盤上の春風~加古川、四人の歩み~

 冬が来て、部室の隅に小さなストーブが置かれた。
 赤く光る上で、やかんが小さく鳴っている。

 湯気の立つ湯のみを手に、私たちは将棋盤を囲んだ。
「……あ」
 さくらが、指しかけた手を止める。
「その手、さっきもやったやつや」
 陽菜が笑う。
「うそ。じゃあ、こっち?」
 盤面を見つめ直すさくらの表情は、前よりずっと真剣だ。
「形、崩れてませんわよ」
 理沙が静かに言う。
 駒の配置を一つひとつ確かめるような視線だった。
「最初の頃やったら、もうぐちゃぐちゃになってたやろな」
 陽菜が湯のみを持ち替えながら言う。
「確かに」
 私は盤を眺める。
 飛車も角も、むやみに前に出ていない。
 歩も、ちゃんと役目を持って並んでいる。
「でも、勝てへんで?」
 陽菜が笑う。
「いいんですのよ」
 理沙は湯のみを口に運んでから、続けた。
「今は、このくらいがちょうどいいですわ」
 ストーブが、ぱち、と音を立てる。
 私は湯気の向こうに盤を見ながら思った。
 勝ったとか、負けたとか。
 強くなったかどうかよりも――

 こうして同じ場所に集まって、
 同じ盤を挟んで、
 同じ時間を過ごしていること。

 それが、前より少しだけ自然になっている。

「……次、私の番だね」
 そう言って、私は駒に手を伸ばした。

             ※

ある日曜日、私たちは四人で、加古川の街を歩いていた。
商店が並ぶ通りを抜けた先、
少し奥まった場所に、控えめな看板が出ているのに気づく。
──将棋道場。
「……ここ、将棋の道場やんな?」
陽菜が足を止める。
「入ってみようよ」
扉を開けると、空気が変わった。

畳の匂い。
駒が盤に置かれる、乾いた音。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。

中では、小学生くらいの子から年配の人まで、
それぞれ盤を挟んで向かい合い、黙々と駒を動かしていた。

壁に目を向けると、額に入った写真や切り抜きがずらりと並んでいる。
加古川出身のプロ棋士の名前。
大会の記事。
少し色あせた新聞の紙面。
「すごい……」
思わず、声が漏れる。
「加古川から、こんなにたくさんのプロ棋士が出てるんだ」
そのとき、盤の奥から、ゆっくりと近づいてくる足音がした。
「見学ですか?」
声をかけてきたのは、白髪混じりの道場の先生だった。
にこりと笑って、私たちの手元をちらりと見る。
「よかったら、少し指していきませんか?」
そう言われて、私たちは顔を見合わせる。
「いえ、私たち……まだ全然で」
「初心者なんです」
 遠慮がちにそう言うと、先生は首を横に振った。
「大丈夫、大丈夫」
 盤の横に座りながら、やわらかく続ける。
「将棋はね、強い弱いよりも、まず楽しむもんですから」
 その言葉に、肩の力が少し抜けた。
 静かな道場の中で、駒の音だけが、変わらず刻まれている。

「……一局だけ、指してみようかな」
 私がそう言うと、三人も小さく頷いた。
道場の先生は、奥から空いている盤を一つ持ってきてくれる。
畳に置かれた盤は、学校のものより少し色が濃く、角が丸くなっていた。
「好きな席にどうぞ」
私は正座をして、向かいに座ったのは年配の男性だった。
白いシャツの袖をまくり、穏やかな目でこちらを見ている。
「よろしくお願いします」
声が、少しだけ上ずる。
「こちらこそ」
駒を並べる音が、静かな道場に響く。
学校の部室よりも、その一音一音がはっきり聞こえた。

最初の数手は、覚えた通りに。
飛車、角、歩。
途中で、手が止まる。
(ここ……どうするんだっけ)
盤の外から、陽菜たちの気配を感じる。
声は出さないけれど、ちゃんと見てくれている。
私は、深呼吸してから、歩を一つ進めた。
相手の男性は、少しだけ驚いたように眉を上げ、
それから、にこりと笑って駒を動かす。

終局は、思ったよりも早かった。

「ありがとうございました」
頭を下げると、相手はうなずいた。
「ええ手もありましたよ」
その一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。

私だけでなく、陽菜も理沙も、さくらも――
結局、四人とも一局ずつ指すことになった。
「ほな、うちもお願いします!」
陽菜は少し緊張しながらも、いつもの調子で席に着く。
向かいに座ったのは、落ち着いた雰囲気の中年の男性だった。

駒が進むにつれて、陽菜の表情が少しずつ変わっていく。
「……え、そこ来るん?」
思わず声が漏れたあと、陽菜は苦笑した。
「さっきまで有利や思ってたのに」

終局は早かった。
「ありがとうございました!」
立ち上がると、相手の人が笑って言った。
「ええ踏み込みでしたよ。最後、惜しかった」
「ほんまですか? ……でも、負けちゃいました!」
そう言いながらも、陽菜はどこか満足そうだった。

理沙は、年配の女性と向かい合った。

一手一手、慎重に指していく。
けれど相手は、盤面を読む速さが違った。
「そこまで見てはったんですの……」
静かに感心するような声。
「長いこと指してますから」
そう返されて、理沙は素直に頷いた。
「勉強になりますわ」

さくらの相手は、高校生くらいの男の子だった。
けれど、指し手は迷いがなく、鋭い。
「……あ、詰みです」
さくらは一瞬きょとんとしてから、はっと気づく。
「本当だ……」

