クールな(ふりをする)後輩くんと、涙活はじめました

 私以外誰もいなくなった広いフロア。
 ほとんどの明かりは消されていて、私のデスクの頭上だけが照らされている。
 パソコンの電源を切り、椅子を引いて思い切り伸びをする。

「やっと終わった」

 今朝部長から頼まれたデータ入力を数時間の残業を経てやっと作り終えた。
 頼まれた時は正直面倒だなと思ったけれど、誰もいない静かな会社で黙々とデータを打ち込む作業は嫌いではない。
 家に帰っても特にすることはないし、しっかり残業代ももらえるなら悪くないと思っている。
 
 荷物をまとめ、鞄を持って総務部のフロアを出た。
 薄暗い廊下を歩き、ラウンジにさしかかったところで、微かに声が聞こえてくる。
 嗚咽のような、唸り声のような、不気味な声だ。

 この会社って幽霊とか出る噂なんかあったっけ……。
 入社して七年、一度もそんな話を聞いたことはないけど。
 興味半分、怖ろしさ半分で近づいていくとその声ははっきりと聞こえてくる。

「うぅ……ひっく……」

 泣いてるの?
 でも幽霊ではなさそう。
 男の人の声だ。
 私以外にも残ってる人いたんだ。
 ラウンジの先には営業部がある。
 普段はほとんど行かない部署だけれど、足を進めた。
 すると営業部の手前にあるラウンジのベンチに背中を丸め座り込んでいる人がいた。

 私には気付ず、ずっと嗚咽を漏らしている。
 どうしたんだろう。
 営業部のフロアを覗くけれど、他に人はいないみたいだった。

「大丈夫ですか?」

 声をかけると、男性はビクッと肩を震わせ振り向いた。

 彼はたしか、営業部の若手のエースと言われる氷山樹(ひやま いつき)くん?
 女性社員がイケメンだっていつも騒いでいるのを知っている。
 冷静沈着、そのクールで悠然とした佇まいから氷の王子なんて言われている彼が――泣いている?

「す、すみません」

 なぜか謝られ、立ち上がると営業部へと戻っていこうとする。
 けれど涙は流れ、肩は震えたままだ。

「ちょっと待って。大丈夫? 何かあったんじゃ」

 背を向けたまま立ち止まった氷山くんは、袖で目を擦るように涙を拭うと首を横に振った。

「仕事が、少し行き詰っていただけなので大丈夫です」

 それだけ言うとまた歩き出す。
 これからまだ仕事を続けるつもりなのだろう。
 でももうかなり遅い時間だし、泣くくらい大変なのに一人で抱えているなんて負担が大きいに違いない。
 それに、私にも同じような経験がある。
 自分を追い込んで、キャパオーバーになって、壊れていく。
 そんな昔の自分と氷山くんが重なって見えて、思わず腕を掴んでいた。

「仕事、手伝うよ」
「他部署の兼森さんに迷惑はかけられません」

 あれ私、名前言ってないよね。
 仕事で関わったこともないし。
 なんで知っているんだろう。
 そんなことより……

「他部署の前に同じ会社の一員でしょ」

 私は掴んだ腕を引っ張って営業部へと入った。
 電源の入ったパソコンに広がった資料。
 彼のと思わしきデスクは散らかっていた。

「今日、営業に行った先で明日の正午までに資料を持ってきたら午後からの会議でうちの商品を会議でリストに入れもらえるって言われて、絶対に間に合わせますって言ったんです」
「でも、間に合いそうにないと……。他の営業部の人に手伝ってもらえなかったの?」
「それは……」

 氷山くんはグッと口をつぐんで眉を下げた。
 誰にも言えなかったんだ。
 頼ることは簡単ではない。それはわかる。

「とにかく、資料を仕上げよう」

 私はデスクに散らかった過去資料と新製品のデータに目を通す。

 うちの会社、テンダー製紙はトイレットペーパーやティッシュペーパー、キッチンペーパーなどの家庭紙を製造、販売する製紙メーカーだ。

 氷山くんが今日営業に行ったのは、ホテル事業を全国展開する桜田ホールディングス。
 ここと契約を結ぶことができれば、経営ホテルでのペーパー類をうちの商品で占めることができる。稀にないトップ契約だ。
 会議にあげてもらう約束を取り付けただけでもすごい。

「高級ホテルの質にあったものであることをアピールしようと思っていたんですけど」
「主に客室で使うトイレットペーパーとティッシュペーパーね……」

 手渡された資料には、商品紹介の他に、柔らかくかつ丈夫な性質であることを数字にしたデータや、過去製品や一般家庭向け製品との比較データがまとめられている。
 重要なデータではあるけれど、決め手にかける。

「口コミデータも入れておこう。あとは他の商品の紹介も」
「他の商品、ですか」
「売りたい商品だけでなくて、うちがどういう会社なのか知ってもらうためだよ」
 
 それから二人で様々なデータをまとめ、日が登り始める少し前に資料が完成した。

「兼森さん、本当にありがとうございました」
「間に合ってよかったね」
「後日、必ずお礼しますので」
「それはいいよ。契約、とってきてね」
「はい。あの、それと……」

 言いにくそうにしながらも、表情を引き締める氷山くんはいつも会社で見かける彼だ。

「泣いてたことはだれにも言わないよ」

 目を見開き驚く姿に、言いたかったことが当たったんだとわかった。
 彼はきっと周囲に弱みを見せたくないと思っている。
 わざわざ私が周りに言う必要もない。

「ありがとうございます」
「うん。じゃあ、私家近いから一回帰るね。氷山くんも始業時間まで仮眠とりなよ」

 現在午前五時。帰ってシャワーを浴びて一時間くらいは寝られるはず。

「兼森さん、ではまた」

 徹夜をしたというのに昨晩よりもキリッとした顔の氷山くんに手を振って、会社から徒歩十分のアパートに帰った。
 私は徹夜で仕事なんて何年ぶりだろう。
 あの頃は心身ともにおかしかったけど、久しぶりにすると達成感もあるしなんだか楽しかった。

 その日の午後、ラウンジで見かけた氷山くんはいつものクールな表情で同僚と話をしていた。
 女性社員は相変わらず色めき立っている。
 遠くから騒がれているのは、彼がどんなに女性からアプローチを受けても変わらず冷静な対応しかしないから。
 玉砕した女性は数知れないという。
 たしかにこう見るとキリッとしていてカッコいいし、仕事もできるなんてモテるに決まっている。

 でも、氷山くんにはあまり無理してほしくないな。
 あんなに泣くほど追い詰められていたんだ。
 仕事ができても、背負いすぎは良くない。

 まあ部署も違うし、私にできることはもうないか。
 心配だけど、頑張ってもらうしかない。

 そう思っていた数日後、誰もいないはずの非常階段で、泣いている氷山くんと遭遇した。