幼い頃、私の町には井戸鬼という妖怪の噂があった。
古井戸に住み、子どもが井戸でふざけていると中に引き込まれる。
そして手にしたナタで足を切られるので、逃げられないという。
子供を戒めるための噂だろうけど、ただ、井戸など町のどこにももうなかった。
ある雨の夜、小学生の私は、姉と帰途についていた。
学校に忘れ物をして取りに行こうとした私に、姉がつき合ってくれた帰りだった。
隣を歩いていた姉の姿がふっと消えた。
驚きながら辺りを見回す。
「ここ、ここっ」
姉の声が聞こえてきたのは足元からだった。
見ると、姉は蓋が外れたマンホールの中に落ちかけていた。
両腕をアスファルトについて、上半身だけを地上に出した格好だった。
なぜ蓋が開いているんだろう。危なすぎる。
驚きながらも姉を引っ張り出そうとした、その時。
すん。
なにか柔らかいものを鋭く裂くような音が聞こえた。
姉の顔色が変わり、穴の中にある自分の足元を見下ろして、目を見開いた。
すん。
「あっ、痛っ」
「お姉ちゃん? どうかした?」
すん。
すん。
「あ、あっ!」
姉が口を開いたままがくがくと震えている。
「お姉ちゃん、大丈夫!? 今引っ張るからね」
すん。
すん。
すん。
「だ、駄目、あっ、あっ、来ちゃ駄目、見ちゃ駄目」
「どうして?」
姉は、私の目を見て一度黙った。
それから息継ぎも惜しむかのように早口でまくしたてた。
「いい? あたしはなにがあってもあなたを恨んだり、憎んだりすることは絶対ないから覚えておいて。
そして一つだけ言うことを聞いて。
この先の信号まで走りなさい。お姉ちゃんは後から追い掛けるから。
絶対に振り返らないでね。
さ、行きなさい」
姉のせっぱ詰まった様子に気圧されて、私は走り出した。
背後からはあの音が聞こえてきた。
すすすすん。
すすすすすすん。
「うっ、うっ、うあ。ぐ、う、ぐ、ぐ、うううあっ」
姉のあげる声は、やがて雨音に消えて途切れた。
言われた通りに私は信号へたどり着き、傍らの庇の下で姉を待った。
そう言えば今夜はありがとうと言いそびれていたな。
まあいいか、帰ってからで。
今日は一緒になにをして遊ぼうか。
けれども、姉はそれきり、もう帰ってこなかった。
終
古井戸に住み、子どもが井戸でふざけていると中に引き込まれる。
そして手にしたナタで足を切られるので、逃げられないという。
子供を戒めるための噂だろうけど、ただ、井戸など町のどこにももうなかった。
ある雨の夜、小学生の私は、姉と帰途についていた。
学校に忘れ物をして取りに行こうとした私に、姉がつき合ってくれた帰りだった。
隣を歩いていた姉の姿がふっと消えた。
驚きながら辺りを見回す。
「ここ、ここっ」
姉の声が聞こえてきたのは足元からだった。
見ると、姉は蓋が外れたマンホールの中に落ちかけていた。
両腕をアスファルトについて、上半身だけを地上に出した格好だった。
なぜ蓋が開いているんだろう。危なすぎる。
驚きながらも姉を引っ張り出そうとした、その時。
すん。
なにか柔らかいものを鋭く裂くような音が聞こえた。
姉の顔色が変わり、穴の中にある自分の足元を見下ろして、目を見開いた。
すん。
「あっ、痛っ」
「お姉ちゃん? どうかした?」
すん。
すん。
「あ、あっ!」
姉が口を開いたままがくがくと震えている。
「お姉ちゃん、大丈夫!? 今引っ張るからね」
すん。
すん。
すん。
「だ、駄目、あっ、あっ、来ちゃ駄目、見ちゃ駄目」
「どうして?」
姉は、私の目を見て一度黙った。
それから息継ぎも惜しむかのように早口でまくしたてた。
「いい? あたしはなにがあってもあなたを恨んだり、憎んだりすることは絶対ないから覚えておいて。
そして一つだけ言うことを聞いて。
この先の信号まで走りなさい。お姉ちゃんは後から追い掛けるから。
絶対に振り返らないでね。
さ、行きなさい」
姉のせっぱ詰まった様子に気圧されて、私は走り出した。
背後からはあの音が聞こえてきた。
すすすすん。
すすすすすすん。
「うっ、うっ、うあ。ぐ、う、ぐ、ぐ、うううあっ」
姉のあげる声は、やがて雨音に消えて途切れた。
言われた通りに私は信号へたどり着き、傍らの庇の下で姉を待った。
そう言えば今夜はありがとうと言いそびれていたな。
まあいいか、帰ってからで。
今日は一緒になにをして遊ぼうか。
けれども、姉はそれきり、もう帰ってこなかった。
終



