ある日の放課後。
私はいつも通り、逃げるように音楽室へ向かっていた。
廊下はもう静かで、足音だけがやけに大きく響く。
——その背後から、声がした。
「ねえ」
振り向く前から分かってしまった。
クラスの女子。
名前なんて、どうでもいい。
私は、この人が嫌いだ。
強気で、粘つくような口調。
じっと私を射抜く視線。
その目が、下から上へ、舐めるように私をなぞる。
不快感が、肌に張り付く。
喉の奥がひゅっと縮まる。
「相変わらず、音楽室通い?ほんと好きだよね」
含み笑い。
周りに誰もいないことを、分かっていて言っている。
私は何も返せず、ただ一歩、後ずさる。
踵が床に擦れて、小さな音が鳴った。
「逃げるんだ」
その一言が、胸に刺さる。
「ほんと、弱いよね。だからさ——」
言葉の途中で、彼女は一歩、距離を詰めてきた。
息が詰まる。
背中に、冷たい壁の感触。
視線を逸らしても、逃げ場はない。
心臓が、うるさいくらいに脈を打つ。
——怖い。
声を出したら、何かが壊れてしまいそうで、私はただ、唇を噛みしめることしかできなかった。
彼女は、楽しそうに口を開いた。
「明日香にも見捨てられてさ、可哀想だよね」
——可哀想、なんて微塵も思っていない顔。
口の端は、はっきりと上がっている。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「月城くん」
その名前が出た瞬間、息が止まりそうになった。
「彼もきっと呆れてるよ。どこまで人に迷惑かけるの?」
言葉が、刃物みたいに落ちてくる。
「あんたと関わるとさ、みんな不幸になるんだよ」
視界が、じわりと滲む。
反論したいのに、声が出ない。
喉の奥が、凍りついたみたいに動かない。
——違う。
そんなはず、ない。
心の中で何度も叫ぶのに、現実の私は、ただ立ち尽くすだけだった。
「誰も、あんたの味方になってくれないんだよ?」
甘ったるい声。
耳に絡みつくみたいで、気持ちが悪い。
「そーだ。パパにでも泣き叫べば?」
一拍置いて、わざとらしく首を傾ける。
「……あ、いないんだっけ。ごめんごめん」
笑う。
楽しそうに。
人の心を踏みにじることが、遊びみたいに。
胸の奥がざわざわと波立つ。
怖い。
悔しい。
情けない。
全部が混ざって、息が浅くなる。
それでも——口が、勝手に動いた。
「……うるさい」
自分でも驚くほど、低い声だった。
彼女は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに嘲るように笑う。
「なに?やっと喋れたじゃん」
私は、ぎゅっと拳を握る。
爪が食い込んで、痛い。
その痛みが、私を現実に繋ぎとめてくれる。
「自分を守るために人をいじめるのは、弱い人のやり口だよ」
言い切った瞬間。
彼女の表情が、ほんのわずかに歪んだ。
——ピクリ。
眉が動き、笑みが一瞬だけ固まる。
図星だったのだと、直感で分かった。
次の瞬間、彼女は強く舌打ちをする。
「……へぇ」
声が、さっきよりもずっと低い。
「……そんなに威勢を張れる元気が、まだあったなんて。意外だなぁ」
ねっとりした声。
彼女は、逃げ場を塞ぐみたいに一歩近づいてくる。
距離が縮まるだけで、空気が重くなる。
次の瞬間、強く、手を掴まれた。
ぎゅっと。
爪が食い込むほどの力。
何が起こるか理解するより先に衝撃が走る。
「っ……!」
鈍い痛みが走る。
この前できた、まだ治りきっていない場所。
そこを正確に狙われた。
息が、詰まる。
声が出ない。
力が抜けて、床に崩れ落ちる。
膝を抱えることすらできず、ただうずくまるしかなかった。
視界が揺れる。
耳の奥で、心臓の音だけがうるさい。
「……いいよ。なんかもう、めんどくさくなっちゃった。早く、消えて」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女は一瞬だけ、誰かに合図するみたいに視線を走らせた。
その直後だった。
ドンッ——
空気を裂くような、重たい音。
床が震え、低い衝撃が足元から伝わってくる。
反射的に振り返る。
視界に飛び込んできたのは支えを失い、傾いている——ハープ。
