青バラの画家がわたしを守るために天国からやってきましたっ!?

 次の日の朝。
 早くに登校したわたしは、図画工作室に来ていた。
 睡蓮を見に来たんだ。モネさんの絵なら、見ても大丈夫だし。
 ずっとそわそわして落ち着かなかった。
 でも、この絵を見ると、ホッとするんだ。モネさん、本当に睡蓮が好きなんだな、って伝わるの。
 モネさんの好きが、つまってる。
 だからわたしは、この絵が好きなのかも。
 ゴッホさんの青のこととか、どうやって絵の具を手に入れようとか、ぜんぜん決まってない。
 不安でおしつぶされそう。
 ひとりで、どうやってモネさんを助けよう。
 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
 ガラッとドアが開けられた音に振り向くと、ツルハシ先生が立っていた。
 でも、なんだかおかしい。
 革グツで歩いている学校の先生なんて、聞いたコトがない。
「ツルハシ先生。学校の廊下を革グツで歩いちゃ、ダメなんじゃないですか?」
「いや、問題ないよ。きみ以外に、私のすがたは見えていないんだから」
「え……」
 今思えば、少しヘンだったのかもしれない。
 先生がわたし以外の絵本クラブの子たちと、話しているところを見たことがなかった。
 絵本クラブの活動も、よく思い出すと他の先生が仕切っていた気がする。
 いつも、気づいたらそばにいた、ツルハシ先生。
「あなたは、いったい……?」
 頭のなかで、ごちゃごちゃになっている。
 すると、ツルハシ先生は、唇のはしをつりあげた。
「本当の名をいうよ」
「え」
「はじめまして、宇野さくら。私の名前はパブロ・ピカソ。あなたのちからを、これから頂戴する者だ」
 ピカソさんの笑顔は、モネさんの笑顔とは、まったく違う種類の笑顔だった。
 思いやりも、やさしさも入っていない、まるで氷のような笑顔。
 ピカソさんの視線から、目が離せない。
 その時、一枚の絵が視界に飛びこんできた。
 それは、ポストカードだ。
 白黒で、パズルのような不思議なかたちの絵。
 これは、何を描いた絵なんだろう。わたしには、それすらわからない。
 むずかしい。それに、なんだか暗い雰囲気の絵だった。少し、怖い。
 ハッ、と考えを止めた。
 ピカソさんが、目を細めて、わたしにその絵を見せてきている。
「いけない。わたし、絵を……!」
 時、すでに遅し。世界がぐるん、と入れかわる。
 図画工作室から、あの青いバラが咲く、絵の世界へ。
 わたしは黒の地面に、足をついた。
 ツルハシ先生。いや、ピカソさんが青いバラのそばで、わたしを見おろしている。
「この絵は『ゲルニカ』。戦いを描いた絵だよ。怖い、と感じたようだね。さくら」
 パチパチと、拍手をするピカソさん。
「なんで、そんなことを」
「これでまた、ぼくの絵は生き続ける。ぼくの絵を見た人が増えるたびに、ぼくの絵はその人のなかで生き続ける。すてきなことじゃないか。ところで……」
 流れる冷水のような声で、ピカソさんはいった。
「モネの睡蓮は、いつ咲くのかな?」
 わたしは首にぶらさげたお守りに触れる。
「モネを、元のすがたに戻そうとしているだろう」
「それは……」
「さくら。きみは、これがほしいんじゃないかな」
 ピカソさんが、右手をそっと開く。
 手のひらの上に転がる、絵の具のチューブ。
「それって、まさか」
「フィンセントの、青の絵の具だ」
「でも、ほしい青は……」
「これだよ。フィンセントが、最愛の弟に子どもが生まれたことを祝して送った、大切な絵『花咲くアーモンドの木の枝』に使われたターコイズブルー」
 そうか。わたしは勝手に『ローヌ川の星月夜』に使われた青だと思いこんでいたけれど、そうじゃなかったんだ。
 ゴッホさんにとっても大切な一枚に使われた、思い出の青。
 それが、カギだったんだ。
 でもまさか、ピカソさんがゴッホさんの絵の具をくれるなんて、思ってもみなかった。
 ミューズさまの話を聞いたあとだったから、よけいに。
 実はいい人だったんだ。
 わたしは、嬉しさでいっぱいになった。
「ありがとうございます。ピカソさん」
 絵の具を受け取ろうと、手を伸ばす。
 すると、ピカソさんの手がにぎりこまれ、絵の具が取れなくなった。
 え? どういうこと?
