それでは喜んで“傾国の悪女”となりましょう~欲に溺れた哀れな皆様、いつまで私のことを利用できるとお思いですか?~

「ふん。平民上がりの卑しい身で、高価な書物に触るな。覚えておけ。女は男に媚びて、男にかわいがられなければ価値がないんだ。無駄な教養は、女をつけ上がらせる。お前が邸の書庫で読むのは、男に媚びを売る女を書いた幼稚な私小説だけにしろ」
 この言葉は、私が十二歳の終わり頃、邸の書庫から出てきた私に、十六歳のドリスタンが面と向かって吐いてきたものだ。ちなみに寒空の中、私は全身ずぶ濡れ。ドリスタンは空のバケツを手に持っている。
 うわ、気持ち悪い!と心中で絶叫した。半分でも血が繋がっている未成年の妹に、成人したばかりとはいえ、男が偏見塗れの〝女〟を説くなよと、鳥肌が立ってしまう。
 私が父親の邸に移ってから約五年。ドリスタンは、なにかと私の視界に入ってきた。
 足を引っかけようとしたり、髪を引っ張ったり、水を浴びせたり。幼稚な嫌がらせばかりだ。私の顔と体だけは、傷がつかないように配慮している。
 というのも、邸に来たばかりの頃だ。ドリスタンは、私の体中を鞭で打ったことがあった。
 何度も鞭打たれた後、私への鞭打ちを知った父親が、部屋に駆けつけた。
『考えてからやれ! 傷などつけて商品価値が落ちたら、どうしてくれる!』
 そう言った父親は、床に転がる私を一瞥すると、ドリスタンから鞭を取り上げ、怒りの形相で部屋を出ていった。ドリスタンも、慌てて父親の後を追う。
 当然のようにひとり残された私は、なんとも父親らしい発言だと思いつつ、気絶した。
 目覚めると傷の手当てはされていたものの、以降、誰にも傷の経過を尋ねられたことはない。
 以来、ドリスタンが私の体に傷をつけることはしていない。ただ――。
「僕は忙しいんだ。署名だけでいいように精査し、処理しておけ。わかっているな。父上から任された書類だ。絶対に不備がないようにして、事業計画書も作っておけよ」
 ドリスタンは無教養だと馬鹿にしつつも、成人前から徐々に父親が割り振っていく仕事を、私に押しつけるようになった。どんな小さな不備だとしても、あればご飯抜きになる。
 とはいえ悪辣さ加減なら、ぶっちゃけ前世の児童養護施設時代の方が、質が悪い。
 そもそも泣いて訴えても、加害者の子供に親がいれば、親がいないからと被害者のこちらが悪者にされることもよくあった。
 だからドリスタンの嫌がらせを鬱陶しいとは感じても、心はノーダメージ。中身は大人だ。
 前世の記憶から、証拠を残さず手ひどくやり返す方法も思いつくけれど、控えた。理由はふたつ。
 邸の書庫に魅力を感じたこと。そして最低限のマナー以外、これといった教育がなされなかったこと。
 後者については、私を馬鹿で従順な女に育てる父親側の意図がある。
 言い換えるなら、書庫で本を漁る時間も、前世から引き継いだ趣味であるアクセサリー作りに没頭する時間も、十二分に得られたということだ。
 けれど十六歳、いや、十五歳までに邸を出ていく必要を感じていた。
 なぜなら、父親が私を身売りさせるだろう期日が、成人となる十六歳だったから。
 前倒しされることは法律的にも、父親の爵位的にもない。ちなみに父親は、あんなんでも伯爵だ。ルーター伯爵と呼ばれている。
 ただし嫁ぐ準備期間を考えれば、十五歳になる前までを期限とするのが妥当だろう。
 父親もドリスタンも、浅はかで見栄っ張り。代々の家業をただ継いでいるだけで、家業を先細りさせるだけの能力しかない。
 だから父親はドリスタンに、ドリスタンは私に、書類や事業計画書作成を押しつけたのだ。
 それでも邸の書庫だけは、さすが代々の伯爵家と呼ぶべき規模だった。
 様々なジャンルの本が置いてある。私は邸に来た翌週から、貴族名鑑と国の法律、国内外の地理に関する書物を読み漁った。
 早々にこの国の貴族社会が、前世よりも後進的だと判断。
 となれば、次にこの国に訪れる大きな転機は、貴族女性の地位向上に違いないと確信した。
 この世界は、前世からすれば異世界。けれど世界が違っても、歴史は繰り返している。
 だって平民社会でも、私が生まれるずっと昔は、男尊女卑の色が濃かったと耳にしていた。
 そして今、平民たちの世風は男女平等。むしろ近所のおばさんたちの方が、旦那さんたちより強くなかった? 時々、旦那さんの首を絞めている、パワフルなおばさんを見たような?