大きな影が、ゆっくりとこちらに迫ってくる。
逃げなきゃ。
そう思うのに、身体が言うことをきかない。
足が、床に縫い止められたみたいに動かない。
声も、息も、凍りつく。
——ああ。
世界が、異様なほどゆっくりになる。
倒れてくる弦のきらめき。
軋む木の音。
誰かの、遠くで歪んだ声。
ただ、ただ私は、その光景を見ていることしかできなかった。
避けることも、助けを呼ぶこともできずに。
——その瞬間、頭と首に、重たい衝撃が走った。
ガン、と鈍い音がして、視界が大きく揺れる。
床と天井の区別がつかなくなり、世界がぐにゃりと歪んだ。
手に、ぬるりとした感触。
指先に伝わる生温かさに、遅れて気づく。
……血だ。
赤が滲むのを、どこか他人事みたいに見つめていた。
耳鳴りがする。
さっきまで確かにあった音——
誰かの声、空気の震え、足音——それらが、少しずつ遠ざかっていく。
水の中に沈んでいくみたいに、世界が静かに、静かに離れていく。
思考がほどけて、怖いはずなのに、感情すら曖昧になる。
——ああ、だめだ。
そう思ったのが最後だった。
闇がそっと瞼を覆い、私はそのまま意識の底へと落ちていった。
意識を手放す、その直前。
ふっと、思考だけが取り残されたみたいに、心が静かに動いた。
——明日香ちゃん。
曖昧なまま、何も話せなくなってしまった。
本当は、責めたかったわけじゃない。
ただ、怖かっただけなのに。
——慧くん。
私のこと、迷惑だと思っていたのかな。
もう、呆れられてしまったのかな。
胸の奥が、じんわりと痛む。
確かめることも、声にすることもできないまま。
私……。
一人で、生きていかないといけないのかな。
答えのない問いだけが、心に残る。
伝えられなかった言葉。
信じきれなかった想い。
手を伸ばせば届いたかもしれない未来。
——まだ、言いたいことがあった。
——まだ、ここにいたかった。
けれど、その「未練」さえも、ゆっくり、ゆっくりと薄れていく。
最後に残ったのは、理由のわからない不安と、名前を呼びたかった誰かの面影だけ。
そして——プツリ、と。
糸が切れるように、意識は途絶えた。
私はいつも通り、逃げるように音楽室へ向かっていた。
廊下はもう静かで、足音だけがやけに大きく響く。
——その背後から、声がした。
「ねえ」
振り向く前から分かってしまった。
クラスの女子。
名前なんて、どうでもいい。
私は、この人が嫌いだ。
強気で、粘つくような口調。
じっと私を射抜く視線。
その目が、下から上へ、舐めるように私をなぞる。
不快感が、肌に張り付く。
喉の奥がひゅっと縮まる。
「相変わらず、音楽室通い?ほんと好きだよね」
含み笑い。
周りに誰もいないことを、分かっていて言っている。
私は何も返せず、ただ一歩、後ずさる。
踵が床に擦れて、小さな音が鳴った。
「逃げるんだ」
その一言が、胸に刺さる。
「ほんと、弱いよね。だからさ——」
言葉の途中で、彼女は一歩、距離を詰めてきた。
息が詰まる。
背中に、冷たい壁の感触。
視線を逸らしても、逃げ場はない。
心臓が、うるさいくらいに脈を打つ。
——怖い。
声を出したら、何かが壊れてしまいそうで、私はただ、唇を噛みしめることしかできなかった。
彼女は、楽しそうに口を開いた。
「明日香にも見捨てられてさ、可哀想だよね」
——可哀想、なんて微塵も思っていない顔。
口の端は、はっきりと上がっている。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「月城くん」
その名前が出た瞬間、息が止まりそうになった。
「彼もきっと呆れてるよ。どこまで人に迷惑かけるの?」
言葉が、刃物みたいに落ちてくる。
「あんたと関わるとさ、みんな不幸になるんだよ」
視界が、じわりと滲む。
反論したいのに、声が出ない。
喉の奥が、凍りついたみたいに動かない。
——違う。
そんなはず、ない。
心の中で何度も叫ぶのに、現実の私は、ただ立ち尽くすだけだった。
「誰も、あんたの味方になってくれないんだよ?」
甘ったるい声。
耳に絡みつくみたいで、気持ちが悪い。
「そーだ。パパにでも泣き叫べば?」
一拍置いて、わざとらしく首を傾ける。
「……あ、いないんだっけ。ごめんごめん」
