学校から帰ってきたわたしは、ランドセルからツルハシ先生から渡された本を取りだした。
とにかく分厚くて、重たかった。肩がちぎれるかと思ったよ。
「さくらさん、この本は?」
わたしの持っている、黄色の本をのぞきこんでくる、モネさん。
タマシイだけだから、足音もないし、気配もない。
これだけだと、なんだかわたし、幽霊にとりつかれているみたい?
「今日、ツルハシ先生にこれを渡されたの」
「ツルハシって、誰ですか?」
「絵本クラブの先生だよ」
本の表紙を見せると、モネさんは嬉しそうに「ああ」と声をあげた。
「オランダの画家。フィンセント・ファン・ゴッホの画集ですよ。二十世紀の美術に大きな影響をあたえた、すごい画家なんですよ。フィンセントが描いた『ひまわり』は、世界的にも有名な絵なんです」
「あの、ひまわりの絵がそうなんだ」
学校でパラパラとページをめくっていたときに見た、ひまわりの絵。
たしかに、すごい迫力だった。ただの花の絵じゃないってかんじ。
「ぼくも天国図書館で、よくフィンセントの画集を見ましたよ。ひまわりや小麦畑、糸杉などのモチーフをよく描いていたみたいですね」
「モチーフって?」
「フランス語では、題材や動機という意味で使われます。美術的にいうと、〝絵でいいたいこと〟ですかね」
「モネさんの絵とは、ぜんぜん違うフンイキ」
「花は、見る人、描く人によって、まったく姿を変えますから」
なんだか、むずかしい話になってきた。
花は、花じゃないのかな。
目で見ても、画面越しに見ても、図鑑で見ても、花はかたちを変えないけれど。
「どういうこと?」
モネさんは「そうですねえ」とアゴに手を添えながら、教えてくれる。
「さくらさんはこのひまわりの絵、ぼくの睡蓮と、どこが違うと思いますか?」
どこがって、ぜんぜん違うよ。
「モネさんの花は、明るくってやわらかいフンイキ。優しいかんじもするし、花がきらきらしてる。このひまわりの絵は、力強くて、パワーにあふれてる。絵具も、ギュギュって塗られていて、色が目に飛びこんでくる感じがあるよ」
「その通り」
「え? 正解?」
「いいえ。でも、正解ですよ」
どういうこと?
「絵を見た感想は、人それぞれ。別の人に、今の質問と同じことを問えば、まったく違う回答が返ってくるかもしれません。花だけじゃなく、人も風景も動物も、描く人によってすがたを変える。そういうことですよ」
そういうか。やっと、意味がわかったよ。
たしかに、友達に「面白いよ」と貸したマンガも「うーん。イマイチだった」って返ってくるときもあるよね。
わたしは「そっかあ」って、ざんねんな気持ちになったこともあるけれど、感じ方は人それぞれ。
花は見る人によって、すがたを変える。
そういえば、ルドンくんも、モネさんとは、ぜんぜん違う絵の世界観だったな。
「色んな絵があるんだ……」
ニョキリ。絵のなかのひまわりのクキが、一瞬、伸びたような気がした。
「ん?」
わたしは目をまばたきしたり、こすったりしてみる。
今、なんか絵がヘンな気がしたけど。
「気のせい?」
とたん、景色がぐるんと一回転。
次の瞬間には、わたしはまた違う場所にいた。
わたしは、うんざりとばかりに「もー」と鳴いた。
「また、ルドンくんの絵のなかに入ったの?」
あたりを見渡すけれど、ルドンくんが描く絵とは、なんだか違うフンイキ。
黄色の絵の具が塗り重ねられたような、風変わりな景色。
ギンナン色の地面が、地平線のかなたまで続いている。
「これは、岩……いや、花びんですね」
後ろで、モネさんがいった。
ふり返ると、クリーム色と黄色のバイカラーがおしゃれな大きな花びんがそびえ立っていた。
ウネウネとうねっているひまわりが、何本も生けられている。
そのなかに、ちょこんと青いバラが一本、混じっていた。
「この絵には、青いバラは生けられていないはずですが」
「ひまわりってことは、もしかしてこの世界って……」
「ええ。ここは間違いなく、フィンセントが描いた絵のなかのようですね」
「どうしてまた、絵のなかに入っちゃったんだろう?」
「どうやら、さくらさんが〝芸術家の作品を目にし、特別な感情をもったとき、その作品に奇跡が起こる〟ようですね。だから、彼らはさくらさんにやたらと絵を見せてくるのでしょう。オディロンのときも、昇降口に絵が飾ってあったでしょう」
そういえば、昇降口の絵を見たとき、「こんなところに絵なんか飾ってあったかな」って思ったんだっけ。
ルドンくんは、わたしに神の奇跡を起こさせるために、あそこに絵を飾ったんだ。
ルドンくんの絵を見たときも、ゴッホさんの絵を見たとき、たしかに色んな感情がわきあがったよ。でも……。
「号泣するほど感動したわけでもないのに、こんなすごい奇跡が起こっちゃうなんてえ」
奇跡のムダづかいじゃない?
「絵を見て、感動するというのは、それだけ素晴らしいことなのですよ? きみが愛する、ぼくの絵のように」
わたしの胸が、きゅんと高鳴る。
フランス紳士って、こういうことを平気でいうのかな。
心臓がいくつあっても、足りないよ。
「わ、わたしも、練習すれば、誰かを感動させられるような絵を描けるのかなあ」
「ぼくといっしょに練習しましょう」
「いいの?」
「もちろん」
ふわりと、あたたかな笑顔を浮かべるモネさん。
それは、モネさんの絵から感じた、光のようなぬくもりで。
こんな先生に絵を教えてもらえるなら百人力だと思った。
モネさんは、鮮やかな青のジャケットのふところから、ヒラハケを取りだした。
「さくらさん。ぼくに、ちからを貸してくださいませんか?」
「うん」
それを、空中でシュっと横にふる。
すると、描いた線がきらきらと輝き、光の線となる。
そこから、一羽の黒い鳥が、翼を広げて飛び出してきた。
カラスに似ているが、おなかの辺りは白い。
広げた翼は、扇子みたいにきれいだ。
「ぼくが若いころに描いた代表作の一つ『かささぎ』です。雪におおわれた田舎の冬景色を描きました。ノルマンディー海岸のエルタトで描いたものですよ」
ノルマンディーもエルタトもよくわからないけれど、モネさんが描いたものなら、見てみたいな。
あとで、画集で探してみよう。
かささぎが、モネさんの肩にふわりと停まった。
「スズメ目カラス科。鳥類のなかでも大きな脳を持ち、そしてほ乳類以外で初めて、鏡に映るすがたを〝自分〟だと理解した鳥です。とても賢いんですよ」
カササギは、空に届きそうな大きさの花ビンをジーッと見つめている。
「このかささぎはね。特別なんですよ。さまざまな絵の具のにおいを教えこんであります」
モネさんは、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「それって、どういうこと?」
「フィンセントの絵は、絵の具をたくさん使う描き方をします。なかでも、この二種類のホワイトを多く使っているようですね」
モネさんが出した二本の絵の具のチューブには、ジンクホワイトとシルバーホワイトと書かれている。
「この絵の具のにおいが一番集中しているところ。そこに、彼はいます。何しろ、画家は一日中、絵の具といっしょにいるのですから」
かささぎは大きな翼を広げると、ばささっと飛び立った。
あっというまに黒い点になったかと思うと、ある場所でぐるぐると回り出す。
「かささぎが、彼を見つけたようだね」
「うん!」
わたしたちは、かささぎが飛び回っているところへと急いだ。
かささぎのとこへ追いつくと、そこにも花びんがあって、うねうねとしたひまわりが咲いていた。
かささぎが、カチカチと鳴きながら、ひまわりのなかで暴れてる。
「ワアーーーッ! やめろお! なにするんだよう!」
大変だよ。誰かが、かささぎに襲われているみたい。
花びんの後ろから、男の子が飛びだして来た。
はちみつ色の天然パーマをふり乱し、涙目になっている。
新緑色の作業服に重ねた、ガーデニングエプロンには、たくさんの絵筆や絵の具が入れられている。
けれど、かささぎに追いかけられているからか、そこかしこに、ぽろぽろと絵の具や絵筆を落としてしまっているみたい。
「おい、お前の鳥なんだろ! どうにかしろお!」
