仕事を終え、振り向いたオフィスビルには僅かな明かりが灯っていた。光の中から解放されて、私の身体がようやく夜に馴染んでいく。
終電間際のこの時間、私は好きな人と会える。
歩行者信号が点滅し、赤に変わる。夜の街を車が走り抜けて行った。少しの風と一台のバイク音が遠くから聞こえる。ヘッドライトが流星のように近づき、ホンダGB350が私の目の前に止まった。
ヘルメットのシールドを上げ、綺麗な二重が私を捉える。凛とした背筋で彼は手を挙げた。
「莉子! 迎えに来た」
好きな人に名前を呼ばれると、身体のメトロノームが速度を上げる。
――慌てないで平常心で。高鳴る心臓に、私はそう呼びかける。
「ありがとう、律くん」
口角を上げて名前を呼ぶ。社会人2年目にもなるとムッツリした顔より、感情を隠せる笑顔の方が上手くなった。
「ほら、ヘルメット」
「ん」
バイクに跨り、ヘルメットを被る。狭くなるこの視野が好きだ。閉じた世界に必要なものだけが、網膜に映る。
好きな人の背中が目の前にある。
逞しい体幹に腕を回すと、血小板が寄り添って傷口を塞いでいくような感覚が私を包む。
「莉子、お腹すいてないか。どこか寄ってく?」
「ううん、大丈夫。家で食べるよ」
「了解。……あ〜、俺も莉子と一緒に食べたかったな。待っておけば良かった」
「え……?」
律くんがヘルメットの中で笑う。左目元にある小さな黒子が緩やかに動いた。
「今日の晩飯、親父と二人で食べたんだけど、なーんも会話なくてさ。やっぱ莉子がいないと、ウチの家族はダメだわ」
「……ん」
たとえそれが、血のつながってない義弟だとしても。報われない恋だとしても、私は義弟の――佐藤律が好きだ。
「しっかり掴まってて、行くよ」
「うん」
律くんがアクセルを回し、ゆっくりとバイクが動く。クラッチとギアの振動が心地よい。
身体に重力と風を一身に受ける。初めは怖かったバイクも今では慣れたものだ。
色とりどり光がヘルメットのシールドに流れては消えていく。変化するステンドグラス、律くんの体温。美しいものだけが風の中にある。
信号が赤になりバイクが停車する。
ギアをニュートラルに入れ、クラッチを離した律くんが私の手を握る。
「もっと、こっちに来いよ。危ないから」
「……うん」
速度より、律くんが手を握ってくることの方が驚くなんて言えない。シートから伝わるエンジンの振動と、私の鼓動がドクドクと重なり合う。
「スピードは大丈夫か?」
手首を引き寄せられて、身体が更に密着する。コツンと当たるヘルメット。ミラー越しに律くんと目が合って、私の心はどうにかなってしまいそうだ。
「うん、平気。運転の上手い義弟がいて心強いよ」
『義弟』という言葉を強調する。
どうか私の想いに気づかれませんように――そう祈りながら、声を張り上げた。
律くんの瞼が僅かに動き、やがて視線を前に向けた。角膜に宿る青信号。少しだけ荒いスタートでバイクが動く。咄嗟にしがみついた。
「あっ! もう!」
「莉子がちゃーんと掴まってるか、確認!」
貫く風が段々と緩やかになり、凪いでいく。心をざわつかせたまま。
私が残業の時は、律くんはバイクで迎えに来てくれる。
きっかけは終電だった。帰りが遅くなった私は駅で酔っぱらいの人に絡まれた。心配した律くんが駅のホームまで迎えに来ていたことで、事なきを得た――だけど。
『こんな時間まで仕事をしたのに……大変だったな。これからは俺が迎えに行くから、連絡してくれ。絶対に』
でも本当はあの日、私は嘘をついた。残業なんてなかった。ただ家に帰りたくなくて、終電までファミレスで時間を潰していた。
心とは裏腹に、視界は青信号が続いている。
対向車の光に私は目を閉じた。今でも瞼の裏に焼き付いている。
酔った相手に対して、律くんが守ってくれたこと。あの時、引き寄せられた手の熱さと逞しさが、今、この腕の中にある。
夜が明けるまでは嘘をついて、私は姉の顔でいる。でもあと三回だけ、そう決めていた。
「莉子ー!」
「んー?」
風に混じって、律くんのはしゃいだ声が聞こえる。
「明日、休みだろー? 今から海に行こーぜ」
「うみー?」
「うん! 秋夜の海は綺麗だぞー」
律くんと初めて会ったのも秋だった。海の見えるレストランで、お母さんと緊張して待っていたっけ……。
「莉子ー、どしたー?」
沈黙を迷っていると思ったらしい。
「……初めて会った時の、律くんを思い出しちゃった」
