家に帰って冷静になると、とんでもないことをしてしまったと落ち着かなくなった。
ベッドに倒れ込み、沈んだ体に思い出されるのは氷山くんとのキス……。
何をやっているんだ私は。
職場の後輩と一線を超えてしまった。
いや、体の関係を持ったわけじゃないからセーフか?
いやいやアウトでしょ。
でもまさか氷山くんがあんなことをするとは思っていなかった。
受け入れた自分にも驚いている。
そして一番驚いたのは全然嫌じゃなかったこと。
むしろ、もっと欲しいと思ってしまった。
頑張り屋だけれど泣き虫の氷山くん。
悩んで思いつめている姿が昔の自分と重なって放っておけなかった。
一緒に涙活をして、いろんな顔を知って、可愛いなと思って、彼と過ごす時間に心地良さを感じるようになっていた。
だから、流されてしまった。
このまま身を任せてもいいと、一瞬思ってしまった。
あそこで冷静になった自分を褒めたい。
別に付き合っているわけでも思い合っているわけでもない。
氷山くんだって、場の雰囲気に流されただけだろう。
すぐ謝られたし。
氷山くんとは今までの関係が心地良い。
気まずくなりたくないし、今日のことはなかったことにしよう。
そう思っていたけれど、氷山くんと顔を合わせる機会がなくなっていた。
会社で見かけることはあるけれど、前のように非常階段で話をすることはない。
避けられている? 避けるような距離感でもないのだけれど。
氷山くんから声をかけられなければ非常階段で待ち合わせることはないし、彼が泣きそうな顔をして駆け込む姿も最近はない。
会社で泣くことがなくなったのなら、それは良いことだ。
でも、なぜか寂しくもあった。
「私から、声かけてもいいかな……」
私は家から一冊の小説を持って、氷山くんを非常階段に呼び出した。
久しぶりに向かい合った彼は、他の会社の人に向けるような固い表情を貼り付けている。
私と会うときはいつも素の柔らかい表情をしていたのに。
ここは一応職場だし、どうして、なんてそんなこと考えても仕方ないか。
「兼森さんから誘ってくれるの珍しいですね」
「うん。これ、私のお勧めの本なんだけどよかったら読まないかなって」
「これ……もう読みました。気になってたんで買ったんです」
「あ、そうなんだ」
差し出した本を胸に抱えた。
なんか私、空回りしてる。
いつもなら読んだ本とか教えてくれて、感想とかどこで泣いたとかたくさん語ってくれるのに。
前より距離ができていると感じるのは気のせいだろうか。
「わざわざ持ってきてもらったのにすみません。じゃあ、俺いきますね」
冷たい……。
これがみんなの言う氷の王子というやつなのか。
目の当たりにすると悲しい。
必死な私がバカみたいだ。
これなら遠くから見ているだけの方がいいというのも納得でき――
「待って」
背を向けた氷山くんの袖を咄嗟に掴んでいた。
私らしくない。
でも、このまま行って欲しくなかった。
「兼森さん?」
振り返った氷山くんは、困った表情をしていた。
困らせているのに、その見慣れた表情に安心する。
だけど引き止めたところでどうすることもできない。
「ごめん……なんでもない。忙しいよね。行っていいよ」
袖を掴んだ手を力なく下ろす。
何も言えなくて俯いていると、氷山くんがそっと手を握ってきた。
「俺、変わりたいんです」
「え……うん」
それは知っている。
本当は泣きたくない、耐えられるようになりたい。
だから涙活を始めた。
改めて言われて、その思いが真剣なんだと伝わってくる。
「強くなって、もっと頼ってもらえる男になります。だから、見ていてください」
ぎゅっと握られた手に頷くことしかできない。
氷山くんはふわりと微笑み戻っていった。
私はしばらく非常階段で握られた手の余韻に浸るしかできなかった。
昼休みが終わり、自分のデスクに戻って仕事を再開する。
総務部は基本的に事務作業ばかりだ。
営業部のときのように外回りに追われたり、成績にプレッシャーを感じることもない。
心身ともに負担は減っているけれど、単純作業ばかりだとどうしても考えてしまう。
氷山くんの見ていてくださいってどういうことだろう。
前と態度が変わったのも気になる。
だめだ。仕事に集中しないと。
いくら単純作業とはいえ、ミスなんてしてはいけない。
ふう、と息を吐きパソコン画面に集中した。
「――すみれ」
突然名前を呼ばれ、手を止める。
今、会社で私の名前を呼ぶのは一人だけだ。
「翔子、久しぶり。珍しいね総務部来るの」
振り返った先にいたのは同期で人事部の田所翔子。
以前はよく飲みに行ったりしていたが、二年前に彼女が結婚してから会うことはめっきり減っていた。
「ちょっと、すみれに話しておきたいことがあるの」
「なに? そんなにかしこまって」
翔子は身を屈め、私の耳元に顔を寄せる。
「瀬川さん、九州支社から帰ってくるよ」
「え……それ、本当?」
「うん。さっき人事部で書類確認したから間違いない。帰ってきたら営業部の部長だよ」
「そう、なんだ」
「もう部署が違うから大丈夫だと思うけど、何かあったら言ってね」
「ありがとう」
翔子は私の肩をポン、と叩くと人事部へと戻っていった。
「瀬川さん……」
三つ上の先輩で、私が営業部にいたときにお世話になった。
そして、私が営業部を異動するきっかけになった人でもある……。
ベッドに倒れ込み、沈んだ体に思い出されるのは氷山くんとのキス……。
何をやっているんだ私は。
職場の後輩と一線を超えてしまった。
いや、体の関係を持ったわけじゃないからセーフか?