ゴッホさんが、必死で叫ぶ。
「おかしいですね。ぼくのかささぎは、とても賢いので、誰かを突くなんてことはしないはずですが」
ゴッホさんは、おすもうさんにハリ手でもされたかのようなリアクションで、ゴロゴロと地面を転がっている。
しかし、かささぎはゴッホさんの近くを飛んでいるだけで、攻撃しているようには見えない。
「かささぎ、ゴッホさんに何かしたのかな。ケガをしているようには見えないけど」
「面倒くさそうな人かもしれませんねえ」
モネさんはおだやかにそういうと、かささぎを指笛で呼びもどした。
「ありがとう。もどりたまえ」
そっと、ヒラハケで体をなぜると、かささぎのすがたは霧のように消えてしまった。
ゴッホさんが涙でぐしょぐしょの顔を、袖でぐいぐいとぬぐっている。
かささぎがいなくなって、安心したのかな。よかった。
黒のショートブーツをはいているからか、よろよろと歩きにくそうにしている、ゴッホさん。
すると、モネさんがいつのも調子で演説をはじめた。
「フィンセント。ヒールは男女問わず、美意識の象徴といわれるものです。ヒールの練習は、人知れずするもの。ゆえに、そのようなすがたは人前で見せるものではありません」
「モネさんってば、そんなふうにいわなくても……ゴッホさんの絵のこと、ほめてたじゃん」
「ぼくは美しいものは、手ばなしで称賛します。みにくいものには、伸びしろもこみで、厳しく。それが優しさというもの」
そういうものなのかな。
いっていることはわからなくもないけれど。
ゴッホさん、モネさんのいいたいこと、わかってくれたかな。
「許さない……」
「え?」
ゴッホさんが、ものすごい顔で、わたしたちをにらんでいる。
これは、怒ってる……よね。
ゴッホさんは、目じりに涙をじんわりとため、低い声で叫んだ。
「よくも、よくもよくもよくも! ぼくに! 怖い思いをさせたなあーっ!」
「え、そこを怒ってるの?」
ついツッコんじゃったけれど、ゴッホさんの耳には届いていないみたい。
「宇野さくら! ピカソさまにお前を連れて来いといわれていたけれど、もうそんなことどうでもいいっ!」
ゴッホさんが人差し指で、空を指した。
すると、花びんのひまわりたちが、いっせいにピンッと、姿勢を正す。
ひまわりの花が、まるで扇風機のように、ぎゅるぎゅると回りだした。
「やっつけてやる! あんたたち、みんなっ!」
いきおいよく回っていたひまわりの花びらが一枚はずれ、わたし目がけて、ビュンっと飛んできた。
わたしは反射的に、ぎゅ、と目をつむる。
キインッ、という何かをはじき返した音が、耳に響いた。
おそるおそる目を開けると、モネさんがヒラハケで花びらを打ち落としてくれていた。
「フィンセント特製の、絵の具で塗り固めた、鉛製のひまわりですね。フィンセントの絵は、その描き方により、厚みがあり、かたくて丈夫。攻撃力もばつぐんです」
「のんきに解説してるばあいじゃないよ!」
「油絵の具ってのはねえ、手につくとなかなか落ちないんですよ。それぐらい強力だ。ああ、さくらさんも、パレットを放置したままにしたことくらいあるでしょう? 固まった絵の具はとてもかたい。フィンセントはそれを芸術にまで昇華した天才なんです」
「ねえー! モネさん! 二枚目の花びらが飛んできた!」
弾丸のように発射された花びらは、ドスドスッと地面に突き刺さっていく。
「ううーん、これは足でも撃ちぬかれた大変だ」
「冷静に、怖いこといわないで!」
「おや、失敬」
ひまわりは四方八方へ、どかどかと花びらを撃ち、黄色い物騒な花道を地面に作ると、一気に静かになった。
花びらを撃ちおえたのだ。
はあ。からだに穴が開かなくて、本当によかった。
「宇野さくらっ」
ゴッホさんは、すっかり泣き止んだようだけれど、まゆ毛はあいかわらず、ハの字になっている。
エプロンの左ポケットをもぞもぞと探りながら、キッとわたしを見すえる。
「きみの奇跡、もっとぼくに見せて」
ゴッホさんがポケットから取りだしたのは、青色の絵の具だった。
早撃ちのガンマンのように、ピンッとチューブのフタを外す。
すると、チューブの口から、噴水のように絵の具が噴き出した。
絵の具の噴水。
それは、黄色の世界をいきおいよく流れ、青は一本の川となった。
じょじょに水量を増し、わたしたちの元へと流れてきている。
「宇野さくら。ぼくには、きみの奇跡が必要だ。フィンセント・ファン・ゴッホとして、ぼくというタマシイのまま、人間界に永遠に、ぼくの新作を届けるために……」
ゴッホさんが、ぶつぶつと何かをつぶやいているけれど、よく聞こえない。
それよりも、ゴッホさん。
もしかして、わたしたちをおぼれさせようとしてる?
「あの川は、フィンセントの作品である『ローヌ川の星月夜』でしょう」
ゴッホさんはぶつぶつと何かをつぶやきながら、川の行くすえを見つめている。
ざばざばと、川が近づいてきている。
モネさんはわたしの肩を抱いて、ヒラハケをかまえた。
「『ローヌ川の星月夜』は、タイトルのとおり、フランスのローヌ川の夜景を描いた作品です。鮮やかな街灯を映し出したローヌ川。そして、コバルトブルーの夜空にまたたく、北斗七星」
「コバルトブルー?」
ゴッホさんが、低くうめく。
「ぼくの青には、ひとつとして、おなじ青はない」
エプロンからあふれだしそうなほどの絵の具を、ゴッホさんは両手でつかんだ。
チューブには、アクアマリン、ラピスラズリ、ターコイズブルー。
インディゴ、シアン、サックスブルー。
わたしの知らないような青の絵の具をばらばらと川に流した。
ゴッホさんの絵の、そびえ立つようなキャンバスの厚みを思い出す。
絵の具の層が、川となって、わたしたちに襲いかかってくる。
モネさんが、わたしに聞こえるか聞こえないかほどの声でいった。
「まずいことになりましたねえ……」
「モネさん! そんなことより、ゴッホさんの川が!」
「おや。さくらさん。聞こえていましたか。ぼくの弱音が」
わたしたちに絵の具の川が、おおいかぶさってくる。
モネさんが、ヒラハケでゴッホさんの青をなでつけた。
一瞬、川は真っ二つになったけれど、それでも勢いは止まらない。
このまま続けてたら、モネさんが疲れて、二人とも溺れちゃう!
「フィンセントとぼくでは、相性が悪すぎますね」
「どうして?」
「思いの強さですよ。ぼくは、天国でのんびり絵を描き続けられればいい。順番が来ればモネのタマシイを捨て、新しいタマシイで人生を歩みなおしてもいいと思っています。しかし、フィンセントは違う」
モネさんは長い息をつき、気だるそうに腕を組んだ。
「彼は、フィンセント・ファン・ゴッホであることに執着しています。だからこそ、この世界をかたちづくるパワーが違う。このままでは、ぼくはあなたを守ることができず、負けてしまうでしょう」
「そ、そんな……」
モネさんの細いあごを、汗がつたっていく。
ヒラハケをにぎる手にも、ちからがこもらなくなっているみたい。
ゴッホさんのパワーに押されてるんだ。
わたしに、できること……ないのかな。
「フィンセント。炎の画家と呼ばれる絵画への思いはすばらしいですが……今回ばかりはその情熱が、腹立たしい――」
とたん、ゴッホさんの青い絵の具が、わたしたちに降り注ぐ。
モネさんが押し負けたんだ。
わたしのからだに、モネさんがおおいかぶさる。
一気に視界が青色に染まる。
息が苦しい。まるで、海のなかにいるみたい。冷たくで、こごえそう。
モネさんが、わたしのからだを抱きしめてくれてる。
でも、さっきの絵の具の勢いで、意識を失ってしまっているみたい。
このままじゃ、わたしたち……。
モネさんのヒラハケが、青色のなかでたゆたっている。
わたしはそれへと手を伸ばし、握った。
モネさんのマネをして、横にふる。
しかし、何も出てこない。やっぱり、モネさんじゃないとダメなんだ。
さらに、わたしは思い出す。
神の奇跡をもう三つ、使ってしまっていることに。
ゴッホさんの『ひまわり』に、『ローヌ川の星月夜』。そして、モネさんの『かささぎ』。
今日はもう、ミューズさまのちからは使えない。
そんな、このままわたしたち、沈んでいくしかないの?