笑う。
楽しそうに。
人の心を踏みにじることが、遊びみたいに。
胸の奥がざわざわと波立つ。
怖い。
悔しい。
情けない。
全部が混ざって、息が浅くなる。
それでも——口が、勝手に動いた。
「……うるさい」
自分でも驚くほど、低い声だった。
彼女は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに嘲るように笑う。
「なに?やっと喋れたじゃん」
私は、ぎゅっと拳を握る。
爪が食い込んで、痛い。
その痛みが、私を現実に繋ぎとめてくれる。
「自分を守るために人をいじめるのは、弱い人のやり口だよ」
言い切った瞬間。
彼女の表情が、ほんのわずかに歪んだ。
——ピクリ。
眉が動き、笑みが一瞬だけ固まる。
図星だったのだと、直感で分かった。
次の瞬間、彼女は強く舌打ちをする。
「……へぇ」
声が、さっきよりもずっと低い。
「……そんなに威勢を張れる元気が、まだあったなんて。意外だなぁ」
ねっとりした声。
彼女は、逃げ場を塞ぐみたいに一歩近づいてくる。
距離が縮まるだけで、空気が重くなる。
次の瞬間、強く、手を掴まれた。
ぎゅっと。
爪が食い込むほどの力。
何が起こるか理解するより先に衝撃が走る。
「っ……!」
鈍い痛みが走る。
この前できた、まだ治りきっていない場所。
そこを正確に狙われた。
息が、詰まる。
声が出ない。
力が抜けて、床に崩れ落ちる。
膝を抱えることすらできず、ただうずくまるしかなかった。
視界が揺れる。
耳の奥で、心臓の音だけがうるさい。
「……いいよ。なんかもう、めんどくさくなっちゃった。早く、消えて」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女は一瞬だけ、誰かに合図するみたいに視線を走らせた。
その直後だった。
ドンッ——
空気を裂くような、重たい音。
床が震え、低い衝撃が足元から伝わってくる。
反射的に振り返る。
視界に飛び込んできたのは支えを失い、傾いている——ハープ。
大きな影が、ゆっくりとこちらに迫ってくる。
逃げなきゃ。
そう思うのに、身体が言うことをきかない。
足が、床に縫い止められたみたいに動かない。
声も、息も、凍りつく。
——ああ。
世界が、異様なほどゆっくりになる。
倒れてくる弦のきらめき。
軋む木の音。
誰かの、遠くで歪んだ声。
ただ、ただ私は、その光景を見ていることしかできなかった。
避けることも、助けを呼ぶこともできずに。
——その瞬間、頭と首に、重たい衝撃が走った。
ガン、と鈍い音がして、視界が大きく揺れる。
床と天井の区別がつかなくなり、世界がぐにゃりと歪んだ。
手に、ぬるりとした感触。
指先に伝わる生温かさに、遅れて気づく。
……血だ。
赤が滲むのを、どこか他人事みたいに見つめていた。
耳鳴りがする。
さっきまで確かにあった音——
誰かの声、空気の震え、足音——それらが、少しずつ遠ざかっていく。
水の中に沈んでいくみたいに、世界が静かに、静かに離れていく。
思考がほどけて、怖いはずなのに、感情すら曖昧になる。
——ああ、だめだ。
そう思ったのが最後だった。
闇がそっと瞼を覆い、私はそのまま意識の底へと落ちていった。
意識を手放す、その直前。
ふっと、思考だけが取り残されたみたいに、心が静かに動いた。
——明日香ちゃん。
曖昧なまま、何も話せなくなってしまった。
本当は、責めたかったわけじゃない。
ただ、怖かっただけなのに。
——慧くん。
私のこと、迷惑だと思っていたのかな。
もう、呆れられてしまったのかな。
胸の奥が、じんわりと痛む。
確かめることも、声にすることもできないまま。
私……。
一人で、生きていかないといけないのかな。
答えのない問いだけが、心に残る。
伝えられなかった言葉。
信じきれなかった想い。
手を伸ばせば届いたかもしれない未来。
——まだ、言いたいことがあった。
——まだ、ここにいたかった。
けれど、その「未練」さえも、ゆっくり、ゆっくりと薄れていく。
最後に残ったのは、理由のわからない不安と、名前を呼びたかった誰かの面影だけ。
そして——プツリ、と。
糸が切れるように、意識は途絶えた。