「絵の具。ほしいんだろう」
「は、はい」
「じゃあ、きみのミューズのちからと交換しよう」
 一気に、ピカソさんへの信頼が崩れていく。
 そういうつもりだったんだ。
 一瞬でも信じたわたしが、ばかだった。
「いや」
「交換すれば、モネは助かるんだろう」
「そうだけど……」
「宇野さくら。きみに、神のちからなど、宝の持ちぐされだろう」
 そんなこと、わかってる。
 わたしが持っていたって、何の役にも立たないちからだよ。
「でも、やっちゃいけないことに使われるよりは、ましでしょ」
「きみが勝手に決めつけるのか? 私にとっては、とても大事なことだ」
 ピカソさんのいうとおりだ。
 わたしは、わたしの信じることをいっているだけ。
 それは、ピカソさんも同じ。
 ピカソさんは、絵が好きでしょうがないんだよね。
 人間の寿命だけでは、描き切れないものが、たくさんあったんだよ。
 だから、生まれ変わっても、自分でいたい。
 だけど……。
「この世から、芸術がなくなっちゃうんだよ! それでもいいの?」
「きみも、ミューズのたわごとを信じるのか」
 ドスッ、ドスッ。
 地面に何かが、突き刺さる。
 見ると、地面にグッサリと、ナイフが一本立っている。
「パレットナイフ。パレットのそうじや、キャンバスの下塗りなどに使う。美しい画材道具だ」
 ピカソさんの手に、新たなナイフがかまえられた。
「これはペンチングナイフ。フラットな面で、描いたところを残さず塗り……」
 ピカソさんはそのナイフを横にふる。
そのダンスのような動きは、次の行動がまるで予測できなかった。
「エッジのきいたところで、線もひける」
 ズドドドドッ。
 ペンチングナイフは次々と、ダーツのように地面に突き刺さっていく。
「ちょっと、聞いてました? わたしの話!」
「聞いていたよ」
「じゃあ、もうわかったでしょ? こんなことは止めてください」
「信じられないんだ」
 手に持っていたナイフを、ピカソさんはバラバラと地面に落とした。
「自分が、こんなふうになってしまったのが」
 ピカソさんは、ぽつぽつとしゃべりはじめる。
「天国は、とても美しい。天国へ来た当初の私は、スケッチの毎日だった。人間界にいたころよりも、多くの風景を描いた……」
 ピカソさん。生きていたころも、毎日絵を描いていたんだもんね。
ギネスブックにも載るほどに。
「絵を描いて絵を描いて、わたしは待ちつづけた。生まれ変われるときを。しかし、まったくそんな話はこない。聞けば、人間界では少子化で、天国では多くのタマシイが生まれかわる時を順番待ちしているというじゃあないか」
 ピカソさんは、くやしそうに手をにぎりしめてる。
 声もぶるぶると震えていた。
「もう天国の風景は描きつくした。私はもっと、違う絵が描きたいんだ。心の底からにじみでるような、深い思いを。美しいだけの天国では、そういう絵は描けないんだ。心が穏やかなままでは、すべての人の心をうつようなものは永遠に描けないんだ!」
 大粒の涙をこぼしながら、ピカソさんは絵の具を持っていないほうの手で、わたしのほほをつつみこんだ。
「さくら。きみは、私のことを理解してくれるよね……?」
 平凡なわたしでは、ピカソさんのいっていることは、わからないよ。
 でも、そんなことはいえない。
 わたしが考えていることは、ふたつだけ。
 芸術を救うこと。そして、モネさんを助けること。
「さあ、さくら。この絵の具と引き換えに、ミューズのちからをよこすんだ」
「ごめんなさい。いやです」
 わたしは、こっそりと隠し持っていたものを、取りだした。
「さくら。それは……!」
 ピカソさんが、目を見開く。
 わたしはキャンバススクレイパーをにぎりしめ、ゲルニカのまっ黒の地面をガッと削いだ。
 ピカソさんは、明らかに動揺してる。