「うわっ〜〜! 俺の黒歴史やめてくれー!」
背中越しに動揺が伝わってくる。私はヘルメットの中で「……律くん、かっこよかったよ」と呟いた。告白は風とエンジン音で消える。
「何か言ったかー? まさか俺の悪口じゃないだろーなー」
「あ、バレちゃった?」
「お〜い!」
中学二年生の時、お母さんが再婚した。初めてお父さんと律くんに会ったレストラン。みんなが緊張した重苦しい空気の中で、律くんが突然「ショートコント、再婚!」と言って立ち上がった。慌てた律くんのお父さんが止めに入ると「親父がなーんにも話さないし、会話を仕切らないから、みんな困ってるだろ!」と一喝したのだ。
『俺たちは家族になるんだろ。それなのに最初っから、新しいお母さんと……娘さんに迷惑かけるなよ』
呆気に取られて、みんなで笑って、その後の食事はとても美味しかったのを覚えている。
「律くーん、海に行きたいー!」
「りょーかい!」
バイクは進路方向を海へと変えて進んでいく。暗闇の中で光が私達を導く。段々と風の強さが変わってきた。
「莉子、右を見てー」
「……わぁ」
顔を向けると月夜に照らされた海がきらきらと光っている。見入っているといつの間にか駐車場に着いていた。ヘルメットを脱いだ律くんが爽やかに笑う。ショートカットの黒髪が風で無造作に揺れていた。
「莉子の髪が乱れてる」
ヘルメットを脱いだ私の髪を、律くんは手櫛で整えてくれた。距離の近さに私は呼吸すら忘れてしまう。姉の顔を忘れて、つい離れてしまった。
無言で律くんが私を見ている。
「……あ、ありがとう」
にこっと微笑むと、律くんはホッとした表情になった。薄闇に浮かぶ笑窪。
「綺麗な海だね」
私は目を逸らして海を眺める。「うん」と律くんは軽快に頷く。駐車場の隅で光る自販機を指さして「莉子、紅茶でいい?」と聞いてきた。
「うん」
離れて行く背中。
数秒経って、手のひらに置かれるペットボトルの熱と律くんの指先。そのまま私の手を握ってきた。
心臓が跳ね上がる。手を引っ込めようとすると、律くんが離すまいと力を込めた。
「あのさ、俺……、莉子に話しておきたいことがあるんだ」
薄闇から波の音が聞こえる。それをかき消すくらいに私の鼓動は早鐘を打っていた。
終電間際のこの時間、私は好きな人と会える。
歩行者信号が点滅し、赤に変わる。夜の街を車が走り抜けて行った。少しの風と一台のバイク音が遠くから聞こえる。ヘッドライトが流星のように近づき、ホンダGB350が私の目の前に止まった。
ヘルメットのシールドを上げ、綺麗な二重が私を捉える。凛とした背筋で彼は手を挙げた。
「莉子! 迎えに来た」
好きな人に名前を呼ばれると、身体のメトロノームが速度を上げる。
――慌てないで平常心で。高鳴る心臓に、私はそう呼びかける。
「ありがとう、律くん」
口角を上げて名前を呼ぶ。社会人2年目にもなるとムッツリした顔より、感情を隠せる笑顔の方が上手くなった。
「ほら、ヘルメット」
「ん」
バイクに跨り、ヘルメットを被る。狭くなるこの視野が好きだ。閉じた世界に必要なものだけが、網膜に映る。
好きな人の背中が目の前にある。
逞しい体幹に腕を回すと、血小板が寄り添って傷口を塞いでいくような感覚が私を包む。
「莉子、お腹すいてないか。どこか寄ってく?」
「ううん、大丈夫。家で食べるよ」
「了解。……あ〜、俺も莉子と一緒に食べたかったな。待っておけば良かった」
「え……?」
律くんがヘルメットの中で笑う。左目元にある小さな黒子が緩やかに動いた。
「今日の晩飯、親父と二人で食べたんだけど、なーんも会話なくてさ。やっぱ莉子がいないと、ウチの家族はダメだわ」
「……ん」
たとえそれが、血のつながってない義弟だとしても。報われない恋だとしても、私は義弟の――佐藤律が好きだ。
「しっかり掴まってて、行くよ」
「うん」
律くんがアクセルを回し、ゆっくりとバイクが動く。クラッチとギアの振動が心地よい。
身体に重力と風を一身に受ける。初めは怖かったバイクも今では慣れたものだ。
色とりどり光がヘルメットのシールドに流れては消えていく。変化するステンドグラス、律くんの体温。美しいものだけが風の中にある。
信号が赤になりバイクが停車する。
ギアをニュートラルに入れ、クラッチを離した律くんが私の手を握る。
「もっと、こっちに来いよ。危ないから」
「……うん」
