昼休みのラウンジ、コーヒーを淹れてベンチに座る。
ゆっくりとコーヒーを飲み、営業部をちらりと見る。
しばらくして氷山くんが出ていったことを確認し、非常階段へと向かった。
半階下りた踊り場で立つ氷山くんは、私を見上げる。
「すみません、こんなところに来てもらって」
「ううん。私もあんまり目立ちたくないから」
私は持っていたハンドバッグから小説を取り出し差し出した。
かなり泣ける、涙活にお勧めの一冊だ。
貸す約束をしたけれど、人目のつく場所で渡していたら女性社員にどんな噂をされるかわからない。
ただ本を貸すだけだけど、氷山くんが涙活をしていることは秘密だからどうして貸すのかを聞かれたら困るし。
「ありがとうございます。あと、これも」
差し出されたのは先日映画館で貸したハンカチ。
洗濯されて、綺麗にアイロンもかけられている。
「わざわざありがとう」
「いえ、貸していただいて助かりました。そもそも、泣くために映画を観に行ったのにハンカチも持っていかなかったこと反省してます」
「反省だなんて大げさだよ」
しょんぼりする氷山くんが可愛くて思わず笑みがこぼれる。
こうしていると、氷の王子なんて呼ばれているのが嘘のようだ。
「俺、兼森さんと話してると落ち着きます」
「それは良かった。本、読むのいつでもいいからね。忙しいだろうし」
「はい。ありがとうございます」
けれど週明けには読み終わったと返され、またお勧めの小説を貸したり泣ける映画を教えてあげたりした。
けっこう頻繫に涙活をしているようで、私も勧めたものをもう一度観たりして時々感想を言い合った。
そして昼休み、非常階段の踊り場でコーヒーを飲みながら他愛のない話をする。
「今ネットプレミアム限定で配信されてる泣けるって話題の映画が気になってるんです」
「恋人を亡くした主人公がタイムスリップするやつだよね」
「兼森さんもう観ました?」
「ううん。私、ネットプレミアムは入ってないんだよね。でもCMで流れててちょっと気になってた。観たら感想教えてね」
よくサブスクで映画を観るけれど、さすがに全部に登録はしていない。
すると氷山くんがじっとこっちを見てくる。
「……あの、よかったらうちで一緒に観ませんか?」
「え? 一緒に?」
氷山くんの家か。
映画は気になるけど上がり込むのは気が引ける。
「えっと……兼森さんがよかったら、ですけど。せっかく涙活をしている同士ですし、一緒に観て感想とか言い合ったりするものいいのかなって……」
「そっか、同志……涙友ね。いいかも」
映画館で観た時と同じで、ただ一緒に涙活をするだけ。
変に意識しなくてもいいか。
私も何だかんだ涙活をする彼の話を聞くことが楽しみになっている。
土曜日の午後、会社から三駅ほどの氷山くんの住むマンションへとやってきた。
部屋の中は思っていたよりも生活感があって、自炊もしているのか調理器具などもしっかり揃っている。
「お茶入れるのでソファーに座っていてください」
「じゃあ、遠慮なく」
壁掛けテレビの向かいにローテーブルと大きなソファー。
ローテーブルの上には、うちの商品の中でも上質なティッシュペーパーの箱が置いてある。
それとハンカチ。
準備万端だな、なんて思いながらソファーに腰を沈めた。
リビングの奥には寝室があって、ベッドとディスクが置いてあった。
あまりじろじろ見るのは悪いと思いながらすることがないので見回してしまう。
「兼森さん、アイスティーでよかったですか?」
氷山くんは大きめのグラスをローテーブルに置く。
映画館で私がアイスティーを飲んでいたことを覚えていたのだろうか。
「うん。ありがとう」
「今さらですけど、無理に誘ってしまってすみません」
「映画観たかったし、私も氷山くんと一緒にいるの落ち着くから」
よかった、と嬉しそうに微笑んだ氷山くんは少し距離を取って隣に座り、テレビをつけた。
そしてすぐに目的の映画を再生した。
物語は主人公の恋人が事故に巻き込まれて亡くなるところから始まる。
そして恋人が事故にあったことを自分のせいだと責める主人公は、気づけば恋人と出会った大学生に戻っていた。
恋人の未来を案じた主人公は関わることを避ける選択をする。
けれどもどんなに距離を置いても冷たく接しても恋人は関わることを止めなかった。