 まさか、わたしがこんなことをするなんて、思ってもみなかったんだと思う。
 図画工作室に入ったとき、ふと目に入ったんだ。
 まさかと思って、持って来ておいてよかった。
 ピカソさんが、パレットナイフをかまえた。
 何か、他の絵を出そうとしてるんだ。
「そんなこと、させないっ!」
 わたしはモネさんのヒラハケを出し、一線を描いた。
「お願い! 出て!」
 輝く光の線。そこから、一羽のかささぎが飛び出し、ピカソさんにおそいかかった。
 ピカソさんの手から、ターコイズブルーのチューブがこぼれ落ちた。
 わたしはそれを拾いあげ、お守りとともに強くにぎりしめた。
「モネさん!」
 お守りぶくろが、光る。
 なかに入っていた睡蓮のタネを取りだし、ターコイズブルーの絵の具をたらした。
 すると、一気に芽が出た。
 それは、どんどん大きくなり、巨大化する。
 ふっくらとしたつぼみが、ぱかりと咲いていく。
 咲いた睡蓮の真ん中で、男の人が眠っていた。
 真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。
 鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
 コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
 今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士。
「モネさん!」
 わたしが呼ぶと、その人はゆっくりと目を覚ました。
「ああ、さくらさん……?」
 モネさんは、ねむけまなこを猫のように細めた。
 そのとたん、一気に色んな感情がわきあがってくる。
 モネさんがいなくて、とっても不安だったし、とってもさみしかった。
 少しのあいだのはずなのに、とても長く離れていたみたいで。
 わたしは、モネさんの胸に飛びこんで、ぎゅうと抱きつく。
「もー! ひとりで大変だったんだからね!」
「すみません……。助けてくださって、ありがとうございます。さくらさん」
「どういたしまして!」
 にじんだ涙をモネさんにぬぐわれる。
 さっそく、フランス紳士ムーブをされて、わたしの顔は真っ赤になっちゃった。
「油断したよ。作戦、失敗か」
 ピカソさんが、くやしそうにくちびるを噛みしめている。
「でも、まだまだゲルニカの世界は生きている。ここは私の世界だ。削ぎ落された部分も修復されている。ゲルニカと戦え、クロード。宇野さくらを守りながらね。また睡蓮の種にならないよう、せいぜいがんばるがいいさ」
「ふん。さくらさんは成長している。神の奇跡も三つ以上起こせるようになっているようだしね。そろそろ、悪だくみはおしまいの時間なんじゃないのかな、パブロ?」
 優雅にあごに手を添え、ピカソさんを見下すようにいう、モネさん。
 なんだか、いつもの優しいモネさんとフンイキが違う。
 寝起きだからかな。
「モネ。今の嫌味は、光の画家にふさわしくなかったのではないかな」
「……何だって」
「さくらが戸惑っているよ。訂正したほうがいいんじゃないのかな」
 モネさんが、不安そうにわたしを見つめている。
 どうしたんだろう。
「私は二十世紀最大の画家として、いつだってファンの期待に応えてきた。死してなお、作品を作り続けている。これからも、止まることはないだろう。さくらはきみのファンなんだろう。光の画家として、ファンの期待には応えるものだ。そうだろう、クロード」
 ピカソさんの言葉に、モネさんが戸惑っているのがわかる。
 モネさんが、苦しそうだ。
「さくら。きみは、クロードをどういう画家だと思っている? あふれる光が美しく、見るものの心をあたため、華やがせる。心が落ちこんでいても、クロードの絵を見ると、励まされる。そんな絵を描く画家だと思っているんじゃないかな?」
