ユスリカ

犯人はノア。それは決まりだ。

だが、スマホを開くと、ラインはブロックされていた。
そこではじめて気づく。僕はノアのことを何も知らない――。


「……くそ、とにかく、警察だ」


 3人並んで警察署に向かう途中、どこかにノアが潜んでいるんじゃないかと何度も振り返った。僕のことはいい。刺し違えてでも、ノアを殺してやる。

でも、友達や親に危害を加えることだけは、許さない。


「音声データ、ちゃんと渡そう」


 さあやが言う。


「うん」


 ひたすらに喉が乾いていた。



    ☆



 受付で事情を話すと、すぐ別室に通された。若い警察官と、少し年上の刑事。僕はスマホを差し出し、音声データを再生した。
 殴打音。
 姉の声。


 部屋の空気が変わる。刑事がメモを取りながら言った。


「“ノア”という人物の連絡先はラインしか分からない、と」

「はい。でも、姉の熱狂的なファンだったので、小説サイトに登録があるかもしれません……」

 説明している途中、別の警察官が割って入った。

「“殺虫剤”というアカウントは、あなたですか?」

 胸が強く打たれた。

「……はい、僕のSNSのアカウント名です……」


 僕は黙ってスマホを見せた。
 刑事が画面を操作しながら、タイムラインを遡っていく。
 コメント欄。
 その中に、一つだけ異質な文字列があった。




『先生を殺したのはお前だ』






「……これ」

 さあやが息を呑む。

 僕の喉から、叫び声が漏れた。



「ノア!!!」

 刑事が顔を上げる。

「知ってるんですか?」

「……こいつです。姉のファン。音声送ってきたのも」

 刑事は渋い顔で言った。

「一度、帰宅してください。こちらでも調べます」



    ☆



 警察署を出ると、もう暗くなっていた。さあやは何度も振り返りながら歩く。


「ジュン……今日は、誰かと一緒にいたほうがいいんじゃないかな」


 そのとき、ナオキが言った。


「うちに来いよ」

「え?」

「今日は俺ん家泊まれ。次に狙われてんのは、お前なんだぞ」



 僕は一瞬迷った。
 でも、頭の中に母の顔が浮かぶ。
 もし、ノアが本当に近くにいたら。

 家にいたら、家族まで巻き込むかもしれない。



「……わかった」


 さあやは不安そうに僕を見る。


「気をつけて。絶対、連絡して」


 そう言って、帰っていった。





    ☆





 ナオキの家は、外灯に照らされているだけで、窓に明かりはなかった。


「誰もいないの?」

「母さんはパート」


 鍵を開ける。玄関に入ると、中はひんやりしていた。

「夕飯作ってやるから、くつろいでて」

 ナオキはエプロンをつけてキッチンに向かった。
 僕はリビングを見回す。棚の上に家族写真。
 小さい頃のナオキ。母親。知らない男。


「……これ、お父さん?はじめて見る」

「あー」


 ナオキは包丁を持ったまま言った。


「だって、そいつ、ほかに家庭があるもん」


 淡々と、笑顔で。


「え?それ、どういう……」


「どうもこうも。うちはジュンの家みたいにホームドラマみたいな家じゃないってことだよ」


 鍋がぐつぐつと音を立てる。


「俺ね、不倫の子供なんだ。俺の母親はうちの母さんじゃない。父親はほかに家庭があって、そのほかにも認知していない子供がいるんだって。終わってるよな。笑っちまうよ」


 まるで他人事みたいに。
 僕はなにも言えなくなった。


「俺、世界で一番不幸だって思った。で、そこからは本当の母親探し。難航したけど、やっと見つけたら、盗撮で捕まっちまった。やれやれだよなあ。でも、その騒動のおかげで、腹違いの妹に会えたんだ」


「腹違いの妹?」


「ああ、ジュンも会ったことあるよ」








「ノアって、知ってるだろ?」





    ☆




 その瞬間、玄関のほうで音がした。ガチャ。ドアの開く音。

「……ああ、やっと来たか」


 ナオキは笑顔でドアの方を見た。



「ただいま、お兄ちゃん」


 リビングのドアが開き、ノアが顔を覗かせる。


「浅井ジュン。先生のふりをした偽物さん、はじめまして」


 背中に冷たいものが走った。ノアの手に握られていたのは、包丁だったからだ。