手すりに掴まり、項垂れるように嗚咽を漏らす氷山くんは私に気付いていない。
そもそも非常階段を使う社員はほとんどいないし、私もたまたまエレベーターが混んでいて下りだから階段でいいやと来ただけだった。
触れてはいけないような気もしたけど、先日のこともあるし見て見ぬふりはできない。
「氷山くん?」
「はぃっ……」
驚いたのか、裏返った声を出す氷山くん。
落ち着いて、と声をかけると振り返った彼と目が合った。
私の顔を見た瞬間、ホッとしたような表情になったので安心した。
「こんなところでどうしたの? また仕事行き詰ってる?」
「違うんです。これは嬉し涙で、このあと兼森さんに会いに行こうと思っていたんですけどなかなか涙が引かなくて」
嬉し涙だったの?
こんなひと気のないところで泣いているなんて何かあったのかと心配したのに。
嬉しくて泣くなんて感情豊かなんだな。
「それで、どうして私に会いに?」
「桜田ホールディングスとの契約取れました」
「本当? よかったね」
トイレットペーパーだけでなく、ホテル内レストランのナプキンもロゴ入りの特注で発注したいと連絡があったそうだ。
「全部、兼森さんのおかげです。他の商品資料も載せようって言ってくれたからです。やっぱりさすがですね」
「え? さすがって、どういう意味?」
「兼森さんが過去に作った資料がたくさんあって、いつも参考にしてたんです」
昔作ったやつ、まだ残ってたんだ。
だから私の名前も知っていたのかな。
当時の黒歴史も含まれているけど、役に立っているならよかった。
「そうだったんだね」
「いつも資料を見ながら一緒に仕事がしたかったなって思っていたんです。こんな形で助けてもらうことになってしまいましたけど」
「私が営業部にいたのは四年前までだから氷山くんの入社と入れ違いだったね」
ちょうど今の氷山くんと同じ年に私は営業部から総務部へ異動した。
異動自体は私が希望したものではなかったけど、仕方ないと思っている。
「あの、今はちょっと忙しくて無理なんですけど、落ち着いたらご飯いきませんか? お礼がしたいです」
ご飯か。二人でってことだよね。
会社の人、特に女性社員に見られると面倒だからあまり乗り気ではない。
返事は濁しておこう。
「考えとくね」
とりあえず、心配することなくて良かった。
私はじゃあね、と軽く手を上げて階段を上り総務部へと戻った。
氷の王子と呼ばれる氷山くんが、こんなに感情豊かで泣き虫だなんて知らなかった。
本人も隠れて泣いているみたいだし、私も忘れてあげよう。
けれどそれから数日、今までは何も思わなかったけど、氷山くんを見かけると気になるようになっていた。
クールというよりも、何かを堪えたような表情が。
「――氷山、これもお前やっとけよ」
「ですが、これは先輩の仕事ではないですか?」
ラウンジでコーヒーを入れていると、営業部近くから声が聞こえてきた。
コーヒーを持って、こっそりと様子を伺う。
いつもならこんなことしないけれど、なんだか気になった。
「こっちは忙しいんだよ」
「俺も、忙しいです」
「お前は何やったってそつなくやるんだからいいだろ」
「わかりました。ですがこの仕事は今後俺が全て請け負います」
「なんだよそれ。すました顔してできるやつは言うことが違うな。好きにしろよ」
先輩らしき人は去っていった。
氷山くんは渡された資料を持って肩を震わせている。
そして、営業部とは反対の方向へ歩き出す。
あっちは非常階段がある方だ。
私はもうひとつコーヒーを入れて、非常階段へと向かった。
ゆっくりとドアを開け、半階下りたところの踊り場で身を屈める氷山くんの後ろに立つ。
「お疲れ様」
「え……」
驚いたように振り向く氷山の頬には、やはり涙が流れている。
「どうぞ」
「あ、りがとうございます」
私はコーヒーを差し出して、階段に腰掛けた。
氷山くんも隣に座った。
「ここ、よく来てるの?」
「兼森さんにはなぜか見つかっちゃいますね。さっき先輩と話してたの聞いてました?」
「ごめん。見かけちゃって」
「いい歳した男がこんなことで泣くなんてみっともないですよね。別に仕事を任されただけなのに」
彼が泣いているところを見たのはこれで三回目だけど、きっと今までも何度も同じことがあったのだろう。
