててやろうか、とも思う。
「ううう……痛い……」
紳士的ではない仕草で顎をしゃくると、頭を押さえていた女が、酷く驚いたように目を少しだけ開き、だが次には再び「痛い」と言いながら、眉を寄せる。目尻には涙も浮かびあがり、頬へと零れる。
女の腕にある魔力の残滓。官服の袖を無遠慮に捲り上げる。抵抗する事も出来ない女はシェイルのされるがままである。シェイルが腕輪の形を成していた魔術具に触れると、音を立ててバラバラに崩れ、魔力の込められた黒い鉱輝石だけが転がった。
残骸に纏う魔力の気配は、シェイルの良く知るものであった。
だがしかし、何故、このタイミングで、自分の目の前に出現したのか。その理由は皆目見当が付かない。
日頃なら転移が制約されている王宮内だが、今日は一部にのみ緩和されていた。特に外宮回廊やテラスで、花火を打ち上げる担当となっている魔術師達には、適切な時間に適切な位置から花火を打ち上げなければいけない事もあり、その無理な移動には、特定個人のみ、そして外宮内においてのみ、使用が許諾されていた。
が、軍本部はその範囲には入っていない。とはいえ、奥宮の深い場所と違って隔離結界も張っていない為、転移しようと思えば可能だった。
この部屋の主が留守にしていたならば、留守の際にシェイルが常に張っている隔離結界に寄って、叛意を持つ侵入者は弾かれる。しかし、運が悪い事に、主は在室していた。しかも賓客警護のほんの隙間を縫った時間だった。
隣国の高位貴族である賓客に息女を売り込まれ、なんとか仕事が残っている事に関しての言い訳をし、逃れてきた矢先だ。あまりの疲労に少し休もうか、と思いながらも、机上にはシェイルの裁可を待つ書類が積みあがっていた為、律義にペンを手にした刹那だった。
机上に座している女は頭を押さえ呻いている。嘆息し、怪我がないか髪の中を探る自分は、十分紳士的であろう。たとえ、怒鳴りつけたいと考えていたとしても。
先頃、王都支部より上がってきた報告書で、久しぶりに女の名前を見かけた。と同時に苦々しい感覚が蘇った。
己の自室に侵入した異国の女。
保護しているラストゥーリャとは明らかな繋がりが見えない。
リィンという女が、記録上で確認できたのは今年の春の祝祭週間前後からだ。
大聖堂にも潜り込み、奥宮にも潜り込み、そして気づいた時には、リィン・カミーヤとしてアゼリアスの戸籍を得ていた。そしてその祝祭週間以前には、いずれの記録にも女の名は無い。依然、正体が知れぬ。にも関わらず、叡智の塔主たる者の庇護下にある。
とはいえ、この数か月程、不審者の存在を忘れていたのも事実だった。通り魔事件の被害者としてその名が報告書に記録されるまで。リィン・カミーヤはアゼリアス王国官吏として仕事さえしていたが、特段悪目立ちするような素行もなかったのだ。
ラストゥーリャの魔術具を前に、部下達が困惑していた場に行き逢ったのは偶然。
その女の顔を久しぶりに見てやろうと思ったのも粋狂。わざわざこの部屋まで連れ、難癖を付けたのは、自分に対するラストゥーリャの堅固な態度への、憂さ晴らしだったかもしれない。
シェイルの行使した癒しの術で痛みが緩和されたようで、女は落ち着きなく瞬きを繰り返し、左右に視線を遣ると、膝まで捲りあがっていた官服の裾を伸ばす。
その様子は、その辺にいるごく普通の女だった。騎士の自分と比べるのもおかしな話だが、体の線は柔らかく細い。肩までの長さになった黒髪。黒曜の瞳は涙で潤んでいる所為か、彼の記憶のものより大きく見える。間諜なのだとしたら、とても洗練されている気配とは言えなかった。
「重ね重ね……すいません」
しょんぼりと肩を落とす様子は、心底情けなそうだ。