告白された主人公はこれ以上誤魔化せないと自分は未来から戻ってきたこと、恋人が事故で亡くなってしまうことを告げる。
抱えた思いを知った恋人は主人公と離れることを決意。
それから七年後、事故があった年を過ぎたとき恋人が会いに来て二人は結ばれる、というお話だった。
「……うぅ……グスッ……二人が結ばれて良かったですね」
「そうだね。別れを選んだときは悲しかったけど、きっと彼女は七年後に会いに行くことを決めていたんだろうね」
別れたとき、再会したとき、お互いの気持ちを伝え合ったとき、心の奥がぎゅっとなって、涙がこぼれていた。
「兼森さん」
「なに?」
名前を呼ばれ、隣にいる氷山くんに顔を向ける。
「兼森さんって、泣くとき静かに泣きますよね」
「まあ、そうだね。子どもみたいにエンエン泣いたりはしないかな。一応、人前だしね」
やっぱり一人で泣く時とは違う。
一人だと思いっ切り泣いて、思いっ切り鼻をかんだりするし。
すると氷山くんはなぜか拗ねた表情になった。
そういえば彼はけっこうグスグスいって泣いている。
子どもみたいって言われたと思ったのかな。
「俺はもっと、兼森さんの素の泣き顔が見たいです」
「えっと……私、氷山くんの前ではけっこう素だよ?」
初めて話した時、いつもは固い表情を貼り付けている氷山くんが泣いていたからか、私もなんの警戒心も持たず接することができた。
そんな始まりだったからこそ、彼の前では私も自然と素でいられる。
こんなふうに一緒に涙活をしようと思えるのも、氷山くんだからだ。
「でも、兼森さんいつも余裕な感じしてますよね。俺はこんなに弱いところばかり見せてるのに」
「別に余裕ってわけではないよ。それに言ったでしょ、私には弱いところ見せていいって。むしろ頼ってもらえて嬉しいんだから」
「母性本能ってやつですか? 俺、兼森さんのこと母親だと思ったことなんてないです」
「いやそれはまあ言葉の綾というか、例えであって……」
もしかして本当に拗ねてるの?
自分だけ子どもみたいに泣いているのが不満なのかな。
可愛いな。
泣いたり、笑ったり、拗ねたり。
いろんな表情をもつ氷山くんがなんだか愛おしく思えてくる。
母性本能ってあながち間違ってないのかも。
なんて思って顔を見上げていると、氷山くんの手が伸びてきて私の頬にそっと触れてきた。
「え……」
泣いたあとの冷えた頬に、手のひらの温かさが痺れるように伝わってくる。
「もっと、俺のことちゃんと見てください」
真剣な表情に、さっきまでの可愛らしさは微塵も感じられなくなった。
急にドキドキして何も言えなくなる。
触れた手のひらをそのままに、ゆっくりと顔が近づいてくる。
そして優しく唇が重なった。
角度を変え、何度も優しく吸い付くように触れられる。
避けようと思えば避けられた。
だけど、受け入れてしまった。
離れた唇と、見つめ合う沈黙がいたたまれない。
「氷山……くん。なんか、映画の雰囲気に流されちゃったね。ごめん」
「どうして謝るんですか? それに、俺は流されたわけじゃないです」
もう一度、顔が近づいてくる。
だめだ。
このままだと私が流されてしまう。
曖昧に流されて、後悔することは自分でよくわかっている。
「氷山くん、だめだよ」
「嫌、ですか?」
ずるい。
だめなのに。
「嫌……じゃない」
再び触れた唇はさっきよりも熱を帯びていて、心地良ささえ感じてしまう。
母性だなんて誤魔化すような言葉はもう言えない。
抱き寄せられた腰、後頭部に回された手がゆっくりと倒され、体がソファーに沈んでいく。
離れた唇が首筋へと下がっていく――
「ちょっと待って!」
胸元を両手で押し返し、腕の中から逃げるように起き上がる。
目が合った氷山くんは泣きそうな顔をしている。
「ごめん、なさい……」
「いや……私こそ、ごめん。こんなつもりじゃなかったよね」
ただ映画を観て、涙活をして、感想を言い合うだけのつもりだった。
氷山くんもそうだったはず。
「兼森さん、俺――」
何か言いかけたとき、私はパッと立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね。映画、よかったね。その後のことはまあ……忘れよう。じゃあ、また会社で」
「兼森さん!」
名前を呼ばれたけれど、そのまま鞄を持って家を出た。
