ノアが、そこに立っている。
玄関の影から浮かび上がるその輪郭を見た瞬間、世界から音が消えた。
時計の針が止まり、空気中の埃が静止し、心臓の鼓動さえ聞こえなくなる。
まるで、この部屋だけが真空になったみたいだった。
――ああ。
やっぱり。
どこかで、分かっていた。
ずっと胸の底に沈んでいた嫌な予感が、今になって顔を出しただけだ。
次の瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったように噴き上がる。
熱くて、苦くて、形のない感情。
怒りか。
悲しみか。
それとも、ずっと押し殺してきた後悔か。
「……お前が」
喉が焼ける。
声帯が震え、情けないほど掠れた声になる。
「お前が姉ちゃんを殺したのか!!」
ノアは瞬きひとつせず、淡々と答えた。
「そうだよ。あんたのせいで、先生を殺してしまった」
頭の中が真っ白になる。
殺した。
俺が。
その言葉が脳内で反響する。
違う。
違うはずなのに、胸のどこかが「そうだ」と言っている。
俺が始めた。
殺虫剤なんて名前をつけて、姉ちゃんを踏み台にして。
バズりたくて、認められたくて。
そしてこいつに会ってしまった。
「てめえ!!!!」
椅子を蹴飛ばし、理性より先に体が動く。
「お前のせいだろうがアアア!!!」
ノアも叫び返し、僕たちは床に転がり込んだ。
床の冷たさ。
絡み合う息。
視界が揺れる。
ノアがナイフを振り回す。
照明に反射した刃が、不自然に美しい。
当たるな。当たるな。
必死でかわしながら、ノアの手首を掴もうとする。
指先がかすめる。
いける――
そう思った瞬間、背後から強い力で引き倒された。
ナオキ。
次の瞬間、腹の奥に焼けた鉄を突き刺されたような痛みが走る。
刺さった。
ナイフが、腹に。
肺から空気が一気に抜け、声にならない音が喉から漏れた。
「ナオキ……」
振り返ると、ナオキは歪んだ笑顔で叫んでいた。
「死ね、ジュン!!
お前が俺の顔見て、へらへらと『母親にだな』って言った時から、ずっとお前が嫌いだったんだ!!
やっと妹の役に立てて、俺は嬉しいんだよ!」
血の味が口いっぱいに広がる。
鉄臭くて、生暖かくて。
視界の端が滲む。
ああ、そうか。
ナオキは、ずっと前から壊れてた。
俺はそれに気づかないふりをして、友達ごっこを続けてただけだ。
でもな。
ノアだって、騙されてたぞ。
僕は必死に言葉を絞り出す。
「……殺虫剤が俺だって分かってて、ノアに言わなかったのか」
「え?」
ナオキが間抜けな声を出す。
「殺虫剤がユスリカじゃないって分かってたなら……
ユスリカは、死なずにすんだのにな」
その瞬間。
ノアの顔色が、はっきり変わった。
理解した顔。
自分が利用されていたこと。
怒りを煽られ、真実を隠され、ただの駒だったこと。
その一瞬の空白。
僕は残った力をかき集めて転がり、ノアの手首を掴んだ。
包丁が床に落ちる。
乾いた音。
奪う。
ノアが後ずさる。
「うあああああああああああああああ!!!!!」
ノアの咆哮が部屋に反響する。
直後、玄関が破られる音。
「警察だ!!動くな!!」
雪崩れ込む警官たち。
ノアが押さえつけられ、ナオキが意味不明な叫び声を上げる。
僕は担架に乗せられ、天井の蛍光灯が流れていくのをぼんやり眺めていた。
視界の端に、さあや。
パトカーの向こう側で、静かに立っている。
目が合う。
言葉は出ない。
次の瞬間、意識が闇に沈んだ。
☆
病室の天井は、やけに白かった。
目を開けると、さあやが椅子に座っていた。
「……ジュン」
「俺、生きてる?」
「当たり前でしょ」
少し泣きそうな顔で笑う。
「さあやが助けてくれたの?」
「ん。お守りの中に発信機入れてた。ナオキの家でもらったやつ」
「ふは……怖いんだか、ありがたいんだか」
「私もホラー作家の端くれですから」
喉が鳴る。
「なあ……さあや」
「ん?」
「人、殺したいって思ったり……する?」
「まさか」
少し間を置いて。
「フィクションはフィクションだよ」
それだけ言って、僕の手を握る。
温かい。
外では今日も、何事もなかったみたいに世界が回っている。
姉ちゃんはいない。
でも、僕はまだ生きている。
ユスリカは死んだ。
そして――
彼女がいなくなって初めて、僕は気づく。
ユスリカだったのは僕で、
本当にまばゆい光を放っていたのは、姉ちゃんだったのだと。