「歳とか、男とか関係ないし、涙が出るってことはそれだけ心が疲れてるってことだよ。みっともないなんてことない。それにこの前のは嬉し涙でしょ?」
「でも、本当は泣きたくなんてないんです。弱いところ、見せてはだめだって。それに大変なのはみんな同じだし、それでもちゃんと頑張ってる」
「頑張ることを他人と比べる必要なんてないよ」
まあ私も人のことを言える立場じゃないんだけどね。
でも、だからこそ今の氷山くんの状況も気持ちも理解できる。
「俺、人前では表情が崩れないように耐えてるんです。でもやらないといけないこと、言われたこと、頭の中で考えてると無意識に目頭が熱くなって、ここに逃げ込んでる。泣き虫な自分が本当嫌になる」
クールに振る舞っているのは、弱い自分を隠すためだったんだ。
本当の彼は感情豊かで、ちょっと泣き虫で、そんな自分に自信が持てずに必死に取り繕っている。
すごく偉いと思う。
自分なりに考えて、対処して、その上でしっかり実績を残して。
でも、いつか壊れてしまうかもしれない。
「私も、頭と心のバランスが取れなくなったことがあったんだよね。だから思いっ切り泣くことにしてる」
「思いっ切り泣く?」
「涙活、してるの。休みの日に泣ける映画観たり、小説とか漫画読んだり、疲れたなって思ったら一度思いっ切り泣くの。そしたらけっこうスッキリするし、よく眠れるし、感情のコントロールも上手くいくようになった。だから氷山くんも、趣味とか息抜きとか見つけてみたらいいかも」
四年前、体調を崩してからちょっとしたきっかけで涙活を始めた。
意識して泣くことでリラックス効果も得られるし、何もすることがない休日を有意義に過ごす目的にもなった。
今の私にはなくてはならない時間になっている。
まあ私の習慣なんてなんのアドバイスにもならないかもしれないけど、少しでも心を落ち着かせる時間があれば違ってくると思う。
私はコーヒーを飲み干すと立ち上がる。
「じゃあ、あまり無理し過ぎないでね」
背を向けて階段を上ろうとすると、ぎゅっと腕を掴まれた。
「兼森さん、あの……」
「なに?」
階段の段差で同じ目線になった氷山くんは、真剣な表情で私を見る。
「俺に涙活、教えてくれませんか」
そもそも非常階段を使う社員はほとんどいないし、私もたまたまエレベーターが混んでいて下りだから階段でいいやと来ただけだった。
触れてはいけないような気もしたけど、先日のこともあるし見て見ぬふりはできない。
「氷山くん?」
「はぃっ……」
驚いたのか、裏返った声を出す氷山くん。
落ち着いて、と声をかけると振り返った彼と目が合った。
私の顔を見た瞬間、ホッとしたような表情になったので安心した。
「こんなところでどうしたの? また仕事行き詰ってる?」
「違うんです。これは嬉し涙で、このあと兼森さんに会いに行こうと思っていたんですけどなかなか涙が引かなくて」
嬉し涙だったの?
こんなひと気のないところで泣いているなんて何かあったのかと心配したのに。
嬉しくて泣くなんて感情豊かなんだな。
「それで、どうして私に会いに?」
「桜田ホールディングスとの契約取れました」
「本当? よかったね」
トイレットペーパーだけでなく、ホテル内レストランのナプキンもロゴ入りの特注で発注したいと連絡があったそうだ。
「全部、兼森さんのおかげです。他の商品資料も載せようって言ってくれたからです。やっぱりさすがですね」
「え? さすがって、どういう意味?」
「兼森さんが過去に作った資料がたくさんあって、いつも参考にしてたんです」
昔作ったやつ、まだ残ってたんだ。
だから私の名前も知っていたのかな。
当時の黒歴史も含まれているけど、役に立っているならよかった。
「そうだったんだね」
「いつも資料を見ながら一緒に仕事がしたかったなって思っていたんです。こんな形で助けてもらうことになってしまいましたけど」
「私が営業部にいたのは四年前までだから氷山くんの入社と入れ違いだったね」
ちょうど今の氷山くんと同じ年に私は営業部から総務部へ異動した。
異動自体は私が希望したものではなかったけど、仕方ないと思っている。
「あの、今はちょっと忙しくて無理なんですけど、落ち着いたらご飯いきませんか? お礼がしたいです」
ご飯か。二人でってことだよね。
会社の人、特に女性社員に見られると面倒だからあまり乗り気ではない。
