朝、階段を降りる前から、家の空気が重いのがわかった。
リビングのテレビはついているのに、誰も見ていない。
母はソファの端に浅く座って、スマホを握ったまま固まっている。父は台所の前で腕を組み、いつもの「へらへら顔」をどこかに置き忘れたみたいな表情をしていた。
「……お姉ちゃん、まだ帰ってこないの?」
僕が言うと、母の肩がぴくりと動いた。
「うん。既読もつかない……。どこにいったんだろ……」
父が低い声で言う。
「ジュン、お姉ちゃんから連絡が来たらすぐ知らせろよ。今日も帰らなかったら、警察に行ってくる」
なんで、と、どうして、がぐるぐる頭の中を回ってる。
解決したじゃないか。いじめにも立ち向かうって決めたのに、どうして突然失踪するんだよ。姉ちゃん。
ふいに蘇るのは、発信機の入っていた万年筆。まさか姉ちゃんが事件に巻き込まれたってことは……考えたくない。
母は僕を見て、無理に笑った。
「ジュン、あんたは学校行きなさい。大丈夫。お姉ちゃんが帰ってきたら、すぐ連絡するから」
全然、大丈夫な声じゃない。でも今は、「大丈夫」と言わないと、みんなが壊れてしまう。
僕は「うん」とだけ言って、食パンをかじって、家を出た。
風が冷たい。
空は冗談みたいに澄んでいて、余計に嫌な感じがした。
街が普通すぎて、僕だけが浮いているみたいだ。
☆
教室に入ると、さあやがすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「ジュン、おはよ。……ねえ、今日さ、ナオキ君に会いに行かない? あの件、やっぱ気になってて」
「うん、いいよ。でも、その前に3年の教室行く」
「え、なんで?」
「姉ちゃん、帰ってきてないんだ。昨日から」
「……え。うそ」
「うそじゃない。母ちゃんも父さんも、もう、変な感じでさ」
言葉にした瞬間、急に怖くなった。さあやは迷わず頷いた。
「私も一緒に行く」
☆
3年のフロアに上がると、空気の匂いが違う。
なんだろう。教室の壁紙とか、ワックスの匂いとか、そういうのじゃない。
上級生ならではの異質さがあって、でも、再来年僕が三年生になる頃にはきっとなじんでるんだろう。
姉ちゃんのクラスの前で、僕は息を整える。
ドアは開いていた。中で女子が固まって喋っていた。
僕が入った瞬間、視線が一斉に刺さった。
「……すみません、浅井わかなの弟です。姉のことで話したいんですが」
声は思ったより低く出た。
女子たちは顔を見合わせるだけで、誰も答えない。
さあやが一歩前に出る。
「わかなさん、昨日から家に帰ってないんです。行方が分かる方、いらっしゃいませんか??」
それでも誰もなにも言わない。沈黙の澱が沈んだ時、教室の奥の方で、誰かが小さく言った。
「……ごめんなさい」
窓際に立っているおさげの女子だ。
その子が、視線を落としたまま、言葉を吐き出すみたいに続けた。
「みんな……ペイペイで一万円、もらって……」
「え?」
「みんなペイペイで1万円もらって……わかなをカラオケに11時まで監禁した……」
なんだそりゃ。
背筋が冷たく凍りつく。
「誰に!?誰に頼まれたんですか!?」
「見てない……。Xアカウントから頼まれて。みんなおもしろがってやった感じで……」
耳の奥で、キーンと音がした。さあやが眉を寄せる。
「おもしろがって、カラオケに11時まで監禁して、あとはみんなで帰った?」
おさげの女子はさらに首を垂らす。
「金送ってきたアカウント、見せてください」
「もう退会してる。履歴から飛べない」
「スクショは?」
「……してない」
胸ぐらを掴みたい衝動が突き上がってきた。
でも、ここで手を出したら、姉ちゃんの場所がもっと遠くなる気がしてグッとこらえる。
僕らは、その話を警察にすることを約束させて、教室を出た。
「……11時まで監禁を頼んで、そのあと、拉致したってこと?」
さあやの言葉は、背中に氷を滑らせるように冷えて聞こえた。
家の周りは、確かに夜になると人が少ない。
街灯があるけど、暗い。光の量じゃなくて、誰もいない、って意味で。
僕は拳を握った。爪が手のひらに食い込む。
ふざけんなよ。
姉ちゃんを、返せよ。あの人は、やっと前を向こうってしてたんだぞ。
☆
教室を出て廊下を歩いていると、さあやが言った。
