…はっ、今のって…怜桜…私の、弟?
確かに今、怜桜が私の記憶に映っていた。
少し汗ばむ手に握りしめているその電子機器にもう一度視線を落とす。
そこにいるのはやっぱり先程の男の子だ。
記憶の中で彼は夢を掲げていた。
音楽を勉強して、その歌を多くの人に届けていきたいと。
私が眠っている間に、少しでも夢に近づけたのかな。
「…私は、まだ立ち止まったままだ」
写真に写る彼の笑顔が眩しい。
将来への希望に満ちた若葉のように純真な笑み。
立ち止まってないで、私も歩き出さないと。
部屋のカレンダーは、去年から動きを止めている。
私はベッドから起き上がり、それを壁から取り外してゴミ箱に捨てた。
今日は四月七日。
高校生活が始まる日。
すうっと息を吸い込めば、花の香りが私の気持ちを高揚させていく。
真新しい制服に身を包み、入学式に向けて支度を進めていく。
胸の辺りまで伸びた黒髪を緩く巻いていると、部屋の扉をコンコンと優しく叩く音が響いた。
扉が開いて顔を覗かせているのは私の三個下の妹、夏花だ。
「お姉ちゃん、もうすぐ時間だよー。遅刻しないように気をつけてね」
「はあい」
準備ばっちり。
踝が覗く長さの靴下。
膝より少し上の赤いチェック柄スカート。
折れ目もホコリも付いていない綺麗なブレザー。
口元できらめく桜色のグロス。
「あとは、これだけだね」
机に目を向けると、そこにはひとつのキーホルダーが大切そうに置かれている。
硝子の小瓶に入っている、星の形をした金平糖のような三つの宝石。
指先で持ち上げると、かすかに音がした。
どうして持っているのか。誰にもらったのか。
それは、まだ思い出せない。
何故か分からないけれど、これは私にとって大切な物だと、私の直感がそう言っている。
私はそのキーホルダーを、ぎゅっと握ってから鞄にしまった。
「じゃあ行ってきます」
我が家に一時の別れを告げ、外の世界へ一歩を踏み出す。
外に出れば、一段とこの季節の穏やかさを実感できる。
まだ冷たい空気が残る朝、静かな街を抜ける風が制服を揺らし、ひらりと舞った花びらが視界を横切る。
その色に惹かれて視線を移すと、映るのは今まで何百回も見た住宅街の景色。
おそよ一年の空白があったにも関わらず、その景色はただ街路樹の纏う衣装が変化しているだけだった。
上を見上げれば、青い背景にモンシロチョウが泳ぐようにふわふわと飛び、スズメはその歌声を自慢するように春の音楽を奏でている。
地面を見れば、風や蜂に運ばれた種が芽吹き、その小さな体で大きく伸びをするシロツメクサがある。
どれも普段は気にしないはずの光景だけど、今の私には全てが新鮮に感じられた。
桜の絨毯の上を歩くこと十分。
大きな校舎が長い階段の終点から屋上を覗かせているのが目に入った。
「ここが私が今日から通う高校、だね」
目の前には少し錆びた門が、私たち新入生を歓迎するように大きく開いている。
「よし、これから頑張ろう」
一歩、境界線を跨いだ。
新たな生活へと歩き出したその足取りは希望に満ちていた。
その時の私は、気持ちが浮ついていて気づくことができなかった。
「……あ、いり…?」
風に紛れて消えそうな声。
呼ぶでもなく、確かめるように落とされた、その名前。
その声に、わたしは気づくことがなかった。
ただ、鞄の中の小さなキーホルダーが、微かに音を立てる。
まるで、何かが始まる合図みたいに。
確かに今、怜桜が私の記憶に映っていた。
少し汗ばむ手に握りしめているその電子機器にもう一度視線を落とす。
そこにいるのはやっぱり先程の男の子だ。
記憶の中で彼は夢を掲げていた。
音楽を勉強して、その歌を多くの人に届けていきたいと。
私が眠っている間に、少しでも夢に近づけたのかな。
「…私は、まだ立ち止まったままだ」
写真に写る彼の笑顔が眩しい。
将来への希望に満ちた若葉のように純真な笑み。
立ち止まってないで、私も歩き出さないと。
部屋のカレンダーは、去年から動きを止めている。
私はベッドから起き上がり、それを壁から取り外してゴミ箱に捨てた。
今日は四月七日。
高校生活が始まる日。
すうっと息を吸い込めば、花の香りが私の気持ちを高揚させていく。
真新しい制服に身を包み、入学式に向けて支度を進めていく。
胸の辺りまで伸びた黒髪を緩く巻いていると、部屋の扉をコンコンと優しく叩く音が響いた。
扉が開いて顔を覗かせているのは私の三個下の妹、夏花だ。
「お姉ちゃん、もうすぐ時間だよー。遅刻しないように気をつけてね」
「はあい」
準備ばっちり。
踝が覗く長さの靴下。
膝より少し上の赤いチェック柄スカート。
折れ目もホコリも付いていない綺麗なブレザー。
口元できらめく桜色のグロス。
「あとは、これだけだね」
机に目を向けると、そこにはひとつのキーホルダーが大切そうに置かれている。
硝子の小瓶に入っている、星の形をした金平糖のような三つの宝石。
指先で持ち上げると、かすかに音がした。
どうして持っているのか。誰にもらったのか。
それは、まだ思い出せない。
何故か分からないけれど、これは私にとって大切な物だと、私の直感がそう言っている。
私はそのキーホルダーを、ぎゅっと握ってから鞄にしまった。
「じゃあ行ってきます」
我が家に一時の別れを告げ、外の世界へ一歩を踏み出す。
外に出れば、一段とこの季節の穏やかさを実感できる。
まだ冷たい空気が残る朝、静かな街を抜ける風が制服を揺らし、ひらりと舞った花びらが視界を横切る。
その色に惹かれて視線を移すと、映るのは今まで何百回も見た住宅街の景色。
おそよ一年の空白があったにも関わらず、その景色はただ街路樹の纏う衣装が変化しているだけだった。
上を見上げれば、青い背景にモンシロチョウが泳ぐようにふわふわと飛び、スズメはその歌声を自慢するように春の音楽を奏でている。
地面を見れば、風や蜂に運ばれた種が芽吹き、その小さな体で大きく伸びをするシロツメクサがある。
どれも普段は気にしないはずの光景だけど、今の私には全てが新鮮に感じられた。
桜の絨毯の上を歩くこと十分。
大きな校舎が長い階段の終点から屋上を覗かせているのが目に入った。
「ここが私が今日から通う高校、だね」
目の前には少し錆びた門が、私たち新入生を歓迎するように大きく開いている。
「よし、これから頑張ろう」
一歩、境界線を跨いだ。
新たな生活へと歩き出したその足取りは希望に満ちていた。
その時の私は、気持ちが浮ついていて気づくことができなかった。
「……あ、いり…?」
風に紛れて消えそうな声。
呼ぶでもなく、確かめるように落とされた、その名前。
その声に、わたしは気づくことがなかった。
ただ、鞄の中の小さなキーホルダーが、微かに音を立てる。
まるで、何かが始まる合図みたいに。