速度より、律くんが手を握ってくることの方が驚くなんて言えない。シートから伝わるエンジンの振動と、私の鼓動がドクドクと重なり合う。
「スピードは大丈夫か?」
手首を引き寄せられて、身体が更に密着する。コツンと当たるヘルメット。ミラー越しに律くんと目が合って、私の心はどうにかなってしまいそうだ。
「うん、平気。運転の上手い義弟がいて心強いよ」
『義弟』という言葉を強調する。
どうか私の想いに気づかれませんように――そう祈りながら、声を張り上げた。
律くんの瞼が僅かに動き、やがて視線を前に向けた。角膜に宿る青信号。少しだけ荒いスタートでバイクが動く。咄嗟にしがみついた。
「あっ! もう!」
「莉子がちゃーんと掴まってるか、確認!」
貫く風が段々と緩やかになり、凪いでいく。心をざわつかせたまま。
私が残業の時は、律くんはバイクで迎えに来てくれる。
きっかけは終電だった。帰りが遅くなった私は駅で酔っぱらいの人に絡まれた。心配した律くんが駅のホームまで迎えに来ていたことで、事なきを得た――だけど。
『こんな時間まで仕事をしたのに……大変だったな。これからは俺が迎えに行くから、連絡してくれ。絶対に』
でも本当はあの日、私は嘘をついた。残業なんてなかった。ただ家に帰りたくなくて、終電までファミレスで時間を潰していた。
心とは裏腹に、視界は青信号が続いている。
対向車の光に私は目を閉じた。今でも瞼の裏に焼き付いている。
酔った相手に対して、律くんが守ってくれたこと。あの時、引き寄せられた手の熱さと逞しさが、今、この腕の中にある。
夜が明けるまでは嘘をついて、私は姉の顔でいる。でもあと三回だけ、そう決めていた。
「莉子ー!」
「んー?」
風に混じって、律くんのはしゃいだ声が聞こえる。
「明日、休みだろー? 今から海に行こーぜ」
「うみー?」
「うん! 秋夜の海は綺麗だぞー」
律くんと初めて会ったのも秋だった。海の見えるレストランで、お母さんと緊張して待っていたっけ……。
「莉子ー、どしたー?」
沈黙を迷っていると思ったらしい。
「……初めて会った時の、律くんを思い出しちゃった」
「うわっ〜〜! 俺の黒歴史やめてくれー!」
背中越しに動揺が伝わってくる。私はヘルメットの中で「……律くん、かっこよかったよ」と呟いた。告白は風とエンジン音で消える。
「何か言ったかー? まさか俺の悪口じゃないだろーなー」
「あ、バレちゃった?」
「お〜い!」
中学二年生の時、お母さんが再婚した。初めてお父さんと律くんに会ったレストラン。みんなが緊張した重苦しい空気の中で、律くんが突然「ショートコント、再婚!」と言って立ち上がった。慌てた律くんのお父さんが止めに入ると「親父がなーんにも話さないし、会話を仕切らないから、みんな困ってるだろ!」と一喝したのだ。
『俺たちは家族になるんだろ。それなのに最初っから、新しいお母さんと……娘さんに迷惑かけるなよ』
呆気に取られて、みんなで笑って、その後の食事はとても美味しかったのを覚えている。
「律くーん、海に行きたいー!」
「りょーかい!」
バイクは進路方向を海へと変えて進んでいく。暗闇の中で光が私達を導く。段々と風の強さが変わってきた。
「莉子、右を見てー」
「……わぁ」
顔を向けると月夜に照らされた海がきらきらと光っている。見入っているといつの間にか駐車場に着いていた。ヘルメットを脱いだ律くんが爽やかに笑う。ショートカットの黒髪が風で無造作に揺れていた。
「莉子の髪が乱れてる」
ヘルメットを脱いだ私の髪を、律くんは手櫛で整えてくれた。距離の近さに私は呼吸すら忘れてしまう。姉の顔を忘れて、つい離れてしまった。
無言で律くんが私を見ている。
「……あ、ありがとう」
にこっと微笑むと、律くんはホッとした表情になった。薄闇に浮かぶ笑窪。
「綺麗な海だね」
私は目を逸らして海を眺める。「うん」と律くんは軽快に頷く。駐車場の隅で光る自販機を指さして「莉子、紅茶でいい?」と聞いてきた。
「うん」
離れて行く背中。
数秒経って、手のひらに置かれるペットボトルの熱と律くんの指先。そのまま私の手を握ってきた。
心臓が跳ね上がる。手を引っ込めようとすると、律くんが離すまいと力を込めた。
「あのさ、俺……、莉子に話しておきたいことがあるんだ」
薄闇から波の音が聞こえる。それをかき消すくらいに私の鼓動は早鐘を打っていた。