「ジュン、落ち着いて。どこかに怒りをぶつけたいのは分かるけど」
落ち着けるわけがない。
でも、さあやの声は不思議と、僕の呼吸を戻した。
「……トイレ行ってくる」
さあやがそう言って、女子トイレの方へ小走りに行った。
廊下に一人になると、手が勝手にスマホをとっていた。
確認しなきゃいけない気がしたんだ。
嫌な予感が、ずっと指先にまとわりついていた。
ラインの通知が、2件来ている。
――ノア。
――母。
まず、ノアを開いてしまいそうになって、やめた。
発信機の件を怒りつけてから、既読スルーされていたが、今は、母の要件のほうが大事だ。
『お姉ちゃんと連絡とれた』
母からのラインに息が止まった。
次の瞬間、肺の奥から空気が一気に抜けていく。
生き返ったみたいに、呼吸が楽になる。
僕はスマホを握ったまま、廊下で小さく笑ってしまった。
笑い方がわからなくて、変な顔になっていたと思う。
「……よかった……」
足音が近づいてくる。さあやが戻ってきた。
「ジュン?どうしたの?」
「姉ちゃん、見つかった!」
勢いよく僕が叫ぶと、さあやの目が大きくなる。
「本当? お姉ちゃんから連絡あったの?」
「母ちゃんに。『今、帰り道』ってラインしたらしい」
さあやが、胸の前でぎゅっと手を握った。
「よかった……ほんとに、よかった……」
“よかった”って言葉は、いいもののはずなのに、僕の中ではまだ少し硬いままだった。
なぜなら、姉ちゃんなら「今、帰り道」の前に電話するだろうと思ったからだ。みんなが心配しているのに、ラインのメッセージひとつで済ますだろうか。
でも、それでも、今は信じたい。
信じないと、足が動かなくなりそうだった。
☆
夕方の住宅街。
街灯がまだ点かない、薄暗い時間。誰かが歩いていた。
彼女は小さなダンボール箱を抱えている。
靴の箱くらいのサイズ。それを大事そうに、両手で丁寧に持っている。
その人は、うちの前に来る。
玄関の横にしゃがみ込み、箱を静かに置く。
立ち上がると、一度だけ、家の窓を見た。
そして、何事もなかったみたいに、帰っていく。足音が、角を曲がって消える。
箱の上には、短いメモ。
『ただいま』
その箱の中に肉片に変わった姉の死体が入っていることを、まだ僕は知らない。
リビングのテレビはついているのに、誰も見ていない。
母はソファの端に浅く座って、スマホを握ったまま固まっている。父は台所の前で腕を組み、いつもの「へらへら顔」をどこかに置き忘れたみたいな表情をしていた。
「……お姉ちゃん、まだ帰ってこないの?」
僕が言うと、母の肩がぴくりと動いた。
「うん。既読もつかない……。どこにいったんだろ……」
父が低い声で言う。
「ジュン、お姉ちゃんから連絡が来たらすぐ知らせろよ。今日も帰らなかったら、警察に行ってくる」
なんで、と、どうして、がぐるぐる頭の中を回ってる。
解決したじゃないか。いじめにも立ち向かうって決めたのに、どうして突然失踪するんだよ。姉ちゃん。
ふいに蘇るのは、発信機の入っていた万年筆。まさか姉ちゃんが事件に巻き込まれたってことは……考えたくない。
母は僕を見て、無理に笑った。
「ジュン、あんたは学校行きなさい。大丈夫。お姉ちゃんが帰ってきたら、すぐ連絡するから」
全然、大丈夫な声じゃない。でも今は、「大丈夫」と言わないと、みんなが壊れてしまう。
僕は「うん」とだけ言って、食パンをかじって、家を出た。
風が冷たい。
空は冗談みたいに澄んでいて、余計に嫌な感じがした。
街が普通すぎて、僕だけが浮いているみたいだ。
☆
教室に入ると、さあやがすぐに気づいて駆け寄ってきた。
「ジュン、おはよ。……ねえ、今日さ、ナオキ君に会いに行かない? あの件、やっぱ気になってて」
「うん、いいよ。でも、その前に3年の教室行く」
「え、なんで?」
「姉ちゃん、帰ってきてないんだ。昨日から」
「……え。うそ」
「うそじゃない。母ちゃんも父さんも、もう、変な感じでさ」
言葉にした瞬間、急に怖くなった。さあやは迷わず頷いた。
「私も一緒に行く」
☆
3年のフロアに上がると、空気の匂いが違う。
なんだろう。教室の壁紙とか、ワックスの匂いとか、そういうのじゃない。
上級生ならではの異質さがあって、でも、再来年僕が三年生になる頃にはきっとなじんでるんだろう。
姉ちゃんのクラスの前で、僕は息を整える。