せっかく平凡なわたしに、神さまのちからが宿ったのに、肝心なときに使えないなんて。
せっかく美術館に、モネさんの絵を見に行こうとしていたのに。
そうだよ。諦めない。
わたしのちからは未熟だから、三つしか使えないんだっていってた。
じゃあ今、四つ目を使えるようになればいい!
わたし……モネさんと約束したんだ。
モネさんといっしょに、絵の練習をするって。
だから、お願い。モネさんのヒラハケ、ちからを貸して!
わたしは思いっきり、ヒラハケをふった。
きらり、と光の粒が、わたしの目の前を落ちていく。
出た。ヒラハケで描いた一線から、たくさんの光が!
そこから、大きな木の舟がザブウンッ、とあらわれた。
舟はわたしたちを乗せ、絵の具の海の上へと連れて行ってくれた。
「た、助かった……」
絵の具まみれのからだもそのままに、わたしは酸素を思いっきり吸った。
そうだ。モネさんッ!
舟に横たわっているモネさんを見ると、ちょうど薄く目を開けかけているところだった。
よかった。意識が戻ったんだ。
「モネさん。大丈夫?」
「ここは……」
「舟の上ですよ。モネさんのヒラハケから出てきたんです」
「ぼくの……?」
からだを起こそうとするモネさんを、あわてて支える。
きょろきょろと舟のなかを観察し、モネさんはフッと笑った。
「まさか、四つ目の奇跡を起こしたんですか。さくらさん」
「た、たぶん……?」
「これは、ぼくの作品『舟遊び』ですね。ぼくのヒラハケで、自分で奇跡を起こしてしまうとは。きみの願いのちからも、フィンセントに引けを取らない」
モネさんがわたしの頭に手を乗せてくれた。
がんばって、奇跡を起こしてよかった。
モネさんに守ってばかりのわたしのままじゃ、いられないもんね。
「このまま、フィンセントのもとへと向かいましょう」
「もう大丈夫なの?」
「ええ。きみの奇跡のおかげでね」
真っ青な絵の具の海に、巨大な黄色い花びんがぷかぷかと浮かんでいる。
それはあまりにも目立っていて、ゴッホさんの居場所はここですよ、と教えてくれているようなものだった。
うーん。ゴッホさんのセンスは個性的できらびやかだからなあ。
ゴッホさんは花びんのふちに立っていた。
わたしたちのすがたをとらえると、ニヤリと笑い、エプロンの右ポケットに手を入れた。
「さっき、ピカソさまから連絡があったよ。〝まずは宇野さくらにまとわりつく、光の画家を消しされ〟とね」
ポケットから引きぬかれたゴッホさんの手には、大きめのナイフがにぎられていた。
ナイフがきらりと光り、わたしは思わず叫んだ。
「じゅ、銃刀法違反!」
「あれは、キャンバススクレイパーです。キャンパスやパレットをキズつけずに、表面だけをそぎ落としたりするときに使うナイフですよ」
「なあんだ、絵の道具なのか」
そんなの武器にならないよー、と思ったけれど、この人たちには関係ないんだった。
画家の武器は、画材道具。
モネさんはヒラハケ、ルドンくんはモクタン、そしてゴッホさんはさっきの絵の具に、キャンバスクレイパー。
攻撃力なんて、いらない。
この人たちは、思いのちからで戦っている。
モネさんが、ヒラハケをにぎりしめた。
「星月夜よ、落ちろ!」
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを振り下ろした。
すると、頭上でちかちかと光っていた星たちが、べろりとはがれた。
ピンクや、グリーンの星が、キャンバスクレイパーによって、そぎ落とされたのだ。
「ふふ、落ちろ……落ちろ……クロード・モネの上に、星よ落ちろお!」
どぼおん!
青い絵の具の海に、星が落ちた。
黄色い光の輪っかを作り、海底へと沈んでいく。
「落ちろ、落ちろ、落ちろ」
ゴッホさんが、キャンパスクレイパーを振り下ろすたび、星が落ちる。
「モネさん。舟を出しましょう。早く逃げないと」
「さくらさん!」
どぼおん!
星じゃない。これは、わたしが海に落ちた音。
モネさんに背中を押されたのだ。
海のなかを、いくつものカラフルな星が、落ちていってるのが見えた。
いけない。モネさんに、なにかあったんだろう!
わたしは急いで、海面にあがる。
海面にあがり、さっきまで乗っていた舟を見て、わたしは声が出なくなる。
『舟遊び』はぼろぼろになっていた。
星がぶつかり、大きな穴が開いている。
あのまま、舟に乗っていたら、わたしにぶつかっていたんだろう。
モネさんが助けてくれたんだ。
「も、モネさんは……?」
舟は空っぽだ。誰も乗っていない……。
あふれてくる涙をこらえる。
もぐって、モネさんを探そう。
大きく息を吸いこんだ。
「もう、クロード・モネはいない」
ゴッホさんが花びんのふちに座り、得意げにキャンバススクレイパーをくるくる回している。
「どういうこと」
「この世界は、ぼくの世界なんだよ」
「だから、何」
「あれ。あんた、知らないの? じゃあ、モネのやつも知らなかったのかな。〝長い時間、他の芸術家の作品のなかにい続けると、相手の作品の一部になってしまう〟ってこと」
何それ。そんな話、知らない。
モネさんも、知らなかったって……うそでしょ。
涙が、じわじわとあふれていく。
モネさんはもう、いないってこと?
「宇野さくら。あんたはもちろん、これには当てはまらない。あんたのちからで成立する奇跡なんだから」
ゴッホさんが、ひまわりのクキをわたしに伸ばしてくる。
「さあ、つかまって。ピカソのもとへ、連れていってあげるよ」
「いや、行かない」
「うわ、ナマイキなやつだなあ。さっさというとおりにしてくれる? 星を落とされたいの?」
ゴッホさんは面倒くさそうに、くちびるととがらせている。
モネさんなら、こんな態度、ぜったいにしないのに。
わたしはあふれてくる涙をぬぐいもせず、仕方なく、ゴッホさんのひまわりのクキをつかんだ。
すると、ゴッホさんは嬉しそうに、両手を上げた。
「ふふふ。やったー! 宇野さくらを捕まえたぞ。この、ぼくが!」
わたしは無心で、ゆらゆらとゆれている青色の水面をながめた。
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを一振りすると、『ひまわり』の世界がどろりと溶けていく。
ころん。
何かが、はいているクツのつま先に当たった。
ドングリのような、黒い種が落ちている。
「なんだろう、これ」
すると、種がかたかたと振動しだす。
まるで生きているみたいに、ぴょーんと飛びあがり、ゴッホさんの頭にぽこんと当たった。
「ウワーーー! いたいーーーッ!」
ゴッホさんが、大げさにのけぞり、悲鳴をあげた。
ちょこっと、当たったぐらいなんだけどなあ……。
「クロード・モネ! まさか、絵になっていないのかッ?」
「え?」
「宇野さくらのそばに、睡蓮の種を落としているなんて! 往生際の悪いやつ!」
「今、何ていったのっ?」
わたしは嬉しくて、その場で飛びあがった。
モネさんが、生きてる!