玄関の影から浮かび上がるその輪郭を見た瞬間、世界から音が消えた。
時計の針が止まり、空気中の埃が静止し、心臓の鼓動さえ聞こえなくなる。
まるで、この部屋だけが真空になったみたいだった。
――ああ。
やっぱり。
どこかで、分かっていた。
ずっと胸の底に沈んでいた嫌な予感が、今になって顔を出しただけだ。
次の瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったように噴き上がる。
熱くて、苦くて、形のない感情。
怒りか。
悲しみか。
それとも、ずっと押し殺してきた後悔か。
「……お前が」
喉が焼ける。
声帯が震え、情けないほど掠れた声になる。
「お前が姉ちゃんを殺したのか!!」
ノアは瞬きひとつせず、淡々と答えた。
「そうだよ。あんたのせいで、先生を殺してしまった」
頭の中が真っ白になる。
殺した。
俺が。
その言葉が脳内で反響する。
違う。
違うはずなのに、胸のどこかが「そうだ」と言っている。
俺が始めた。
殺虫剤なんて名前をつけて、姉ちゃんを踏み台にして。
バズりたくて、認められたくて。
そしてこいつに会ってしまった。
「てめえ!!!!」
椅子を蹴飛ばし、理性より先に体が動く。
「お前のせいだろうがアアア!!!」
ノアも叫び返し、僕たちは床に転がり込んだ。
床の冷たさ。
絡み合う息。
視界が揺れる。
ノアがナイフを振り回す。
照明に反射した刃が、不自然に美しい。
当たるな。当たるな。
必死でかわしながら、ノアの手首を掴もうとする。
指先がかすめる。
いける――
そう思った瞬間、背後から強い力で引き倒された。
ナオキ。
次の瞬間、腹の奥に焼けた鉄を突き刺されたような痛みが走る。
刺さった。
ナイフが、腹に。
肺から空気が一気に抜け、声にならない音が喉から漏れた。
「ナオキ……」
振り返ると、ナオキは歪んだ笑顔で叫んでいた。
「死ね、ジュン!!
お前が俺の顔見て、へらへらと『母親にだな』って言った時から、ずっとお前が嫌いだったんだ!!
やっと妹の役に立てて、俺は嬉しいんだよ!」
血の味が口いっぱいに広がる。
鉄臭くて、生暖かくて。
視界の端が滲む。
ああ、そうか。
ナオキは、ずっと前から壊れてた。
俺はそれに気づかないふりをして、友達ごっこを続けてただけだ。
でもな。
ノアだって、騙されてたぞ。
僕は必死に言葉を絞り出す。
「……殺虫剤が俺だって分かってて、ノアに言わなかったのか」
「え?」
ナオキが間抜けな声を出す。
「殺虫剤がユスリカじゃないって分かってたなら……
ユスリカは、死なずにすんだのにな」
その瞬間。
ノアの顔色が、はっきり変わった。
理解した顔。
自分が利用されていたこと。
怒りを煽られ、真実を隠され、ただの駒だったこと。
その一瞬の空白。
僕は残った力をかき集めて転がり、ノアの手首を掴んだ。
包丁が床に落ちる。
乾いた音。
奪う。
ノアが後ずさる。
「うあああああああああああああああ!!!!!」
ノアの咆哮が部屋に反響する。
直後、玄関が破られる音。
「警察だ!!動くな!!」
雪崩れ込む警官たち。
ノアが押さえつけられ、ナオキが意味不明な叫び声を上げる。
僕は担架に乗せられ、天井の蛍光灯が流れていくのをぼんやり眺めていた。
視界の端に、さあや。
パトカーの向こう側で、静かに立っている。
目が合う。
言葉は出ない。
次の瞬間、意識が闇に沈んだ。
☆
病室の天井は、やけに白かった。
目を開けると、さあやが椅子に座っていた。
「……ジュン」
「俺、生きてる?」
「当たり前でしょ」
少し泣きそうな顔で笑う。
「さあやが助けてくれたの?」
「ん。お守りの中に発信機入れてた。ナオキの家でもらったやつ」
「ふは……怖いんだか、ありがたいんだか」
「私もホラー作家の端くれですから」
喉が鳴る。
「なあ……さあや」
「ん?」
「人、殺したいって思ったり……する?」
「まさか」
少し間を置いて。
「フィクションはフィクションだよ」
それだけ言って、僕の手を握る。
温かい。
外では今日も、何事もなかったみたいに世界が回っている。
姉ちゃんはいない。
でも、僕はまだ生きている。
ユスリカは死んだ。
そして――
彼女がいなくなって初めて、僕は気づく。
ユスリカだったのは僕で、
本当にまばゆい光を放っていたのは、姉ちゃんだったのだと。