ドアは開いていた。中で女子が固まって喋っていた。
僕が入った瞬間、視線が一斉に刺さった。
「……すみません、浅井わかなの弟です。姉のことで話したいんですが」
声は思ったより低く出た。
女子たちは顔を見合わせるだけで、誰も答えない。
さあやが一歩前に出る。
「わかなさん、昨日から家に帰ってないんです。行方が分かる方、いらっしゃいませんか??」
それでも誰もなにも言わない。沈黙の澱が沈んだ時、教室の奥の方で、誰かが小さく言った。
「……ごめんなさい」
窓際に立っているおさげの女子だ。
その子が、視線を落としたまま、言葉を吐き出すみたいに続けた。
「みんな……ペイペイで一万円、もらって……」
「え?」
「みんなペイペイで1万円もらって……わかなをカラオケに11時まで監禁した……」
なんだそりゃ。
背筋が冷たく凍りつく。
「誰に!?誰に頼まれたんですか!?」
「見てない……。Xアカウントから頼まれて。みんなおもしろがってやった感じで……」
耳の奥で、キーンと音がした。さあやが眉を寄せる。
「おもしろがって、カラオケに11時まで監禁して、あとはみんなで帰った?」
おさげの女子はさらに首を垂らす。
「金送ってきたアカウント、見せてください」
「もう退会してる。履歴から飛べない」
「スクショは?」
「……してない」
胸ぐらを掴みたい衝動が突き上がってきた。
でも、ここで手を出したら、姉ちゃんの場所がもっと遠くなる気がしてグッとこらえる。
僕らは、その話を警察にすることを約束させて、教室を出た。
「……11時まで監禁を頼んで、そのあと、拉致したってこと?」
さあやの言葉は、背中に氷を滑らせるように冷えて聞こえた。
家の周りは、確かに夜になると人が少ない。
街灯があるけど、暗い。光の量じゃなくて、誰もいない、って意味で。
僕は拳を握った。爪が手のひらに食い込む。
ふざけんなよ。
姉ちゃんを、返せよ。あの人は、やっと前を向こうってしてたんだぞ。
☆
教室を出て廊下を歩いていると、さあやが言った。
「ジュン、落ち着いて。どこかに怒りをぶつけたいのは分かるけど」
落ち着けるわけがない。
でも、さあやの声は不思議と、僕の呼吸を戻した。
「……トイレ行ってくる」
さあやがそう言って、女子トイレの方へ小走りに行った。
廊下に一人になると、手が勝手にスマホをとっていた。
確認しなきゃいけない気がしたんだ。
嫌な予感が、ずっと指先にまとわりついていた。
ラインの通知が、2件来ている。
――ノア。
――母。
まず、ノアを開いてしまいそうになって、やめた。
発信機の件を怒りつけてから、既読スルーされていたが、今は、母の要件のほうが大事だ。
『お姉ちゃんと連絡とれた』
母からのラインに息が止まった。
次の瞬間、肺の奥から空気が一気に抜けていく。
生き返ったみたいに、呼吸が楽になる。
僕はスマホを握ったまま、廊下で小さく笑ってしまった。
笑い方がわからなくて、変な顔になっていたと思う。
「……よかった……」
足音が近づいてくる。さあやが戻ってきた。
「ジュン?どうしたの?」
「姉ちゃん、見つかった!」
勢いよく僕が叫ぶと、さあやの目が大きくなる。
「本当? お姉ちゃんから連絡あったの?」
「母ちゃんに。『今、帰り道』ってラインしたらしい」
さあやが、胸の前でぎゅっと手を握った。
「よかった……ほんとに、よかった……」
“よかった”って言葉は、いいもののはずなのに、僕の中ではまだ少し硬いままだった。
なぜなら、姉ちゃんなら「今、帰り道」の前に電話するだろうと思ったからだ。みんなが心配しているのに、ラインのメッセージひとつで済ますだろうか。
でも、それでも、今は信じたい。
信じないと、足が動かなくなりそうだった。
☆
夕方の住宅街。
街灯がまだ点かない、薄暗い時間。誰かが歩いていた。
彼女は小さなダンボール箱を抱えている。
靴の箱くらいのサイズ。それを大事そうに、両手で丁寧に持っている。
その人は、うちの前に来る。
玄関の横にしゃがみ込み、箱を静かに置く。
立ち上がると、一度だけ、家の窓を見た。
そして、何事もなかったみたいに、帰っていく。足音が、角を曲がって消える。
箱の上には、短いメモ。
『ただいま』
その箱の中に肉片に変わった姉の死体が入っていることを、まだ僕は知らない。