これが、睡蓮の種なら、間違いなくモネさんのものだよ。
だって、睡蓮といったら、モネさんだもん。
「ふん。こんな種、今すぐ踏みつぶしてやる!」
ゴッホさんが足を上げ、種に狙いをさだめた。
「だめ!」
わたしはゴッホさんを止めようと、身を乗り出す。
その時、睡蓮の種から青い芽がいきおいよく飛びだした。
すぐに大きな葉が広がって、あっというまにピンクの花が咲く。
見たことのないほどのスピードで、成長していく睡蓮。
みるみるうちに通常の大きさを超え、むくむくと巨大化していく。
わたしと同じくらいの身長になったとき、パカッと花びらが開いた。
「え?」
バクリ。
え? わたし、睡蓮の花に食べられちゃったんだけど。
暗い花のなか。
外でゴッホさんが、ギャーギャーと何かをいっている。
「モネさん、どこ?」
睡蓮の花が、フワッと開いた。
ここ、わたしの部屋だ。
ゴッホさんが、ひまわりの世界を消したから、戻ってきたんだ。
でも、モネさんはやっぱりいない。
睡蓮の花が、霧のように消えていく。ぽとん、と黒い種が落ちてきた。
モネさんが睡蓮の花で、わたしを守ってくれたんだ。
その後のわたしは、何も手がつかないまま、ずっとその種を見つめていた。
授業が終わると、すぐにランドセルを背負った。
「さくら。いっしょに帰ろう」
「今日はごめん。また誘って!」
通学路にそって、一直線に家へと帰る。
お風呂に入り、家族と夕ごはんを食べて、歯をみがくと、すぐにベッドに入り、目を閉じた。
ゴッホさんの『ひまわり』の世界から戻ったわたしは、なるべく目を開けないように過ごしていた。
お母さんに「何してるの?」なんて聞かれたから、「目の良くなるトレーニングだって」なんていってごまかした。
だって、またどこかにゴッホさんたちの絵がはられているかもしれないでしょ。
絵のなかに入っても、もうモネさんはいない。
あの睡蓮の種は、お守りに入れて、つねに首からさげてる。
わたしはベッドのなかで、それをギュとにぎりしめた。
モネさん。もう会えないの? いっしょに絵を描くっていったのに。
また、じんわりと涙がにじんできた。
神のちからがあっても、肝心な時に役に立たないんじゃ、奇跡でもなんでもない。
モネさんを助けられる方法、ないのかな。
『さくら』
「え?」
ぱあああ。
光だ。モネさんの光とは、比べ物にならないほどの、まぶしい光。
さっきの声がしたほうから、降り注いでくる。
手で作ったひさしのわずかなすき間からのぞくと、人影が立っている。
「だれ?」
『芸術の神、ミューズですー』
光が強すぎて、顔もすがたもまったく見えない。
ミューズさまって、わたしに神のちからをよこした人だよね。
神さまのわりに、なんだか軽そうな口調だけど、本当にミューズさまなのかな。
『さくらっち。まさか、あてぃしのこと、疑ってる?』
「え、いや」
『マジだから。マジのミューズだから』
「は、はあ」
女神さまと話してるのに、友達と話してるみたいなテンションで、なんだか調子がくるうなあ。
「あの、なんでここに?」
『さくらっちと話したいなーと思ってさ! てか、さくらっちに渡した、あてぃしのちからのことだけどー』
「あ。そうだ。なんで、わたしなんかにミューズさまのちからを?」
『なんかとか、よくなーい。さくらっちは十分、すごいよ。自力で、四つの奇跡を起こしたじゃん! 自信持ちなって!』
きらきらした光を背負いながら、ミューズさまはほがらかに褒めてくれる。
なんか、イメージしてた女神さまとだいぶ違う。
距離の近い女神さまだなあ。
めちゃくちゃ光がまぶしいけれど。両手で目をほとんど隠しながら、話してるよ。
『んでね。まあ、順を追って説明すんね。さくらっちは、モネっちから、天国が少子化のせいで、生まれ変わりの順番待ちがあふれかえっていることは、聞いたと思うんだけど』
「はい。聞きました」
『ぶっちゃけいうと、さくらっちにあてぃしのちからをあげた理由は、モネっちと仲よくなれそうだったから! だって、さくらっちって、モネっちの大ファンじゃーん?』
わたしはコントみたいに、その場にズッコけそうになった。
「そ、そんな理由?」
『うん。だって、あてぃし。すげー困ってんだよ。ピカソちゃんには。あ、ピカソちゃん、知ってるよね? パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』
何、今の、早口言葉?
『ピカソちゃんって、すげー名前、長いよね』
あれ、名前だったんだ。
『これまでにもっとも多く芸術作品を作り、ギネスブックに登録されている、〝二十世紀最大の画家〟といわれている画家。それが、ピカソちゃんね』
「ピカソさんに困ってるっていうのは……?」
『あてぃし、今、牢屋に閉じこめられてんだよねー。ピカソちゃんのせいで』
「ええ?」
『今、ここにいるのはまあ、人間界でいうリモート通話みたいな感じかな』
女神さまが牢屋にいれられるなんてこと、あるのっ?
『ピカソちゃんは、まったく生まれ変われない現状に怒ってるんだよ。平和な天国では刺激が少なくて、いい作品が作れないってさ』
「でも、待っていれば、必ず順番は来るんだし……」
『ピカソちゃんはねえ。普通に生まれ変わろうとしているんじゃないんだよ。〝自分に生まれ変わろうとして〟んのさ』
自分にって、そんなことできるの?
『そんなことはできないよ。神さまはみんなに平等だからさ。でも、ピカソちゃんは聞かなかった。自分に生まれ変わらなければ、制作を続けられないっていってね』
天国にいっても、まだ作品を生み出し続けているなんて。
さすが、二十世紀最大の画家だよ。
『ふーん。あてぃしが才能を授けたから、すごい作品を作れたっていうのに、えらそうすぎない? しかも、自力で生まれ変わろうとして、あてぃしのちからを奪おうとしてくるしさ!』
えー! それはさすがに、やりすぎなんじゃ。
「それで、ピカソさんはどうなったの?」
『なぜかあてぃしが、天国の牢屋に閉じこめられた』
「いや、本当になんでっ?」
『マジでムカついてさあ。こんなやつに芸術の神の一番大事なちからをやってたまるか、って思ってね。んで、人間界でモネっちの絵にうっとりしてた、さくらっちのほうへ、放り投げたんだよ。そしたら、お偉い神さまがたが怒っちゃって……』
それが理由っ?
『今までも、自分の趣味で芸術家たちに才能をあげてて、さんざん怒られてたんだけどね。今回ばかりは軽率すぎ、って神さまたちの火山大爆発。この牢屋のなかでは、このぐらいしかちからは使えないのさー。むりやり、人間界につなげてるんだよ。いつ、この会話が途切れるかもわからないから、急がないと』
ミューズさまは、ぷりぷり怒っているけれど。
つまりはわたし、完全なるとばっちりってことだよね。
いや、わかってたけれど。
『経緯は以上かな。つまり、ピカソちゃんは自分自身に生まれ変わるちからを手に入れるために、さくらっちを狙ってるんだ。ゴッホちゃんやルドンちゃんも、ピカソちゃんの意見に同意して、従ってるって感じだよ。でも、ピカソちゃんたちをそのままにしておくわけにはいかないんだ。神のちからをむりやり奪い取って使うってのは、天界の法律違反だからね』
ミューズさまは、真剣な口調でいう。
『下手したら、この世から芸術というものが消えてなくなるかもしれないよ』
「そんな!」
それって、図工の時間がなくなるとか、そういうことだよね。
美術館もなくだろうし、絵本クラブも……。
絵だけが芸術じゃない。演劇や、ダンス、彫刻に、写真。
色々なものが、この世界からなくなっちゃうっ?
「このこと、ピカソさんは?」
『知ってるけどさ、あてぃしのいうことは、信じてくれないんだよ。何か、信用ないんだよねえ。あてぃしの何が悪いんだよー』
ミューズさまの影が、手を後ろに組んで、伸びをしているのが見える。
わたしは首からさげている、お守りをにぎりしめた。
「あの、ミューズさま。モネさんが……もう、助けられないんですか?」
『モネっちはね、その睡蓮の種のなかにいるよ』
わたしのお守りを指さし、ミューズさまは続けた。
『まだ助けられる。急がないといけないけれど』
「どうすればいいんですかっ?」
『モネっちは、ゴッホちゃんの絵に取りこまれて、動けなくなってる。助けるには、ゴッホちゃんが持っている絵の具の青がいるよ。それを、種に塗って中和させればいいのさー。炎に油を注いで、燃やしつくすわけ。芸術は爆発だーってね!』
うそみたいな方法だけど、ミューズさまがいうんだから、本当なんだろうな。
いや、でも待って。
あの人、青っていっても、色んな青を持ってたよね……?
「どんな青ですか?」
『それは……』
とたん、ミューズさまの声がどんどん遠ざかる。
わたしはあせって耳を澄ますけれど、結局ミューズさまがなんといったのかは聞きとれなかった。
「うそでしょ……」
ミューズさまは、むりやり会話をつなげてるっていってた。
でもまさか、こんな重要なところで切れちゃうなんて!