「え、それは……」
 もちろん、そう思っていた。
 図画工作室で見るモネさんの睡蓮は、これまで見たどんな絵のなかでも一番に好きだよ。
「だが、きみが信じるクロードは、生まれ変わろうとしている。クロード・モネを捨て、新たな人生を歩んでもいいと思っているんだ。きみが好きな画家は、きみが好きな絵を捨てようとしているんだ。許していいのかな?」
 ピカソさんは、甘くねっとりとした砂糖菓子のような声で、わたしに問いかける。
 モネさんは、無表情だった。
 何を考えているのか、わからない。
 でも、わたしの答えは決まっていた。
「わたしは、モネさんの絵が好きだよ。光じゃなくても」
 すると、ピカソさんは不満げに息をついた。
「クロードは光の画家だ。絵には決して、黒色を使わない。自分から、闇を一切排除する徹底ぶり。それほどに光に固執した。自分で自分を光で縛っていったんだ。フランス紳士? 大変面白い冗談だ。本当の彼は、自分のことしか考えていないわがままで傲慢な男さ」
 モネさんを見あげると、諦めたような顔をして、笑っていた。
「わがままで傲慢。その通りです。本当のぼくは、フランス紳士なんかじゃない。光という肩書きにとらわれた、哀れな画家です。さくらさんを守るだなんて、かっこうをつけておいて、結局あなたに助けられている。情けない男ですよ」
「情けなくなんかない!」
 わたしが叫ぶと、モネさんが目を丸くする。
「モネさん。忘れてないよね?」
「え?」
「あー! 忘れてる! わたしと絵を練習するって、いってくれたじゃん」
「あ……」
 モネさんの目に、きらりと光るものが見えた。
 わたしは、「ふふっ」と口もとをおさえる。
「モネさんがどんな人かなんて、関係ない。だって、モネさんの絵に描かれているのは、モネさんの心だもん。わたし、好きだから、わかっちゃうんだ!」
 すると、わたしの頭に、ポンと大きな手が乗せられた。
「こんなに優しい評論家は、初めてです。ぼくの専属にしたいくらいですよ」
「評論なんてしたっけ、わたし……」
 ぽんぽんと頭をなでられる。
 すると、ぴこんとアイデアがひらめいた。
 ピカソさんが、つまらなさそうに何かを考えている。
 たぶん、わたしからどうやってミューズさまのちからを奪おうかと思っているんだ。
「ピカソさん」
「……なんだ」
 にらむような目つきで、顔をあげるピカソさん。
「さっき、人間界じゃないと、いい絵は描けないっていってたよね」
 ピカソさんは、しぶい顔で、だまっている。
「あのさ、だったらいっそのこと天国に帰らなければいいんじゃないの?」
「は?」
「人間界に住めばいいんだよ」
 すごくいいアイデアじゃない? はっきりいって、ノーベル賞もの!
 わたしは真剣にそう思ったんだけど、ピカソさんに「はあ」と重苦しいため息をつかれちゃった。
「宇野さくら。それを人間界では幽霊というんだ」
「あっ」
「観察官のヘルメスに、すぐに連れもどされてしまうだろうな」
「そんなの、ヘルメスさんとかいう人に説明してさ。納得してもらえばいいんだよ」
 ピカソさんは、かたくなに首をふる。
「そもそも、わたしはもう罪をおかしたタマシイだ。ミューズに不敬を働き、きみを襲った。わたしには、道は一本しかない。きみから、神のちからを奪い、目的を果たす」
「一本なんかじゃないよ!」
 わたしは、まっすぐにピカソさんを見つめた。
「いっしょに謝りに行くよ」
「ばかな」
あざ笑うかのようなピカソさんに、モネさんが続いた。
「さくら、それは無茶です」
「なんで? わたし、本気だよ!」
「謝って許されるのは、子どものあいだだけなのです。ぼくたちは、もうおとなだ。謝って許されるほど、神という存在は、甘いものではないのです」
モネさんはそういうけれど、わたしはかまわずピカソさんの手をにぎった。