返事は濁しておこう。
「考えとくね」
とりあえず、心配することなくて良かった。
私はじゃあね、と軽く手を上げて階段を上り総務部へと戻った。
氷の王子と呼ばれる氷山くんが、こんなに感情豊かで泣き虫だなんて知らなかった。
本人も隠れて泣いているみたいだし、私も忘れてあげよう。
けれどそれから数日、今までは何も思わなかったけど、氷山くんを見かけると気になるようになっていた。
クールというよりも、何かを堪えたような表情が。
「――氷山、これもお前やっとけよ」
「ですが、これは先輩の仕事ではないですか?」
ラウンジでコーヒーを入れていると、営業部近くから声が聞こえてきた。
コーヒーを持って、こっそりと様子を伺う。
いつもならこんなことしないけれど、なんだか気になった。
「こっちは忙しいんだよ」
「俺も、忙しいです」
「お前は何やったってそつなくやるんだからいいだろ」
「わかりました。ですがこの仕事は今後俺が全て請け負います」
「なんだよそれ。すました顔してできるやつは言うことが違うな。好きにしろよ」
先輩らしき人は去っていった。
氷山くんは渡された資料を持って肩を震わせている。
そして、営業部とは反対の方向へ歩き出す。
あっちは非常階段がある方だ。
私はもうひとつコーヒーを入れて、非常階段へと向かった。
ゆっくりとドアを開け、半階下りたところの踊り場で身を屈める氷山くんの後ろに立つ。
「お疲れ様」
「え……」
驚いたように振り向く氷山の頬には、やはり涙が流れている。
「どうぞ」
「あ、りがとうございます」
私はコーヒーを差し出して、階段に腰掛けた。
氷山くんも隣に座った。
「ここ、よく来てるの?」
「兼森さんにはなぜか見つかっちゃいますね。さっき先輩と話してたの聞いてました?」
「ごめん。見かけちゃって」
「いい歳した男がこんなことで泣くなんてみっともないですよね。別に仕事を任されただけなのに」
彼が泣いているところを見たのはこれで三回目だけど、きっと今までも何度も同じことがあったのだろう。
「歳とか、男とか関係ないし、涙が出るってことはそれだけ心が疲れてるってことだよ。みっともないなんてことない。それにこの前のは嬉し涙でしょ?」
「でも、本当は泣きたくなんてないんです。弱いところ、見せてはだめだって。それに大変なのはみんな同じだし、それでもちゃんと頑張ってる」
「頑張ることを他人と比べる必要なんてないよ」
まあ私も人のことを言える立場じゃないんだけどね。
でも、だからこそ今の氷山くんの状況も気持ちも理解できる。
「俺、人前では表情が崩れないように耐えてるんです。でもやらないといけないこと、言われたこと、頭の中で考えてると無意識に目頭が熱くなって、ここに逃げ込んでる。泣き虫な自分が本当嫌になる」
クールに振る舞っているのは、弱い自分を隠すためだったんだ。
本当の彼は感情豊かで、ちょっと泣き虫で、そんな自分に自信が持てずに必死に取り繕っている。
すごく偉いと思う。
自分なりに考えて、対処して、その上でしっかり実績を残して。
でも、いつか壊れてしまうかもしれない。
「私も、頭と心のバランスが取れなくなったことがあったんだよね。だから思いっ切り泣くことにしてる」
「思いっ切り泣く?」
「涙活、してるの。休みの日に泣ける映画観たり、小説とか漫画読んだり、疲れたなって思ったら一度思いっ切り泣くの。そしたらけっこうスッキリするし、よく眠れるし、感情のコントロールも上手くいくようになった。だから氷山くんも、趣味とか息抜きとか見つけてみたらいいかも」
四年前、体調を崩してからちょっとしたきっかけで涙活を始めた。
意識して泣くことでリラックス効果も得られるし、何もすることがない休日を有意義に過ごす目的にもなった。
今の私にはなくてはならない時間になっている。
まあ私の習慣なんてなんのアドバイスにもならないかもしれないけど、少しでも心を落ち着かせる時間があれば違ってくると思う。
私はコーヒーを飲み干すと立ち上がる。
「じゃあ、あまり無理し過ぎないでね」
背を向けて階段を上ろうとすると、ぎゅっと腕を掴まれた。
「兼森さん、あの……」
「なに?」
階段の段差で同じ目線になった氷山くんは、真剣な表情で私を見る。
「俺に涙活、教えてくれませんか」