「ゴッホさんの青……」
ローヌ川の星月夜には、色んな青が使われていた。
ミューズさまがいっていたのは、あのなかの青のどれかだとは思う。
いや、その前にゴッホさんから絵の具を取れるのかな。
あの人が分けてくれるはずないし。
これは、困ったぞ。
とにかく分厚くて、重たかった。肩がちぎれるかと思ったよ。
「さくらさん、この本は?」
わたしの持っている、黄色の本をのぞきこんでくる、モネさん。
タマシイだけだから、足音もないし、気配もない。
これだけだと、なんだかわたし、幽霊にとりつかれているみたい?
「今日、ツルハシ先生にこれを渡されたの」
「ツルハシって、誰ですか?」
「絵本クラブの先生だよ」
本の表紙を見せると、モネさんは嬉しそうに「ああ」と声をあげた。
「オランダの画家。フィンセント・ファン・ゴッホの画集ですよ。二十世紀の美術に大きな影響をあたえた、すごい画家なんですよ。フィンセントが描いた『ひまわり』は、世界的にも有名な絵なんです」
「あの、ひまわりの絵がそうなんだ」
学校でパラパラとページをめくっていたときに見た、ひまわりの絵。
たしかに、すごい迫力だった。ただの花の絵じゃないってかんじ。
「ぼくも天国図書館で、よくフィンセントの画集を見ましたよ。ひまわりや小麦畑、糸杉などのモチーフをよく描いていたみたいですね」
「モチーフって?」
「フランス語では、題材や動機という意味で使われます。美術的にいうと、〝絵でいいたいこと〟ですかね」
「モネさんの絵とは、ぜんぜん違うフンイキ」
「花は、見る人、描く人によって、まったく姿を変えますから」
なんだか、むずかしい話になってきた。
花は、花じゃないのかな。
目で見ても、画面越しに見ても、図鑑で見ても、花はかたちを変えないけれど。
「どういうこと?」
モネさんは「そうですねえ」とアゴに手を添えながら、教えてくれる。
「さくらさんはこのひまわりの絵、ぼくの睡蓮と、どこが違うと思いますか?」
どこがって、ぜんぜん違うよ。
「モネさんの花は、明るくってやわらかいフンイキ。優しいかんじもするし、花がきらきらしてる。このひまわりの絵は、力強くて、パワーにあふれてる。絵具も、ギュギュって塗られていて、色が目に飛びこんでくる感じがあるよ」
「その通り」
「え? 正解?」
「いいえ。でも、正解ですよ」
どういうこと?
「絵を見た感想は、人それぞれ。別の人に、今の質問と同じことを問えば、まったく違う回答が返ってくるかもしれません。花だけじゃなく、人も風景も動物も、描く人によってすがたを変える。そういうことですよ」
そういうか。やっと、意味がわかったよ。
たしかに、友達に「面白いよ」と貸したマンガも「うーん。イマイチだった」って返ってくるときもあるよね。
わたしは「そっかあ」って、ざんねんな気持ちになったこともあるけれど、感じ方は人それぞれ。
花は見る人によって、すがたを変える。
そういえば、ルドンくんも、モネさんとは、ぜんぜん違う絵の世界観だったな。
「色んな絵があるんだ……」
ニョキリ。絵のなかのひまわりのクキが、一瞬、伸びたような気がした。
「ん?」
わたしは目をまばたきしたり、こすったりしてみる。
今、なんか絵がヘンな気がしたけど。
「気のせい?」
とたん、景色がぐるんと一回転。
次の瞬間には、わたしはまた違う場所にいた。
わたしは、うんざりとばかりに「もー」と鳴いた。
「また、ルドンくんの絵のなかに入ったの?」
あたりを見渡すけれど、ルドンくんが描く絵とは、なんだか違うフンイキ。
黄色の絵の具が塗り重ねられたような、風変わりな景色。
ギンナン色の地面が、地平線のかなたまで続いている。
「これは、岩……いや、花びんですね」
後ろで、モネさんがいった。
ふり返ると、クリーム色と黄色のバイカラーがおしゃれな大きな花びんがそびえ立っていた。
ウネウネとうねっているひまわりが、何本も生けられている。
そのなかに、ちょこんと青いバラが一本、混じっていた。
「この絵には、青いバラは生けられていないはずですが」
「ひまわりってことは、もしかしてこの世界って……」
「ええ。ここは間違いなく、フィンセントが描いた絵のなかのようですね」
「どうしてまた、絵のなかに入っちゃったんだろう?」
「どうやら、さくらさんが〝芸術家の作品を目にし、特別な感情をもったとき、その作品に奇跡が起こる〟ようですね。だから、彼らはさくらさんにやたらと絵を見せてくるのでしょう。オディロンのときも、昇降口に絵が飾ってあったでしょう」
そういえば、昇降口の絵を見たとき、「こんなところに絵なんか飾ってあったかな」って思ったんだっけ。
ルドンくんは、わたしに神の奇跡を起こさせるために、あそこに絵を飾ったんだ。
ルドンくんの絵を見たときも、ゴッホさんの絵を見たとき、たしかに色んな感情がわきあがったよ。でも……。
「号泣するほど感動したわけでもないのに、こんなすごい奇跡が起こっちゃうなんてえ」
奇跡のムダづかいじゃない?
「絵を見て、感動するというのは、それだけ素晴らしいことなのですよ? きみが愛する、ぼくの絵のように」
わたしの胸が、きゅんと高鳴る。
フランス紳士って、こういうことを平気でいうのかな。
心臓がいくつあっても、足りないよ。
「わ、わたしも、練習すれば、誰かを感動させられるような絵を描けるのかなあ」
「ぼくといっしょに練習しましょう」
「いいの?」
「もちろん」
ふわりと、あたたかな笑顔を浮かべるモネさん。
それは、モネさんの絵から感じた、光のようなぬくもりで。
こんな先生に絵を教えてもらえるなら百人力だと思った。
モネさんは、鮮やかな青のジャケットのふところから、ヒラハケを取りだした。
「さくらさん。ぼくに、ちからを貸してくださいませんか?」
「うん」
それを、空中でシュっと横にふる。
すると、描いた線がきらきらと輝き、光の線となる。
そこから、一羽の黒い鳥が、翼を広げて飛び出してきた。
カラスに似ているが、おなかの辺りは白い。
広げた翼は、扇子みたいにきれいだ。
「ぼくが若いころに描いた代表作の一つ『かささぎ』です。雪におおわれた田舎の冬景色を描きました。ノルマンディー海岸のエルタトで描いたものですよ」
ノルマンディーもエルタトもよくわからないけれど、モネさんが描いたものなら、見てみたいな。
あとで、画集で探してみよう。
かささぎが、モネさんの肩にふわりと停まった。
「スズメ目カラス科。鳥類のなかでも大きな脳を持ち、そしてほ乳類以外で初めて、鏡に映るすがたを〝自分〟だと理解した鳥です。とても賢いんですよ」
カササギは、空に届きそうな大きさの花ビンをジーッと見つめている。
「このかささぎはね。特別なんですよ。さまざまな絵の具のにおいを教えこんであります」
モネさんは、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「それって、どういうこと?」
「フィンセントの絵は、絵の具をたくさん使う描き方をします。なかでも、この二種類のホワイトを多く使っているようですね」
モネさんが出した二本の絵の具のチューブには、ジンクホワイトとシルバーホワイトと書かれている。
「この絵の具のにおいが一番集中しているところ。そこに、彼はいます。何しろ、画家は一日中、絵の具といっしょにいるのですから」
かささぎは大きな翼を広げると、ばささっと飛び立った。
あっというまに黒い点になったかと思うと、ある場所でぐるぐると回り出す。
「かささぎが、彼を見つけたようだね」
「うん!」
わたしたちは、かささぎが飛び回っているところへと急いだ。
かささぎのとこへ追いつくと、そこにも花びんがあって、うねうねとしたひまわりが咲いていた。
かささぎが、カチカチと鳴きながら、ひまわりのなかで暴れてる。
「ワアーーーッ! やめろお! なにするんだよう!」
大変だよ。誰かが、かささぎに襲われているみたい。
花びんの後ろから、男の子が飛びだして来た。
はちみつ色の天然パーマをふり乱し、涙目になっている。
新緑色の作業服に重ねた、ガーデニングエプロンには、たくさんの絵筆や絵の具が入れられている。
けれど、かささぎに追いかけられているからか、そこかしこに、ぽろぽろと絵の具や絵筆を落としてしまっているみたい。