こんな至近距離で、自分の両腕に挟まれているような体勢――見ようによっては抱き寄せられているような――にも関わらず、恥じ入る様子も、また彼の知る女達のように媚態を示す事もない。そこまで考え、彼は自分に笑う。らしくない。
「何故、降って来たのかと問おうか」
「貴方の頭上に降ってきた理由は、判らないです。でもコレが、あれ? 無い」
「防御の魔術具なら壊れたぞ」
「防御の――?」
「発動制限が一度きりなんだろう。都度交換するとはあいつも大様だな。いちいち壊されるような動きをされるのは、俺なら耐えかねる。首輪でも付けて置いた方がマシだ」
「く、首輪って」
酷い、と呟きながらも、女はそれ以上反論する事無く、記憶を辿るように首を傾げ「ともかく、理由は判りません。トゥーリャ……ラストゥーリャ様の話では、命の危険がある時に防御が発動すると言っていたので……、たぶんだけど、背中を誰かに押されてテラスから落ちて、防御が発動した?んでしょうか?……気づいたらここに居ます」と続けた。
「でも、なんで私そんな事されたんだろう……って、思い当たるところがありません」
「――成る程」
語る内容は、愉快なものでは無かった。
王宮警備を担当している長としても見逃せる話ではない。
女の話が事実ならば、
そして女の話に偽りがあるならば、
幾つも挙げられる可能性に関して、シェイルは考えを巡らせ始める。
と、扉を叩く音。
誰何の声を待たずして、珍しく額に汗したラストゥーリャが息を切らしながら姿を現し、シェイルは既視感を覚える。数日前も確か、こうやって彼を迎えた。ただし、腕の中に不安げに視線を揺らす女は居なかったが。
派手な音を立てて、執務机の上の物が散らばる。
あまりの惨状に、だがそこに殺意の塊も何もない事を本能で感じ取った彼は、珍しく呆然と机上を眺める。倒れたインク壺から墨が流れ、ぽたりぽたりと床石に落ち、黒い染みを作り上げる。
警備の合間を縫って、裁可すべき書類にサインをしに来たところだった。
「――お前は……」
闖入者は、うつ伏せのまま頭を抱えて呻いている。
いかにも手折れそうな細い首が、襟から白い肌を見せていた。
無言でその体を引っ繰り返し、起き上がらせる。いつぞやの様に、刃をその無防備な喉元に当ててやろうか、とも思う。
「ううう……痛い……」
紳士的ではない仕草で顎をしゃくると、頭を押さえていた女が、酷く驚いたように目を少しだけ開き、だが次には再び「痛い」と言いながら、眉を寄せる。目尻には涙も浮かびあがり、頬へと零れる。
女の腕にある魔力の残滓。官服の袖を無遠慮に捲り上げる。抵抗する事も出来ない女はシェイルのされるがままである。シェイルが腕輪の形を成していた魔術具に触れると、音を立ててバラバラに崩れ、魔力の込められた黒い鉱輝石だけが転がった。
残骸に纏う魔力の気配は、シェイルの良く知るものであった。
だがしかし、何故、このタイミングで、自分の目の前に出現したのか。その理由は皆目見当が付かない。
日頃なら転移が制約されている王宮内だが、今日は一部にのみ緩和されていた。特に外宮回廊やテラスで、花火を打ち上げる担当となっている魔術師達には、適切な時間に適切な位置から花火を打ち上げなければいけない事もあり、その無理な移動には、特定個人のみ、そして外宮内においてのみ、使用が許諾されていた。
が、軍本部はその範囲には入っていない。とはいえ、奥宮の深い場所と違って隔離結界も張っていない為、転移しようと思えば可能だった。
この部屋の主が留守にしていたならば、留守の際にシェイルが常に張っている隔離結界に寄って、叛意を持つ侵入者は弾かれる。しかし、運が悪い事に、主は在室していた。しかも賓客警護のほんの隙間を縫った時間だった。