 とにかく平民たちの間では、既に男尊女卑思想は廃れている。
 私が三歳まで住んでいたという隣国、ビーフェスカ国。さらにビーフェスカ国を挟んだ向こう側にある、シーケン国。
 私が住むエイゾナ国の、主要な貿易国となるふたつの国は、どちらも女性が活躍していると母から聞かされていた。
 エイゾナ国も、もしかすると子爵位までなら、平民と大差ない世風かもしれない。
 伯爵位以上の高位貴族は、主に国の中心地に居を構える。けれど下位貴族は、主に地方に居を構えているから。
「ふむ、となれば……攻略するのは本妻のリリス様ね」
 邸に五年もいれば、リリスの表向きの人柄はわかる。
 リリスはこの家に関して、完全に無関心。夫にも、血の繋がった息子にも、夫が外で作った子供である私にも、無関心。
 そしてリリスは隣国、ビーフェスカ国の元侯爵令嬢。口さがない使用人を懐柔して知ったのは、リリスと父親が貴族には珍しい恋愛結婚だったこと。
 しかし……私の実母であるレティシアは、父親との関係について、私が父親と初対面したすぐ後に、自分の言葉で真実を伝えてくれていた。
 母は父親に恋人や妻がいないと思って何年も交際し、私を妊娠。父親に妊娠を告げる前に、子供ができたからこそ、改めてこれまでの父親の発言が真実かどうか確かめようとした。こっそり父親の後をつけたのだ。
 母がまず驚いたのは、子爵令息だと聞いていた父親が伯爵令息だったこと。
 子爵位なら、平民との婚姻もあり得る。とはいえ貴族令息なら親の目を気にして、いつも邸の外で会うのも、わからなくはない。母はずっと、そう考えていたらしい。
 そして母は見た。妻らしき女性を罵倒する、恋人の醜悪な姿を。
 邸の外から見える庭での罵倒に、母は恋人が普段から人目を気にせず、妻を罵倒していると確信して、妊娠を告げぬまま父親の前からフェードアウト。
『お母さんは、私がお腹にいなかったらって、思わなかったの?』
『お母さんね、カエナがお腹にいるってわかった時、本当に嬉しかったの。絶対、生もうって思ったのよ。だから父親についてはカエナに申し訳ないと思っているけど、カエナがいなかったらなんて、一度も考えたこともなかったわ』
 母はそう言って笑っていた。私の母、最高。
 母から真実を聞かされているからこそ、私は気付いた。
 そして私の父親、はい、最低! 根っからの浮気性に違いない! 本当、最低!
 とまあ最低な父親は置いておくとして、問題はリリス。
 リリスの母国であるビーフェスカ国には、男尊女卑思想はなかったはず。
 こんな裏切り浮気夫なんて、リリスの方から離婚を切り出しても不思議じゃない。仮にもリリスの生家は、侯爵家。生家の力を借りれば、可能では?
 リリスの態度から、夫と息子への愛情があるようには見えない。息子には、少なからず情はあるかもしれないけれど……だったらなぜ?
 そう考えた時、前世で親友に言われた言葉を思い出す。立場が違うのだから、私にわかるはずがないと、たびたび言われた言葉を。
「わからなくても、あらゆる可能性を調べることはできるわ」
 そうして私は何カ月もの間、リリスの立場なら、と考えては調べ、いくつかの仮説を立てて、リリスに挑んだ。
 私は十三歳になっていた。