「絵を描きたいんでしょ! 本気じゃないのっ?」
 ピカソさんは、わたしの手を振りほどかなかった。
 そして、小さな声でつぶやいた。
「どうなっても、知らないぞ」
 わたしは、大きくうなずいた。
「仕方ありません。ぼくも行きます。きみを守るのが、役目ですから」
 モネさんが、わたしのもう片方の手を取った。
 これで、ぜったい大丈夫。
 だってわたしは、未熟だから使えないっていわれていた、四つ目の奇跡を起こしたんだもん。
 以前のわたしよりも、成長しているんだよ。
 自分を、みんなを信じよう。そうすれば、道は開けるよ。
 でも、ひとつ重大なことをことを忘れていたみたい。
「どうやって、ミューズさまのところへ行けばいいんだろう?」
 すると、モネさんが「ぷっ」と吹き出した。
「さくらさん。あなたが持っているちからは、どんなちからでしたっけ」
「奇跡のちから?」
「そう。天国へ行くことぐらい、なんの造作もありませんよ」
 モネさんはきれいなウインクをして、ほほえんだ。



 天国への行きかたは、本当に簡単だった。
「ミューズさま。天国に連れて行ってください」
 そうつぶやくだけで、一瞬でわたしの視界は、見たこともないような美しい花畑が広がった。
 花びらが舞い、金色の蝶がひらひらと飛んでいる。
 ぬけるような青空には、大きな虹がかかり、遠くに真っ白な神殿がいくつか建っていた。
「ここが、天国。ミューズさまがわたしの声を聞いて、ここに連れてきてくれたんだ」
 つぶやくようにいうと、隣に立っていたモネさんが「ええ」と返してくれた。
「さくらさんとミューズさまは、神のちからでつながっていますから」
 後ろには、ピカソさんもいる。
 どこかつまらなさそうに、天国の風景をながめている。
「やはり、ここはわたしの居場所じゃない」
 誰にいうでもなく、ピカソさんはそういった。
「ミューズさまはどこにいるんだろう」
「牢屋ですね。天界裁判所の地下です」
 モネさんが案内してくれる。
 せっかく天国に来たのに、まさかまっさきに牢屋に行くなんてね。
 ミューズさま、やっと直接会える。
 いったい、どんな人なんだろう。
 


 天国の牢屋の前で、白いパーカーを着た小がらな男の人が厳しい顔をして立っていた。
 この人が、ヘルメスさんというかたらしい。
「モネ。いったい、なんの事態ですか。これは」
「ミューズさまに面会の機会を頂きたいのです。パブロ・ピカソのほうから話があるそうなので」
「ピカソッ?」
 わたしたちの後ろに立っているピカソさんを確認して、ヘルメスさんは一気にきびしい顔になる。
「そんなことを許すはずがないでしょう。観察官として、この場ですぐ捕らさせていただきます」
ポケットから、スマホのようなものを取りだして(天国にもあるんだ)、どこかに連絡する気だ。
「ま、待ってください。わたし、ピカソさんにあることを提案したんです。そうしたら、きちんと話を聞いてくれました。まずはミューズさまのところへ行かせてください」
「宇野さくら! 人間のような下位互換の存在で、このおれに口をきこうなど……はじめにひざをつき、こうべを垂れ、ヘルメスさま話を聞いて下さい、と確認してから放しはじめ……」
 ドカーンッ
 突然の爆音。ヘルメスさんがしゃべり終わらないうちに、奥の牢屋はこっぱみじんに吹っ飛んでいた。
 ヘルメスさんは、ぽかーんと口を開けながら、ゆっくりと後ろを振り返る。
 舞いあがった砂ぼこりのなか、うっすらとした影が浮かびあがった。
 そこから、身長がすらりと高い、女の人が現れる。
 ウェーブがかった金色の長い髪、緑色のひとみ。
 ニコニコとした笑顔を浮かべ、真っ白なワンピースに、カラフルな宝石がついた黄金のアクセサリーをたくさんつけている。
 まさか、この人がミューズさまっ!