「ありがとうございました」

少し悔しそうにしながらも、笑顔で頭を下げた。

四人とも、結果は同じだった。
全敗。
でも、公民館の初心者向けの大会とは、空気が違う。

あのときの相手は、やさしく、教えるように指してくれた。
ここでは、誰も手加減しない。
それでも、冷たさはなかった。
「強い人って、盤の見え方が全然違うんやな」
陽菜が言う。
「でも、怖くはなかったですね」
さくらが続ける。
「むしろ、もっと知りたくなりましたわ」
理沙が、静かにそう言った。

私は、四人分の盤を思い返す。

負けた。
けれど、心は沈んでいない。


「今日も、楽しかったよね」
 私は言うと、
「そうですね」
「負けたけどな」
「負けたけど」
 三人は笑い合う。

勝てなくても、
強くなくても、
将棋は、ちゃんと楽しい。

それが分かっただけで、
今日、ここに来た意味は十分だった。

 帰り際、道場の先生が声をかけてくれた。
「向こうに、ちょっとした売り場がありますよ」

 案内された先には、小さな棚があった。
 将棋盤や駒だけでなく、扇子、ストラップ、メモ帳などなど。
 一つひとつは控えめだけれど、どれも大切に並べられている。

 「わ、かわいい」
 陽菜が真っ先に覗き込む。
「歩のストラップやん。桂馬もある」

「字、ちゃんと彫ってありますね」
 さくらは駒の消しゴムを手に取って、裏側まで確かめている。

 理沙は、少し離れたところで扇子を眺めていた。
「こういうの……」
 ぽつりと、思い出したように言う。
「夏に、高槻で関西将棋会館に寄りましたでしょう」
「あぁ、USJの帰りの。うちが行こう言うて行った」
「そうそう。着いたのが遅うて、売店はもう閉まってて」
「せやったなあ。見るだけでも、楽しみやったのに」
 陽菜はにっこりと笑う。
「だから、余計に嬉しいですわ」
 理沙はそう言って、メモ帳を一冊手に取った。
表紙には、将棋盤のマス目と、小さな文字。

 一手一手を、大切に。

「今日の記念に、ちょうどいいですわね」
「そうだね」
 私は頷いた。

 陽菜は結局、歩のストラップを選んだ。
「うち、あのとき見られへんかった分も含めて、これにする」
「なんで歩なん?」
「地味やけど、大事やから」

 私たちのそんなやり取りを眺めていた道場の先生が、穏やかに
笑いながら会計をしてくれる。
「将棋は楽しむ心が一番大切。加古川は将棋のまちと言われているけど、それは強い人が多いからじゃない。将棋を愛する人が多いからなんです。君たちみたいに、友達と楽しそうに将棋を語る若い子を見ると、嬉しくなる」
 その言葉が、私たち四人の心に深く響いた。

外に出ると、冬の空気が頬に冷たい。
袋の中で、買ったばかりのグッズが小さく触れ合う音がした。
夏には、扉の外から眺めるだけだった世界。
今は、その中に一歩、足を踏み入れている。

「……あのとき、閉まっててよかったかもな」
 陽菜が微笑みながら言う。
「え?」
 私は反応した。
「楽しみ、あとに取っとけたやん」

 誰も否定しなかった。

 あの夏の夕方と、今日のこの冬の日が、
 盤の上みたいに、静かにつながっている気がした。
 
         ※

 三学期のある日、学校帰りの駅前で、私たちは見知らぬ先輩に声をかけられた。
「香陵の将棋同好会の子たちやろ?」
 振り向くと、制服の胸元に見覚えのない校章。
 宝成の三年生だという。
「記事、見たよ。楽しそうやったな」
 そう言って、先輩は少しうれしそうに笑う。
 文化祭での私たちの活動が、その翌月発売の地元情報誌『はりま風だより』に写真付きで特集された。
 といっても、表紙ではない。百ページを超える誌面の中の、ほんの一ページ。
 地域の話題を紹介するコーナーの一角に、四人で盤を囲む小さな写真と、短い記事が載っただけだ。
 読んだ人の中にも、きっと気づかずにページをめくった人はいるだろう。
 それくらいの扱い。
 でも、だからこそちょうどよかった。
 駅前の本屋で「これ、あんたらやろ」と指さされて赤くなったり、
商店街のおばちゃんに「将棋の子ら、載ってたね」と言われたり。
 大事件ではない。
 けれど、この街のどこかで、そっと覚えていてくれる人がいる。

 それ以来、私たちはこの街で“ちょっとだけ”顔を知られた存在になった。

「神吉先生、元気にしてはる?」
 先輩のその一言に、私たちは思わず顔を見合わせた。
「宝成で顧問してた頃、お世話になってん。うちらの代、よう怒られもせず、よう笑われもせず……静かに見守ってくれる先生やった」
 懐かしそうな目だった。
「今も変わらんよ。将棋部の日は肩の力が抜けるって言うてはった」
 陽菜がそう伝えると、先輩はほっとしたように頷いた。
「先生らしいな」
 少し沈黙が落ちる。
 駅前の人通りが、ざわざわと行き交う。
「先生、変わってなくてよかった。うちは、もうすぐ卒業やけどな。続けとってな。あの先生のとこで」
 その一言が、どこか静かに背中を押すようだった。
「はい」
 四人の声が揃う。
「ほな、頑張ってな」
 そう言って、先輩は笑顔で軽く手を振った。
 私たちも笑顔で手を振り返す。
 人混みの向こう、駅の構内へ消えていく背中は、もう振り返らなかった。

 ほんの数分の立ち話。
 たぶん、もう会うことはない。

 でも――

 同じ盤を挟み、同じ先生を知っている。
 それだけで、どこか遠くの対局とつながったような気がした。

 駅前の風が、少しだけ春の匂いを含んでいた。