「おい、お前の鳥なんだろ! どうにかしろお!」
ゴッホさんが、必死で叫ぶ。
「おかしいですね。ぼくのかささぎは、とても賢いので、誰かを突くなんてことはしないはずですが」
ゴッホさんは、おすもうさんにハリ手でもされたかのようなリアクションで、ゴロゴロと地面を転がっている。
しかし、かささぎはゴッホさんの近くを飛んでいるだけで、攻撃しているようには見えない。
「かささぎ、ゴッホさんに何かしたのかな。ケガをしているようには見えないけど」
「面倒くさそうな人かもしれませんねえ」
モネさんはおだやかにそういうと、かささぎを指笛で呼びもどした。
「ありがとう。もどりたまえ」
そっと、ヒラハケで体をなぜると、かささぎのすがたは霧のように消えてしまった。
ゴッホさんが涙でぐしょぐしょの顔を、袖でぐいぐいとぬぐっている。
かささぎがいなくなって、安心したのかな。よかった。
黒のショートブーツをはいているからか、よろよろと歩きにくそうにしている、ゴッホさん。
すると、モネさんがいつのも調子で演説をはじめた。
「フィンセント。ヒールは男女問わず、美意識の象徴といわれるものです。ヒールの練習は、人知れずするもの。ゆえに、そのようなすがたは人前で見せるものではありません」
「モネさんってば、そんなふうにいわなくても……ゴッホさんの絵のこと、ほめてたじゃん」
「ぼくは美しいものは、手ばなしで称賛します。みにくいものには、伸びしろもこみで、厳しく。それが優しさというもの」
そういうものなのかな。
いっていることはわからなくもないけれど。
ゴッホさん、モネさんのいいたいこと、わかってくれたかな。
「許さない……」
「え?」
ゴッホさんが、ものすごい顔で、わたしたちをにらんでいる。
これは、怒ってる……よね。
ゴッホさんは、目じりに涙をじんわりとため、低い声で叫んだ。
「よくも、よくもよくもよくも! ぼくに! 怖い思いをさせたなあーっ!」
「え、そこを怒ってるの?」
ついツッコんじゃったけれど、ゴッホさんの耳には届いていないみたい。
「宇野さくら! ピカソさまにお前を連れて来いといわれていたけれど、もうそんなことどうでもいいっ!」
ゴッホさんが人差し指で、空を指した。
すると、花びんのひまわりたちが、いっせいにピンッと、姿勢を正す。
ひまわりの花が、まるで扇風機のように、ぎゅるぎゅると回りだした。
「やっつけてやる! あんたたち、みんなっ!」
いきおいよく回っていたひまわりの花びらが一枚はずれ、わたし目がけて、ビュンっと飛んできた。
わたしは反射的に、ぎゅ、と目をつむる。
キインッ、という何かをはじき返した音が、耳に響いた。
おそるおそる目を開けると、モネさんがヒラハケで花びらを打ち落としてくれていた。
「フィンセント特製の、絵の具で塗り固めた、鉛製のひまわりですね。フィンセントの絵は、その描き方により、厚みがあり、かたくて丈夫。攻撃力もばつぐんです」
「のんきに解説してるばあいじゃないよ!」
「油絵の具ってのはねえ、手につくとなかなか落ちないんですよ。それぐらい強力だ。ああ、さくらさんも、パレットを放置したままにしたことくらいあるでしょう? 固まった絵の具はとてもかたい。フィンセントはそれを芸術にまで昇華した天才なんです」
「ねえー! モネさん! 二枚目の花びらが飛んできた!」
弾丸のように発射された花びらは、ドスドスッと地面に突き刺さっていく。
「ううーん、これは足でも撃ちぬかれた大変だ」
「冷静に、怖いこといわないで!」
「おや、失敬」
ひまわりは四方八方へ、どかどかと花びらを撃ち、黄色い物騒な花道を地面に作ると、一気に静かになった。
花びらを撃ちおえたのだ。
はあ。からだに穴が開かなくて、本当によかった。
「宇野さくらっ」
ゴッホさんは、すっかり泣き止んだようだけれど、まゆ毛はあいかわらず、ハの字になっている。
エプロンの左ポケットをもぞもぞと探りながら、キッとわたしを見すえる。
「きみの奇跡、もっとぼくに見せて」
ゴッホさんがポケットから取りだしたのは、青色の絵の具だった。
早撃ちのガンマンのように、ピンッとチューブのフタを外す。
すると、チューブの口から、噴水のように絵の具が噴き出した。
絵の具の噴水。
それは、黄色の世界をいきおいよく流れ、青は一本の川となった。
じょじょに水量を増し、わたしたちの元へと流れてきている。
「宇野さくら。ぼくには、きみの奇跡が必要だ。フィンセント・ファン・ゴッホとして、ぼくというタマシイのまま、人間界に永遠に、ぼくの新作を届けるために……」
ゴッホさんが、ぶつぶつと何かをつぶやいているけれど、よく聞こえない。
それよりも、ゴッホさん。
もしかして、わたしたちをおぼれさせようとしてる?
「あの川は、フィンセントの作品である『ローヌ川の星月夜』でしょう」
ゴッホさんはぶつぶつと何かをつぶやきながら、川の行くすえを見つめている。
ざばざばと、川が近づいてきている。
モネさんはわたしの肩を抱いて、ヒラハケをかまえた。
「『ローヌ川の星月夜』は、タイトルのとおり、フランスのローヌ川の夜景を描いた作品です。鮮やかな街灯を映し出したローヌ川。そして、コバルトブルーの夜空にまたたく、北斗七星」
「コバルトブルー?」
ゴッホさんが、低くうめく。
「ぼくの青には、ひとつとして、おなじ青はない」
エプロンからあふれだしそうなほどの絵の具を、ゴッホさんは両手でつかんだ。
チューブには、アクアマリン、ラピスラズリ、ターコイズブルー。
インディゴ、シアン、サックスブルー。
わたしの知らないような青の絵の具をばらばらと川に流した。
ゴッホさんの絵の、そびえ立つようなキャンバスの厚みを思い出す。
絵の具の層が、川となって、わたしたちに襲いかかってくる。
モネさんが、わたしに聞こえるか聞こえないかほどの声でいった。
「まずいことになりましたねえ……」
「モネさん! そんなことより、ゴッホさんの川が!」
「おや。さくらさん。聞こえていましたか。ぼくの弱音が」
わたしたちに絵の具の川が、おおいかぶさってくる。
モネさんが、ヒラハケでゴッホさんの青をなでつけた。
一瞬、川は真っ二つになったけれど、それでも勢いは止まらない。
このまま続けてたら、モネさんが疲れて、二人とも溺れちゃう!
「フィンセントとぼくでは、相性が悪すぎますね」
「どうして?」
「思いの強さですよ。ぼくは、天国でのんびり絵を描き続けられればいい。順番が来ればモネのタマシイを捨て、新しいタマシイで人生を歩みなおしてもいいと思っています。しかし、フィンセントは違う」
モネさんは長い息をつき、気だるそうに腕を組んだ。
「彼は、フィンセント・ファン・ゴッホであることに執着しています。だからこそ、この世界をかたちづくるパワーが違う。このままでは、ぼくはあなたを守ることができず、負けてしまうでしょう」
「そ、そんな……」
モネさんの細いあごを、汗がつたっていく。
ヒラハケをにぎる手にも、ちからがこもらなくなっているみたい。
ゴッホさんのパワーに押されてるんだ。
わたしに、できること……ないのかな。
「フィンセント。炎の画家と呼ばれる絵画への思いはすばらしいですが……今回ばかりはその情熱が、腹立たしい――」
とたん、ゴッホさんの青い絵の具が、わたしたちに降り注ぐ。
モネさんが押し負けたんだ。
わたしのからだに、モネさんがおおいかぶさる。
一気に視界が青色に染まる。
息が苦しい。まるで、海のなかにいるみたい。冷たくで、こごえそう。
モネさんが、わたしのからだを抱きしめてくれてる。
でも、さっきの絵の具の勢いで、意識を失ってしまっているみたい。
このままじゃ、わたしたち……。
モネさんのヒラハケが、青色のなかでたゆたっている。
わたしはそれへと手を伸ばし、握った。
モネさんのマネをして、横にふる。
しかし、何も出てこない。やっぱり、モネさんじゃないとダメなんだ。
さらに、わたしは思い出す。
神の奇跡をもう三つ、使ってしまっていることに。
ゴッホさんの『ひまわり』に、『ローヌ川の星月夜』。そして、モネさんの『かささぎ』。
今日はもう、ミューズさまのちからは使えない。
そんな、このままわたしたち、沈んでいくしかないの?