隣国の高位貴族である賓客に息女を売り込まれ、なんとか仕事が残っている事に関しての言い訳をし、逃れてきた矢先だ。あまりの疲労に少し休もうか、と思いながらも、机上にはシェイルの裁可を待つ書類が積みあがっていた為、律義にペンを手にした刹那だった。
机上に座している女は頭を押さえ呻いている。嘆息し、怪我がないか髪の中を探る自分は、十分紳士的であろう。たとえ、怒鳴りつけたいと考えていたとしても。
先頃、王都支部より上がってきた報告書で、久しぶりに女の名前を見かけた。と同時に苦々しい感覚が蘇った。
己の自室に侵入した異国の女。
保護しているラストゥーリャとは明らかな繋がりが見えない。
リィンという女が、記録上で確認できたのは今年の春の祝祭週間前後からだ。
大聖堂にも潜り込み、奥宮にも潜り込み、そして気づいた時には、リィン・カミーヤとしてアゼリアスの戸籍を得ていた。そしてその祝祭週間以前には、いずれの記録にも女の名は無い。依然、正体が知れぬ。にも関わらず、叡智の塔主たる者の庇護下にある。
とはいえ、この数か月程、不審者の存在を忘れていたのも事実だった。通り魔事件の被害者としてその名が報告書に記録されるまで。リィン・カミーヤはアゼリアス王国官吏として仕事さえしていたが、特段悪目立ちするような素行もなかったのだ。
ラストゥーリャの魔術具を前に、部下達が困惑していた場に行き逢ったのは偶然。
その女の顔を久しぶりに見てやろうと思ったのも粋狂。わざわざこの部屋まで連れ、難癖を付けたのは、自分に対するラストゥーリャの堅固な態度への、憂さ晴らしだったかもしれない。
シェイルの行使した癒しの術で痛みが緩和されたようで、女は落ち着きなく瞬きを繰り返し、左右に視線を遣ると、膝まで捲りあがっていた官服の裾を伸ばす。
その様子は、その辺にいるごく普通の女だった。騎士の自分と比べるのもおかしな話だが、体の線は柔らかく細い。肩までの長さになった黒髪。黒曜の瞳は涙で潤んでいる所為か、彼の記憶のものより大きく見える。間諜なのだとしたら、とても洗練されている気配とは言えなかった。
「重ね重ね……すいません」
しょんぼりと肩を落とす様子は、心底情けなそうだ。
こんな至近距離で、自分の両腕に挟まれているような体勢――見ようによっては抱き寄せられているような――にも関わらず、恥じ入る様子も、また彼の知る女達のように媚態を示す事もない。そこまで考え、彼は自分に笑う。らしくない。
「何故、降って来たのかと問おうか」
「貴方の頭上に降ってきた理由は、判らないです。でもコレが、あれ? 無い」
「防御の魔術具なら壊れたぞ」
「防御の――?」
「発動制限が一度きりなんだろう。都度交換するとはあいつも大様だな。いちいち壊されるような動きをされるのは、俺なら耐えかねる。首輪でも付けて置いた方がマシだ」
「く、首輪って」
酷い、と呟きながらも、女はそれ以上反論する事無く、記憶を辿るように首を傾げ「ともかく、理由は判りません。トゥーリャ……ラストゥーリャ様の話では、命の危険がある時に防御が発動すると言っていたので……、たぶんだけど、背中を誰かに押されてテラスから落ちて、防御が発動した?んでしょうか?……気づいたらここに居ます」と続けた。
「でも、なんで私そんな事されたんだろう……って、思い当たるところがありません」
「――成る程」
語る内容は、愉快なものでは無かった。
王宮警備を担当している長としても見逃せる話ではない。
女の話が事実ならば、
そして女の話に偽りがあるならば、
幾つも挙げられる可能性に関して、シェイルは考えを巡らせ始める。
と、扉を叩く音。
誰何の声を待たずして、珍しく額に汗したラストゥーリャが息を切らしながら姿を現し、シェイルは既視感を覚える。数日前も確か、こうやって彼を迎えた。ただし、腕の中に不安げに視線を揺らす女は居なかったが。