ゆっくりとコーヒーを飲み、営業部をちらりと見る。
しばらくして氷山くんが出ていったことを確認し、非常階段へと向かった。
半階下りた踊り場で立つ氷山くんは、私を見上げる。
「すみません、こんなところに来てもらって」
「ううん。私もあんまり目立ちたくないから」
私は持っていたハンドバッグから小説を取り出し差し出した。
かなり泣ける、涙活にお勧めの一冊だ。
貸す約束をしたけれど、人目のつく場所で渡していたら女性社員にどんな噂をされるかわからない。
ただ本を貸すだけだけど、氷山くんが涙活をしていることは秘密だからどうして貸すのかを聞かれたら困るし。
「ありがとうございます。あと、これも」
差し出されたのは先日映画館で貸したハンカチ。
洗濯されて、綺麗にアイロンもかけられている。
「わざわざありがとう」
「いえ、貸していただいて助かりました。そもそも、泣くために映画を観に行ったのにハンカチも持っていかなかったこと反省してます」
「反省だなんて大げさだよ」
しょんぼりする氷山くんが可愛くて思わず笑みがこぼれる。
こうしていると、氷の王子なんて呼ばれているのが嘘のようだ。
「俺、兼森さんと話してると落ち着きます」
「それは良かった。本、読むのいつでもいいからね。忙しいだろうし」
「はい。ありがとうございます」
けれど週明けには読み終わったと返され、またお勧めの小説を貸したり泣ける映画を教えてあげたりした。
けっこう頻繫に涙活をしているようで、私も勧めたものをもう一度観たりして時々感想を言い合った。
そして昼休み、非常階段の踊り場でコーヒーを飲みながら他愛のない話をする。
「今ネットプレミアム限定で配信されてる泣けるって話題の映画が気になってるんです」
「恋人を亡くした主人公がタイムスリップするやつだよね」
「兼森さんもう観ました?」
「ううん。私、ネットプレミアムは入ってないんだよね。でもCMで流れててちょっと気になってた。観たら感想教えてね」
よくサブスクで映画を観るけれど、さすがに全部に登録はしていない。
すると氷山くんがじっとこっちを見てくる。
「……あの、よかったらうちで一緒に観ませんか?」
「え? 一緒に?」
氷山くんの家か。
映画は気になるけど上がり込むのは気が引ける。
「えっと……兼森さんがよかったら、ですけど。せっかく涙活をしている同士ですし、一緒に観て感想とか言い合ったりするものいいのかなって……」
「そっか、同志……涙友ね。いいかも」
映画館で観た時と同じで、ただ一緒に涙活をするだけ。
変に意識しなくてもいいか。
私も何だかんだ涙活をする彼の話を聞くことが楽しみになっている。
土曜日の午後、会社から三駅ほどの氷山くんの住むマンションへとやってきた。
部屋の中は思っていたよりも生活感があって、自炊もしているのか調理器具などもしっかり揃っている。
「お茶入れるのでソファーに座っていてください」
「じゃあ、遠慮なく」
壁掛けテレビの向かいにローテーブルと大きなソファー。
ローテーブルの上には、うちの商品の中でも上質なティッシュペーパーの箱が置いてある。
それとハンカチ。
準備万端だな、なんて思いながらソファーに腰を沈めた。
リビングの奥には寝室があって、ベッドとディスクが置いてあった。
あまりじろじろ見るのは悪いと思いながらすることがないので見回してしまう。
「兼森さん、アイスティーでよかったですか?」
氷山くんは大きめのグラスをローテーブルに置く。
映画館で私がアイスティーを飲んでいたことを覚えていたのだろうか。
「うん。ありがとう」
「今さらですけど、無理に誘ってしまってすみません」
「映画観たかったし、私も氷山くんと一緒にいるの落ち着くから」
よかった、と嬉しそうに微笑んだ氷山くんは少し距離を取って隣に座り、テレビをつけた。
そしてすぐに目的の映画を再生した。
物語は主人公の恋人が事故に巻き込まれて亡くなるところから始まる。
そして恋人が事故にあったことを自分のせいだと責める主人公は、気づけば恋人と出会った大学生に戻っていた。
恋人の未来を案じた主人公は関わることを避ける選択をする。
けれどもどんなに距離を置いても冷たく接しても恋人は関わることを止めなかった。