 あの時は、ほとんどが光でよく見えなかったけれど、実際に見てみたら、びっくり。
 なんてきれいな人なんだろう。
 この人が、芸術の神・ミューズさまなんだ。
「ヘルメース。さくらっちに対して、ひどいんじゃないのお?」
 ミューズさまがヘルメスさんの顔をのぞきこむ。
 すると、ヘルメスさまは熟したトマトみたいに顔を真っ赤にして、「あ、いえ、あの」ともごもごいっている。
 ヘルメスさん。ミューズさまに弱いんだ。
「さくらっち。ごめんねえ。うちの観察官がつまんないやつでー」
「あ、いえ。そんなそんな」
 モネさんとピカソさんから、神さまはそんなに甘くないっていってたから、覚悟はしてたんだ。
 だから、ヘルメスさんのいったことなんて、気にしてないよ。
 すると、顔をてかてかにしながら、ヘルメスさんが叫んだ。
「みゅ、ミューズさま! 牢屋から勝手に出ては、異端者として、天界裁判にかけられてしまいますぞ!」
「え! さ、裁判っ?」
 テレビや動画とかでしか聞かないような、その重々しい響き。
 そうか。牢屋から勝手に出たってことは、脱獄したってことになっちゃうのか。
「ミューズさま。戻ったほうがいいんじゃ」
「でももう、あてぃしのちからで、牢屋なんて粉々だよ。本当は、こんな牢屋に入れられたって、すぐに出られたんだけどね。今日まで大人しく入っててあげたんだから、感謝してほしいよ」
 あいかわらず、フリーダムな女神さまなんだな……。
「あてぃしのことは心配しないで。それよりも、ピカソちゃんを連れてきてくれて、ありがとね。さくらっち、モネっち」
 とってもきれいな、ミューズさまのほほえみ。
 ピカソさんが、ミューズさまの前に進み出て、ひざまずいた。
 あの、ピカソさんが。
「宇野さくらにいわれ、気づかされました。だから、お許しをいただきたく、ここに参上しました」
 ミューズさまは、じっくりとピカソさんの言葉に耳を傾けている。
 わたしは心臓がバクバクいいっぱなしだ。
 モネさんは黙って、ヘルメスさんは不服そうにしながら、目の前のゆくえを見届けようとしていた。
「もう、私を私のまま、生まれ変わらせろとはいいません。私を幽霊として、人間界にいさせてください」
ミューズさまの目が、わずかに見開かれた。
そして、ヘルメスさんの「はああっ?」という叫びが、地下に響き渡る。
「なんと不敬な! 天国にいさせてもらった身分の分際で、幽霊になりたいなどとっ。せっかく生まれ変わらせてもらえるというのに!」
「大量の順番待ちをさせている観察官側の言い分など、聞く耳もたん。私は、女神ミューズと話がしたいんだ」
 ピカソさんの早口に、ヘルメスさんの勢いがおとろえた。
「女神ミューズ。数々の無礼、申し訳なかった。しかし、私には私なりの主張があった。私は、私自身の芸術を愛している。私は私でい続けられる方法があるのなら、そちらを取る。それがどんな方法であってもだ」
 ピカソさんは、熱い視線でミューズさまを見あげている。
 芸術のことがほとんどわからないわたしでも、ピカソさんの思い、伝わってくる。
「ミューズさま。この男は、ルドンやゴッホまでたぶらかし、おのれの欲望を満たそうとしました。宇野さくらやモネまで危険にさらし、のうのうとこんなことをいっているのですよ。許されますか? いいや、許されない! 今すぐ、天界裁判の開廷を!」
 ヘルメスさんの主張に、わたしはあせった。
 たしかに、モネさんは大変な目にあったよ。
 タマシイが消えそうになりかけた。
 でも、わたしは大変な目にあったけど、許さないなんて思わない。
 ピカソさんのことを危険な人だなんて、思わない。
「見てください」
 わたしは、ピカソさんの手をつかんだ。
 そして、ミューズさまの前に突き出す。 
「絵が、好きで好きで仕方ない。そんな手です」
 絵の具のまみれの手。
 洗っても洗っても、汚れてるんだ。
 昨日、ついた絵の具が取り切れないうちに、また絵の具がつくんだよね。
 いつかに、油絵の具って、かなりがっつり洗わないと落ちないって、ゴッホさんがいってたのを覚えてる。