いやいやアウトでしょ。
でもまさか氷山くんがあんなことをするとは思っていなかった。
受け入れた自分にも驚いている。
そして一番驚いたのは全然嫌じゃなかったこと。
むしろ、もっと欲しいと思ってしまった。
頑張り屋だけれど泣き虫の氷山くん。
悩んで思いつめている姿が昔の自分と重なって放っておけなかった。
一緒に涙活をして、いろんな顔を知って、可愛いなと思って、彼と過ごす時間に心地良さを感じるようになっていた。
だから、流されてしまった。
このまま身を任せてもいいと、一瞬思ってしまった。
あそこで冷静になった自分を褒めたい。
別に付き合っているわけでも思い合っているわけでもない。
氷山くんだって、場の雰囲気に流されただけだろう。
すぐ謝られたし。
氷山くんとは今までの関係が心地良い。
気まずくなりたくないし、今日のことはなかったことにしよう。
そう思っていたけれど、氷山くんと顔を合わせる機会がなくなっていた。
会社で見かけることはあるけれど、前のように非常階段で話をすることはない。
避けられている? 避けるような距離感でもないのだけれど。
氷山くんから声をかけられなければ非常階段で待ち合わせることはないし、彼が泣きそうな顔をして駆け込む姿も最近はない。
会社で泣くことがなくなったのなら、それは良いことだ。
でも、なぜか寂しくもあった。
「私から、声かけてもいいかな……」
私は家から一冊の小説を持って、氷山くんを非常階段に呼び出した。
久しぶりに向かい合った彼は、他の会社の人に向けるような固い表情を貼り付けている。
私と会うときはいつも素の柔らかい表情をしていたのに。
ここは一応職場だし、どうして、なんてそんなこと考えても仕方ないか。
「兼森さんから誘ってくれるの珍しいですね」
「うん。これ、私のお勧めの本なんだけどよかったら読まないかなって」
「これ……もう読みました。気になってたんで買ったんです」
「あ、そうなんだ」
差し出した本を胸に抱えた。
なんか私、空回りしてる。
いつもなら読んだ本とか教えてくれて、感想とかどこで泣いたとかたくさん語ってくれるのに。
前より距離ができていると感じるのは気のせいだろうか。
「わざわざ持ってきてもらったのにすみません。じゃあ、俺いきますね」
冷たい……。
これがみんなの言う氷の王子というやつなのか。
目の当たりにすると悲しい。
必死な私がバカみたいだ。
これなら遠くから見ているだけの方がいいというのも納得でき――
「待って」
背を向けた氷山くんの袖を咄嗟に掴んでいた。
私らしくない。
でも、このまま行って欲しくなかった。
「兼森さん?」
振り返った氷山くんは、困った表情をしていた。
困らせているのに、その見慣れた表情に安心する。
だけど引き止めたところでどうすることもできない。
「ごめん……なんでもない。忙しいよね。行っていいよ」
袖を掴んだ手を力なく下ろす。
何も言えなくて俯いていると、氷山くんがそっと手を握ってきた。
「俺、変わりたいんです」
「え……うん」
それは知っている。
本当は泣きたくない、耐えられるようになりたい。
だから涙活を始めた。
改めて言われて、その思いが真剣なんだと伝わってくる。
「強くなって、もっと頼ってもらえる男になります。だから、見ていてください」
ぎゅっと握られた手に頷くことしかできない。
氷山くんはふわりと微笑み戻っていった。
私はしばらく非常階段で握られた手の余韻に浸るしかできなかった。
昼休みが終わり、自分のデスクに戻って仕事を再開する。
総務部は基本的に事務作業ばかりだ。
営業部のときのように外回りに追われたり、成績にプレッシャーを感じることもない。
心身ともに負担は減っているけれど、単純作業ばかりだとどうしても考えてしまう。
氷山くんの見ていてくださいってどういうことだろう。
前と態度が変わったのも気になる。
だめだ。仕事に集中しないと。
いくら単純作業とはいえ、ミスなんてしてはいけない。
ふう、と息を吐きパソコン画面に集中した。
「――すみれ」
突然名前を呼ばれ、手を止める。
今、会社で私の名前を呼ぶのは一人だけだ。
「翔子、久しぶり。珍しいね総務部来るの」
振り返った先にいたのは同期で人事部の田所翔子。
以前はよく飲みに行ったりしていたが、二年前に彼女が結婚してから会うことはめっきり減っていた。
「ちょっと、すみれに話しておきたいことがあるの」
「なに? そんなにかしこまって」
翔子は身を屈め、私の耳元に顔を寄せる。
「瀬川さん、九州支社から帰ってくるよ」
「え……それ、本当?」
「うん。さっき人事部で書類確認したから間違いない。帰ってきたら営業部の部長だよ」
「そう、なんだ」
「もう部署が違うから大丈夫だと思うけど、何かあったら言ってね」
「ありがとう」
翔子は私の肩をポン、と叩くと人事部へと戻っていった。
「瀬川さん……」
三つ上の先輩で、私が営業部にいたときにお世話になった。
そして、私が営業部を異動するきっかけになった人でもある……。