せっかく平凡なわたしに、神さまのちからが宿ったのに、肝心なときに使えないなんて。
せっかく美術館に、モネさんの絵を見に行こうとしていたのに。
そうだよ。諦めない。
わたしのちからは未熟だから、三つしか使えないんだっていってた。
じゃあ今、四つ目を使えるようになればいい!
わたし……モネさんと約束したんだ。
モネさんといっしょに、絵の練習をするって。
だから、お願い。モネさんのヒラハケ、ちからを貸して!
わたしは思いっきり、ヒラハケをふった。
きらり、と光の粒が、わたしの目の前を落ちていく。
出た。ヒラハケで描いた一線から、たくさんの光が!
そこから、大きな木の舟がザブウンッ、とあらわれた。
舟はわたしたちを乗せ、絵の具の海の上へと連れて行ってくれた。
「た、助かった……」
絵の具まみれのからだもそのままに、わたしは酸素を思いっきり吸った。
そうだ。モネさんッ!
舟に横たわっているモネさんを見ると、ちょうど薄く目を開けかけているところだった。
よかった。意識が戻ったんだ。
「モネさん。大丈夫?」
「ここは……」
「舟の上ですよ。モネさんのヒラハケから出てきたんです」
「ぼくの……?」
からだを起こそうとするモネさんを、あわてて支える。
きょろきょろと舟のなかを観察し、モネさんはフッと笑った。
「まさか、四つ目の奇跡を起こしたんですか。さくらさん」
「た、たぶん……?」
「これは、ぼくの作品『舟遊び』ですね。ぼくのヒラハケで、自分で奇跡を起こしてしまうとは。きみの願いのちからも、フィンセントに引けを取らない」
モネさんがわたしの頭に手を乗せてくれた。
がんばって、奇跡を起こしてよかった。
モネさんに守ってばかりのわたしのままじゃ、いられないもんね。
「このまま、フィンセントのもとへと向かいましょう」
「もう大丈夫なの?」
「ええ。きみの奇跡のおかげでね」
真っ青な絵の具の海に、巨大な黄色い花びんがぷかぷかと浮かんでいる。
それはあまりにも目立っていて、ゴッホさんの居場所はここですよ、と教えてくれているようなものだった。
うーん。ゴッホさんのセンスは個性的できらびやかだからなあ。
ゴッホさんは花びんのふちに立っていた。
わたしたちのすがたをとらえると、ニヤリと笑い、エプロンの右ポケットに手を入れた。
「さっき、ピカソさまから連絡があったよ。〝まずは宇野さくらにまとわりつく、光の画家を消しされ〟とね」
ポケットから引きぬかれたゴッホさんの手には、大きめのナイフがにぎられていた。
ナイフがきらりと光り、わたしは思わず叫んだ。
「じゅ、銃刀法違反!」
「あれは、キャンバススクレイパーです。キャンパスやパレットをキズつけずに、表面だけをそぎ落としたりするときに使うナイフですよ」
「なあんだ、絵の道具なのか」
そんなの武器にならないよー、と思ったけれど、この人たちには関係ないんだった。
画家の武器は、画材道具。
モネさんはヒラハケ、ルドンくんはモクタン、そしてゴッホさんはさっきの絵の具に、キャンバスクレイパー。
攻撃力なんて、いらない。
この人たちは、思いのちからで戦っている。
モネさんが、ヒラハケをにぎりしめた。
「星月夜よ、落ちろ!」
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを振り下ろした。
すると、頭上でちかちかと光っていた星たちが、べろりとはがれた。
ピンクや、グリーンの星が、キャンバスクレイパーによって、そぎ落とされたのだ。
「ふふ、落ちろ……落ちろ……クロード・モネの上に、星よ落ちろお!」
どぼおん!
青い絵の具の海に、星が落ちた。
黄色い光の輪っかを作り、海底へと沈んでいく。
「落ちろ、落ちろ、落ちろ」
ゴッホさんが、キャンパスクレイパーを振り下ろすたび、星が落ちる。
「モネさん。舟を出しましょう。早く逃げないと」
「さくらさん!」
どぼおん!
星じゃない。これは、わたしが海に落ちた音。
モネさんに背中を押されたのだ。
海のなかを、いくつものカラフルな星が、落ちていってるのが見えた。
いけない。モネさんに、なにかあったんだろう!
わたしは急いで、海面にあがる。
海面にあがり、さっきまで乗っていた舟を見て、わたしは声が出なくなる。
『舟遊び』はぼろぼろになっていた。
星がぶつかり、大きな穴が開いている。
あのまま、舟に乗っていたら、わたしにぶつかっていたんだろう。
モネさんが助けてくれたんだ。
「も、モネさんは……?」
舟は空っぽだ。誰も乗っていない……。
あふれてくる涙をこらえる。
もぐって、モネさんを探そう。
大きく息を吸いこんだ。
「もう、クロード・モネはいない」
ゴッホさんが花びんのふちに座り、得意げにキャンバススクレイパーをくるくる回している。
「どういうこと」
「この世界は、ぼくの世界なんだよ」
「だから、何」
「あれ。あんた、知らないの? じゃあ、モネのやつも知らなかったのかな。〝長い時間、他の芸術家の作品のなかにい続けると、相手の作品の一部になってしまう〟ってこと」
何それ。そんな話、知らない。
モネさんも、知らなかったって……うそでしょ。
涙が、じわじわとあふれていく。
モネさんはもう、いないってこと?
「宇野さくら。あんたはもちろん、これには当てはまらない。あんたのちからで成立する奇跡なんだから」
ゴッホさんが、ひまわりのクキをわたしに伸ばしてくる。
「さあ、つかまって。ピカソのもとへ、連れていってあげるよ」
「いや、行かない」
「うわ、ナマイキなやつだなあ。さっさというとおりにしてくれる? 星を落とされたいの?」
ゴッホさんは面倒くさそうに、くちびるととがらせている。
モネさんなら、こんな態度、ぜったいにしないのに。
わたしはあふれてくる涙をぬぐいもせず、仕方なく、ゴッホさんのひまわりのクキをつかんだ。
すると、ゴッホさんは嬉しそうに、両手を上げた。
「ふふふ。やったー! 宇野さくらを捕まえたぞ。この、ぼくが!」
わたしは無心で、ゆらゆらとゆれている青色の水面をながめた。
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを一振りすると、『ひまわり』の世界がどろりと溶けていく。
ころん。
何かが、はいているクツのつま先に当たった。
ドングリのような、黒い種が落ちている。
「なんだろう、これ」
すると、種がかたかたと振動しだす。
まるで生きているみたいに、ぴょーんと飛びあがり、ゴッホさんの頭にぽこんと当たった。
「ウワーーー! いたいーーーッ!」
ゴッホさんが、大げさにのけぞり、悲鳴をあげた。
ちょこっと、当たったぐらいなんだけどなあ……。
「クロード・モネ! まさか、絵になっていないのかッ?」
「え?」
「宇野さくらのそばに、睡蓮の種を落としているなんて! 往生際の悪いやつ!」
「今、何ていったのっ?」
わたしは嬉しくて、その場で飛びあがった。
モネさんが、生きてる!