「ピカソさんのこと、わたしは許します」
「宇野さくら、人間ごときの許しなど、この男を許す理由にはならん。この男を裁くのは、神だ。なぜならこの男が犯したのは神をも恐れぬ不敬罪だか……」
 ポンッ ポンッ ポンッ
 突然、ヘルメスさんのからだが、カラフルな花に埋もれていく。 
 アネモネ、コスモス、チューリップ。
 ヒマワリ、ザクロ、アマリリス。
 ポンッ ポンッ ポンッ
 音が鳴るたび、ヘルメスさんはふわりふわり、と花の海へと沈んでいく。
「ミューズさまっ? 何をなさるのですか!」
「ちょっと、うるさすぎー。ピカソちゃんの話が聞こえないから、そこで眠っててくれる?」
「ばかなっ。おれの意見を聞き流すというのですか!」
「だってさあ」
 ミューズさまが、ひまわりのような華やかさで、にっこりと笑う。
「あてぃしがちからを与えて、りっぱな芸術家にしたピカソちゃんを、ヘルメスがいじめてるんだもん。親として、許しておけないよねえ」
「そんな……!」
 ポポポンッ
 ヘルメスさんのすがたは、花に隠れて、完全に見えなくなってしまった。
 わたしたちのなかに、おかしな花のオブジェが生まれた。
「ヘルメスは、花の香りにつつまれて、いい夢を見ているはずだよ。心配しないでね。それよりも、さくらっち。すごいじゃん! あのヘルメスにたんかを切っちゃってさ。あてぃし、まるで天界裁判を見ているようだったよお」
「いや、そんな、大げさなっ」
すると、モネさんも、わたしの肩にそっと手を置いた。
「すてきでしたよ。さくらさん」
 モネさんにいわれると、今度はわたしが、トマトみたいな顔になっちゃうよ。
 わたし、ただただ必死で、あんなこといっちゃったけど。
 ピカソさんは……どう思ったかな。よけいなお世話しちゃってたかな。
 はた、とピカソさんと目が合うと、ぷいっと視線をそらされちゃった。
 や、やっぱりおせっかいだったのかな、と思ったら、
「きみのおかげで、いけ好かない観察官が花のオブジェになった。その……」
 そっぽを向いたまま、ピカソさんは照れたようにいう。
「宇野さくら。さすが、神に選ばれるだけの人間だ。あらためて、称賛するよ」
 なんだか、よくわからないけれど、褒められたっぽい。
 喜んでいい、んだよね……?
「さくらっちってば、ピカソちゃんといい感じじゃん」
 このこの、とミューズさまにひじで突かれる、わたし。
 あいかわらず、距離が近い女神さまだなあ。
「ピカソちゃん」
 ミューズさまの表情が、ふっ、と落ち着く。
 細めた目に金色のまつ毛がおりて、薄いくちびるにほほえみが生まれる。
 ああ、やっぱりこのかたは女神さまなんだなあ。
「自分のカラのなかにこもってこそ、面白い芸術は生まれてくる。〝芸術は日々の生活のほこりを、タマシイから洗い流してくれる〟。ピカソちゃん、これはきみの言葉だったよね」
 ピカソさんは、「はい」とうなずいた。
 ミューズさまが自分の胸の前で、両手をきゅ、とこすりあわせた。
 そして、ゆっくりと花咲くように手を開いていく。
 すると、青いバラの花束がぶわりと現れた。
 そのなかの一本を、ミューズさまはピカソさんに差し出した。
「ピカソちゃん。そして、ルドンちゃん、ゴッホちゃん。天国にいる、すべての芸術家たちにもう一度、このバラを授けるよ。あてぃしからの、愛のしるしに。自由な芸術をこれからも創造できるよう、願いをこめて」
「ミューズさま、それじゃあ……」
 ピカソさんが、ゆっくりとそれを受け取る。
 目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「うん。ピカソちゃん、人間界でのタマシイ活動、応援してるよ。観察官たちには、あてぃしのほうから、うまいこといっておくからさー。ルドンちゃんも、ゴッホちゃんにも、伝えるといいよ」
「ありがとうございます……」
 祈るように青いバラを掲げ、ピカソさんはミューズさまに頭をさげた。