告白された主人公はこれ以上誤魔化せないと自分は未来から戻ってきたこと、恋人が事故で亡くなってしまうことを告げる。
抱えた思いを知った恋人は主人公と離れることを決意。
それから七年後、事故があった年を過ぎたとき恋人が会いに来て二人は結ばれる、というお話だった。
「……うぅ……グスッ……二人が結ばれて良かったですね」
「そうだね。別れを選んだときは悲しかったけど、きっと彼女は七年後に会いに行くことを決めていたんだろうね」
別れたとき、再会したとき、お互いの気持ちを伝え合ったとき、心の奥がぎゅっとなって、涙がこぼれていた。
「兼森さん」
「なに?」
名前を呼ばれ、隣にいる氷山くんに顔を向ける。
「兼森さんって、泣くとき静かに泣きますよね」
「まあ、そうだね。子どもみたいにエンエン泣いたりはしないかな。一応、人前だしね」
やっぱり一人で泣く時とは違う。
一人だと思いっ切り泣いて、思いっ切り鼻をかんだりするし。
すると氷山くんはなぜか拗ねた表情になった。
そういえば彼はけっこうグスグスいって泣いている。
子どもみたいって言われたと思ったのかな。
「俺はもっと、兼森さんの素の泣き顔が見たいです」
「えっと……私、氷山くんの前ではけっこう素だよ?」
初めて話した時、いつもは固い表情を貼り付けている氷山くんが泣いていたからか、私もなんの警戒心も持たず接することができた。
そんな始まりだったからこそ、彼の前では私も自然と素でいられる。
こんなふうに一緒に涙活をしようと思えるのも、氷山くんだからだ。
「でも、兼森さんいつも余裕な感じしてますよね。俺はこんなに弱いところばかり見せてるのに」
「別に余裕ってわけではないよ。それに言ったでしょ、私には弱いところ見せていいって。むしろ頼ってもらえて嬉しいんだから」
「母性本能ってやつですか? 俺、兼森さんのこと母親だと思ったことなんてないです」
「いやそれはまあ言葉の綾というか、例えであって……」
もしかして本当に拗ねてるの?
自分だけ子どもみたいに泣いているのが不満なのかな。
可愛いな。
泣いたり、笑ったり、拗ねたり。
いろんな表情をもつ氷山くんがなんだか愛おしく思えてくる。
母性本能ってあながち間違ってないのかも。
なんて思って顔を見上げていると、氷山くんの手が伸びてきて私の頬にそっと触れてきた。
「え……」
泣いたあとの冷えた頬に、手のひらの温かさが痺れるように伝わってくる。
「もっと、俺のことちゃんと見てください」
真剣な表情に、さっきまでの可愛らしさは微塵も感じられなくなった。
急にドキドキして何も言えなくなる。
触れた手のひらをそのままに、ゆっくりと顔が近づいてくる。
そして優しく唇が重なった。
角度を変え、何度も優しく吸い付くように触れられる。
避けようと思えば避けられた。
だけど、受け入れてしまった。
離れた唇と、見つめ合う沈黙がいたたまれない。
「氷山……くん。なんか、映画の雰囲気に流されちゃったね。ごめん」
「どうして謝るんですか? それに、俺は流されたわけじゃないです」
もう一度、顔が近づいてくる。
だめだ。
このままだと私が流されてしまう。
曖昧に流されて、後悔することは自分でよくわかっている。
「氷山くん、だめだよ」
「嫌、ですか?」
ずるい。
だめなのに。
「嫌……じゃない」
再び触れた唇はさっきよりも熱を帯びていて、心地良ささえ感じてしまう。
母性だなんて誤魔化すような言葉はもう言えない。
抱き寄せられた腰、後頭部に回された手がゆっくりと倒され、体がソファーに沈んでいく。
離れた唇が首筋へと下がっていく――
「ちょっと待って!」
胸元を両手で押し返し、腕の中から逃げるように起き上がる。
目が合った氷山くんは泣きそうな顔をしている。
「ごめん、なさい……」
「いや……私こそ、ごめん。こんなつもりじゃなかったよね」
ただ映画を観て、涙活をして、感想を言い合うだけのつもりだった。
氷山くんもそうだったはず。
「兼森さん、俺――」
何か言いかけたとき、私はパッと立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね。映画、よかったね。その後のことはまあ……忘れよう。じゃあ、また会社で」
「兼森さん!」
名前を呼ばれたけれど、そのまま鞄を持って家を出た。