これが、睡蓮の種なら、間違いなくモネさんのものだよ。
だって、睡蓮といったら、モネさんだもん。
「ふん。こんな種、今すぐ踏みつぶしてやる!」
ゴッホさんが足を上げ、種に狙いをさだめた。
「だめ!」
わたしはゴッホさんを止めようと、身を乗り出す。
その時、睡蓮の種から青い芽がいきおいよく飛びだした。
すぐに大きな葉が広がって、あっというまにピンクの花が咲く。
見たことのないほどのスピードで、成長していく睡蓮。
みるみるうちに通常の大きさを超え、むくむくと巨大化していく。
わたしと同じくらいの身長になったとき、パカッと花びらが開いた。
「え?」
バクリ。
え? わたし、睡蓮の花に食べられちゃったんだけど。
暗い花のなか。
外でゴッホさんが、ギャーギャーと何かをいっている。
「モネさん、どこ?」
睡蓮の花が、フワッと開いた。
ここ、わたしの部屋だ。
ゴッホさんが、ひまわりの世界を消したから、戻ってきたんだ。
でも、モネさんはやっぱりいない。
睡蓮の花が、霧のように消えていく。ぽとん、と黒い種が落ちてきた。
モネさんが睡蓮の花で、わたしを守ってくれたんだ。
その後のわたしは、何も手がつかないまま、ずっとその種を見つめていた。
授業が終わると、すぐにランドセルを背負った。
「さくら。いっしょに帰ろう」
「今日はごめん。また誘って!」
通学路にそって、一直線に家へと帰る。
お風呂に入り、家族と夕ごはんを食べて、歯をみがくと、すぐにベッドに入り、目を閉じた。
ゴッホさんの『ひまわり』の世界から戻ったわたしは、なるべく目を開けないように過ごしていた。
お母さんに「何してるの?」なんて聞かれたから、「目の良くなるトレーニングだって」なんていってごまかした。
だって、またどこかにゴッホさんたちの絵がはられているかもしれないでしょ。
絵のなかに入っても、もうモネさんはいない。
あの睡蓮の種は、お守りに入れて、つねに首からさげてる。
わたしはベッドのなかで、それをギュとにぎりしめた。
モネさん。もう会えないの? いっしょに絵を描くっていったのに。
また、じんわりと涙がにじんできた。
神のちからがあっても、肝心な時に役に立たないんじゃ、奇跡でもなんでもない。
モネさんを助けられる方法、ないのかな。
『さくら』
「え?」
ぱあああ。
光だ。モネさんの光とは、比べ物にならないほどの、まぶしい光。
さっきの声がしたほうから、降り注いでくる。
手で作ったひさしのわずかなすき間からのぞくと、人影が立っている。
「だれ?」
『芸術の神、ミューズですー』
光が強すぎて、顔もすがたもまったく見えない。
ミューズさまって、わたしに神のちからをよこした人だよね。
神さまのわりに、なんだか軽そうな口調だけど、本当にミューズさまなのかな。
『さくらっち。まさか、あてぃしのこと、疑ってる?』
「え、いや」
『マジだから。マジのミューズだから』
「は、はあ」
女神さまと話してるのに、友達と話してるみたいなテンションで、なんだか調子がくるうなあ。
「あの、なんでここに?」
『さくらっちと話したいなーと思ってさ! てか、さくらっちに渡した、あてぃしのちからのことだけどー』
「あ。そうだ。なんで、わたしなんかにミューズさまのちからを?」
『なんかとか、よくなーい。さくらっちは十分、すごいよ。自力で、四つの奇跡を起こしたじゃん! 自信持ちなって!』
きらきらした光を背負いながら、ミューズさまはほがらかに褒めてくれる。
なんか、イメージしてた女神さまとだいぶ違う。
距離の近い女神さまだなあ。
めちゃくちゃ光がまぶしいけれど。両手で目をほとんど隠しながら、話してるよ。
『んでね。まあ、順を追って説明すんね。さくらっちは、モネっちから、天国が少子化のせいで、生まれ変わりの順番待ちがあふれかえっていることは、聞いたと思うんだけど』
「はい。聞きました」
『ぶっちゃけいうと、さくらっちにあてぃしのちからをあげた理由は、モネっちと仲よくなれそうだったから! だって、さくらっちって、モネっちの大ファンじゃーん?』
わたしはコントみたいに、その場にズッコけそうになった。
「そ、そんな理由?」
『うん。だって、あてぃし。すげー困ってんだよ。ピカソちゃんには。あ、ピカソちゃん、知ってるよね? パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』
何、今の、早口言葉?
『ピカソちゃんって、すげー名前、長いよね』
あれ、名前だったんだ。
『これまでにもっとも多く芸術作品を作り、ギネスブックに登録されている、〝二十世紀最大の画家〟といわれている画家。それが、ピカソちゃんね』
「ピカソさんに困ってるっていうのは……?」
『あてぃし、今、牢屋に閉じこめられてんだよねー。ピカソちゃんのせいで』
「ええ?」
『今、ここにいるのはまあ、人間界でいうリモート通話みたいな感じかな』
女神さまが牢屋にいれられるなんてこと、あるのっ?
『ピカソちゃんは、まったく生まれ変われない現状に怒ってるんだよ。平和な天国では刺激が少なくて、いい作品が作れないってさ』
「でも、待っていれば、必ず順番は来るんだし……」
『ピカソちゃんはねえ。普通に生まれ変わろうとしているんじゃないんだよ。〝自分に生まれ変わろうとして〟んのさ』
自分にって、そんなことできるの?
『そんなことはできないよ。神さまはみんなに平等だからさ。でも、ピカソちゃんは聞かなかった。自分に生まれ変わらなければ、制作を続けられないっていってね』
天国にいっても、まだ作品を生み出し続けているなんて。
さすが、二十世紀最大の画家だよ。
『ふーん。あてぃしが才能を授けたから、すごい作品を作れたっていうのに、えらそうすぎない? しかも、自力で生まれ変わろうとして、あてぃしのちからを奪おうとしてくるしさ!』
えー! それはさすがに、やりすぎなんじゃ。
「それで、ピカソさんはどうなったの?」
『なぜかあてぃしが、天国の牢屋に閉じこめられた』
「いや、本当になんでっ?」
『マジでムカついてさあ。こんなやつに芸術の神の一番大事なちからをやってたまるか、って思ってね。んで、人間界でモネっちの絵にうっとりしてた、さくらっちのほうへ、放り投げたんだよ。そしたら、お偉い神さまがたが怒っちゃって……』
それが理由っ?
『今までも、自分の趣味で芸術家たちに才能をあげてて、さんざん怒られてたんだけどね。今回ばかりは軽率すぎ、って神さまたちの火山大爆発。この牢屋のなかでは、このぐらいしかちからは使えないのさー。むりやり、人間界につなげてるんだよ。いつ、この会話が途切れるかもわからないから、急がないと』
ミューズさまは、ぷりぷり怒っているけれど。
つまりはわたし、完全なるとばっちりってことだよね。
いや、わかってたけれど。
『経緯は以上かな。つまり、ピカソちゃんは自分自身に生まれ変わるちからを手に入れるために、さくらっちを狙ってるんだ。ゴッホちゃんやルドンちゃんも、ピカソちゃんの意見に同意して、従ってるって感じだよ。でも、ピカソちゃんたちをそのままにしておくわけにはいかないんだ。神のちからをむりやり奪い取って使うってのは、天界の法律違反だからね』
ミューズさまは、真剣な口調でいう。
『下手したら、この世から芸術というものが消えてなくなるかもしれないよ』
「そんな!」
それって、図工の時間がなくなるとか、そういうことだよね。
美術館もなくだろうし、絵本クラブも……。
絵だけが芸術じゃない。演劇や、ダンス、彫刻に、写真。
色々なものが、この世界からなくなっちゃうっ?
「このこと、ピカソさんは?」
『知ってるけどさ、あてぃしのいうことは、信じてくれないんだよ。何か、信用ないんだよねえ。あてぃしの何が悪いんだよー』
ミューズさまの影が、手を後ろに組んで、伸びをしているのが見える。
わたしは首からさげている、お守りをにぎりしめた。
「あの、ミューズさま。モネさんが……もう、助けられないんですか?」
『モネっちはね、その睡蓮の種のなかにいるよ』
わたしのお守りを指さし、ミューズさまは続けた。
『まだ助けられる。急がないといけないけれど』
「どうすればいいんですかっ?」
『モネっちは、ゴッホちゃんの絵に取りこまれて、動けなくなってる。助けるには、ゴッホちゃんが持っている絵の具の青がいるよ。それを、種に塗って中和させればいいのさー。炎に油を注いで、燃やしつくすわけ。芸術は爆発だーってね!』
うそみたいな方法だけど、ミューズさまがいうんだから、本当なんだろうな。
いや、でも待って。
あの人、青っていっても、色んな青を持ってたよね……?
「どんな青ですか?」
『それは……』
とたん、ミューズさまの声がどんどん遠ざかる。
わたしはあせって耳を澄ますけれど、結局ミューズさまがなんといったのかは聞きとれなかった。
「うそでしょ……」
ミューズさまは、むりやり会話をつなげてるっていってた。
でもまさか、こんな重要なところで切れちゃうなんて!
「ゴッホさんの青……」
ローヌ川の星月夜には、色んな青が使われていた。
ミューズさまがいっていたのは、あのなかの青のどれかだとは思う。
いや、その前にゴッホさんから絵の具を取れるのかな。
あの人が分けてくれるはずないし。
これは、困ったぞ。