「お礼は、宇野さくらっちにね。この子のおかげで、きみは芸術を続けられるんだよ。あてぃしが選んだ女の子だよ! さっすが、芸術の女神・ミューズ!」
 ふふん、と鼻高々にミューズさまはいった。
 ピカソさんは苦笑しながらも、わたしに向き合った。
「そうだな。改めて、きみのことを称賛させてくれ。宇野さくら。きみはすばらしい」
 何度もいわれると照れるなあ。
 すると、モネさんがわたしとピカソさんのあいだに入ってきた。
「さあ、これから忙しくなりますよ。さくらさん」
「え。どうして?」
「パブロたちに、いろいろ教えないといけないからですよ。幽霊としてのルールをね」
「そんなものあるの?」
「幽霊のことを、見えるものもいるのですよ?」
「あ!」
「さくらさんは、〝幽霊となって創作活動を続ければいい〟と、パブロに提案しました。ならば、最後まで責任を持たねばなりません。芸術の神のちからを持つもの、人間として」



 その後、わたしはモネさんといっしょに天国図書館にいた。
 お城のような図書館は、天井まで吹き抜けになっている。
 階段が壁にそうようにぐるりと回り、上に向かってどこまでも続いていくようだ。
 壁や通路の本棚にはびっしりと、本がつまっている。
 わたしが見ても、なんて書かれているのかはわからない本がほとんどだ。
 階段を登り、二階まできたところで、日本語の本も見つけた。
 ええと、『ももたろう』。子ども向けの本みたいだ。
「さくらさん。その本が気になりますか?」
 モネさんが、かがんで本の背表紙に指をかけた。
「え、ううん。そういうわけじゃないんだけど」
「おや、そうですか」
 本棚から手を引くモネさんの後ろで、ぎゃあぎゃあと誰かがさわいでいる。
「幽霊になるなんて、フィンセントにはムリだろう。 キサマは、臆病者だからなあ」
「オディロンこそ、他の幽霊を見てビビるんじゃないのお?」
「ちょっとふたりとも、なにケンカして……」
 ふわり。図書館の窓から、ピンク色の花びらが舞いこんでくる。
 そういえば、図書館の庭にも桜が咲いていたっけ。
 人間界といっしょで、天国の景色も春めいていたな。
花びらは、わたしたちのあいだに、ひらり、ひらりと飛んできて。
 わたしの肩に、ちょん、と乗った。
 これは、桜の花びら?
「宇野さくら、そこを動くな!」
「え?」
 ルドンさんが、そばにあったスケッチブックと鉛筆を手に取った。
「いいアングルに、いいシチュエーションだ! これは絵になる!」
 ゴッホさんの目の色が変わっている。
 手には、ルドンさんと同じ。スケッチブック、そして、鉛筆。
「「動くなよ!」」
 この二人のモデルなんて、無理だよ。
 こだわり強そうだし……。
 それに、二人とも。
 今から、予定あるんだけど。
 外で、ピカソさんが待ってるんだけど……。
「今ですよ」 
 モネさんが、耳打ちをしてきた。
「二人の視線がスケッチブックに向いているうちに、出ましょう。パブロに叱ってもらえばいいですよ」
「そ、そうだね」
 わたしとモネさんは、コッソリと二人の前から逃げ出した。
 階段を降りている途中、画集が並んだ棚を見つけた。
「ヨハネス・フェルメール、葛飾北斎、東洲斎写楽、アンディ・ウォーホル……」
 モネさんたち以外にも、いろんな芸術家さんがいるんだなあ。当然だけど。
 いつか、会えたりしないかな。
 その一冊を手に取る。
『クロード・モネ』
「ふふ」
 モネさんが笑う。
「さくらさん。その画家が気になりますか?」
「うん。かささぎも、印象・日の出も、きちんと見たことがなかったし……」
本人のいる前で、作品集を開くことができるだなんて、なんだか贅沢。
ぱら、とページをめくろうとした時、
「宇野さくら! どこに行ったあ!」
「モデルが……ぼくのモデルがいなくなった……!」
 あらら、まずい。
 わたしは、モネさんの画集を持って走り出した。
 これからの未来のことを考えながら、今ある景色のなかへと飛びこむように。
 わくわくする気持ちで、キャンバスをいろどるように。


おわり