クールな(ふりをする)後輩くんと、涙活はじめました

 瀬川さんが、九州支社から戻ってきた。
 地方への転勤は昇進の前段階と言われていて、いつかは出世して戻ってくるだろうとは思っていた。
 でもまさか四年で、三十二歳という若さで部長になるとは予想もしてなかった。

 営業部は瀬川さんが戻ってきて、なんだか活気づいているみたいだ。
 甘いマスクに人当たりの良い彼は、相変わらず男女問わず慕われている。

 私はできるだけ近づかないようにしていた。
 極力総務部から出ないようにして、お昼休みも自分のデスクで過ごした。

 それなのに――

「すみれ」

 もうすぐ就業時間というとき、名前を呼ばれた。
 会社で私の名前を呼ぶのは翔子だけ。
 でも、この低くて重みのある声は彼女じゃない。

「何……でしょう」

 私はパソコン向かったまま返事をした。
 失礼だということはわかっている。
 けれど心の準備ができないまま振り返ることができなかった。
 冷静に振舞えない自分が情けない。

「なんで、こっち見ないの?」
「作業、しているので」
「連絡返してくれるのずっと待ってたんだよ」
「仕事中なので、業務に関係ないことはご遠慮ください」

 私、なんてひどい態度なんだ。
 こんなふうにあたるつもりはなかったのに。

 瀬川さんは何も言わなくなった。
 けれど、立ち去る気配もない。
 パソコンに向かっていても全然集中できない。
 私はちらりと後ろを見た。

 すると瀬川さんは私の後ろに立って左腕の腕時計を見ている。
 何してるの? と思った瞬間、パッと顔を上げた。

「就業時間、終わったよ。話してもいい?」

 何を言っているんだ。
 フロアの時計を見るとたしかに五時になっていた。
 だからって無理やり過ぎるでしょ。

「私、まだ仕事終わっていないので」
 
 パソコンに向き直ると、瀬川さんは去っていった。
 四年前の連絡の返事を今さら言われたってどうしようもないよ。
 返事をしなかった私が悪いのだけど、あの時の話を蒸し返したくない。

 それから三十分ほどで作業が終わり、帰ることにした。
 鞄を持って総務部を出る。
 まだ明るい廊下を歩き、ラウンジに差し掛かったところで腕を掴まれた。

「すみれ」
「瀬川さん……」
「仕事、終わったよね。ちょっといい?」

 私のこと、待っていたのだろうか。
 ここまでして話したいことって何?
 やっぱり四年前のこと?
 本当はもう思い出したくない。
 でも、このまま避け続けるより、一度ちゃんと話をして区切りをつけた方がいいのかもしれない。
 それで、瀬川さんにはもう関わらないようにお願いしよう。

「ここで、少しだけなら」

 瀬川さんはありがとう、と言って手を離してくれた。

「どうして連絡してくれなかったの? 心配してた」
「心配されるようなことは何もありませんよ」
「でも倒れたって聞いた。仕事だってずっと無理してたじゃない。だから部署だって異動したんでしょ」
「瀬川さんには関係ありませんから」
「僕たち、そんな希薄な関係じゃなかったよね?」

 希薄な関係じゃないってなんだ。
 濃い関係だったってこと?
 公私ともに最高のパートナーだって言ってたもんね。
 体の関係だってあった。
 でも、私が一番つらかったことに、瀬川さんは何も言ってくれなかった。

「別に付き合ってたわけでもないじゃないですか」
「付き合うとか付き合わないってそんなに重要なこと? 僕は、僕なりにすみれのこと大事にしてたよ」

 大事に、されていたかもしれない。
 瀬川さんがいたから、当時は仕事も頑張れた。
 でも、じゃあどうして噂のことは何も言わなかったの。
 
 何も否定してくれなかったから、私と体の関係を保つために仕事の面倒をみていたって肯定されたみたいだった。

 どれだけ私が惨めだったか、瀬川さんは全くわかっていない。

 ああだめだ。
 忘れたと思っていたのに、心の中にあった醜い感情を今はっきりと認識してしまっている。
 
 私、全然だめだ。
 何も変わってない――

「――兼森さん」

 そのとき、突然後ろから腕を引かれた。
 落ち着いた優しい声に、頭が冷静になる。

「氷山、くん」

 私を隠すように前に立つと、瀬川さんと向かい合う。
 
「瀬川部長、今すごくパワハラしてるように見えましたけど」
「そんなことしていない」
「兼森さんの今の顔見てもそれが言えますか」

 私、どんな顔しているんだろう。
 わからない。だけどきっと余裕のない表情なんだろう。

「兼森さん、今日映画の約束してましたよね。そろそろ時間ですよ」
「え……」
「映画の約束? なんですみれと氷山が」
「俺たち、涙友なんで」
「涙友? なにそれ」

 瀬川さんは怪訝そうな顔をするけれど、涙友というのは本当だ。
 約束はしていないけど。

 氷山くんは行きましょう、と私の手を握りその場を後にした。

 会社を出たところで立ち止まり、氷山くんを見上げる。

「私が困ってたから約束があるなんて嘘ついて助けてくれたんだよね。ありがとう」
「兼森さん、さっきの約束、本当にしませんか?」
「どういうこと?」
「映画、観に行きましょう。今の兼森さんには必要かなと思うので」

 瀬川さんとのことは何も聞いてこない。
 それでいて、私のことを考えて涙活をしようと言ってくれる。
 氷山くんの気遣いが嬉しい。

「うん。行く」

 私たちはそのまま映画館へと向かった。