翌朝。
昨日、あんなに震える指先で「公開」ボタンを押したのに。
登校して目にする学校の廊下は、驚くほどいつも通りで、昨日までの私と何一つ変わっていなかった。
「ねえ莉奈、昨日の公式配信見た? あのシーン、絶対バズるよね!」
隣で親友の冴が、楽しそうに笑いながら、私の腕を引く。
「あー、見た見た。凄かったよね」
「だよね!てか、移動教室だるー」
「うん」
私は短く相槌を打つ。視線はまっすぐ前を向いているつもりなのに、足が二組の教室に近づくにつれて、意識はどうしても左側――あのドアの向こうへと吸い寄せられていく。
(……瀬戸、いるかな)
無意識に、教室の中にあの背中を探してしまう。
五組から二組。たった三つ、数字が違うだけの教室。それなのに、今の私にとっては世界の裏側くらい遠い場所に感じられた。
その時、ガラガラと乾いた音を立てて、二組の教室のドアが開いた。
(……あ)
心臓が、喉の奥まで跳ね上がる。
出てきたのは、紛れもなく瀬戸だった。
でも、彼は一人じゃなかった。
隣には、色の白くて、低身長で守りたくなるような女の子。
その子と肩を並べて、顔をくしゃくしゃにして笑う瀬戸。
一年前、私の隣で笑っていた時と同じ……ううん、私の知らない、もっと柔らかくて楽しそうな顔。
「お前マジで? それはないわ」
聞き慣れた、でも少し低くなった優しい声。その声が、私の知らない女の子に向けられている。その事実だけで、立っている足元がふわふわと削れていくような感覚に陥った。
今の彼の瞳に映っているのは、隣で楽しそうに笑うその子だけ。
すれ違う瞬間、ふわりとシトラスの香りが鼻をかすめる。一年前、隣の席で嫌というほど嗅いでいた、私の大好きな匂い。
彼は一度もこちらを振り返ることなく、女子と楽しそうに廊下の向こうへと消えていった。
「莉奈? どうしたの、急に止まって」
隣で冴の声がして、私はようやく自分が呼吸を止めていたことに気づいた。
「えっ、あ、なんでもない。ちょっと、足がもつれちゃって」
「……本当に? 瀬戸のこと、見てなかった?」
冴の鋭い視線に、心臓が痛いくらいに跳ねる。
「見てないよ、そんなの」
私は嘘をついた。本当は、彼の視界の端にでも入りたくて、でも女子と楽しそうにする姿なんて一秒も見たくなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていただけなのに。
移動教室の理科室。実験の準備でざわつく教室内で、私はさっき廊下で見かけてしまった光景を、何度も何度も反芻していた。
瀬戸の隣にいた、あの髪の長い女子。
楽しそうに笑い合っていた二人の姿が、網膜に焼き付いて離れない。
「……ねえ、莉奈」
不意に隣から声をかけられ、肩が跳ねた。
見ると、冴が実験用具を片手に、じっと私を見つめている。その目は、冗談を言っているときのものじゃなかった。
「な、なに?」
「さっき、二組の前で。莉奈、瀬戸のこと見てたよね」
心臓がドクンと嫌な音を立てる。私は必死で表情を取り繕い、ビーカーを洗うふりをした。
「だから、見てないって。たまたまドアが開いたから……」
「嘘。莉奈、目が泳いでる」
冴は一歩、私の方へ距離を詰めた。周りの生徒たちの話し声にかき消されそうな、小さな、でも逃げられない声。
「……やっぱ、瀬戸となんかあったよね? 中1のときあんなに仲良かったのに、今じゃ挨拶もしないし。莉奈瀬戸のこと好きだったのに……。てか莉奈、まだ瀬戸のこと、好きなんでしょ?」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
「好き」なんて、そんな単純な言葉で片付けたくなかった。仲が良すぎたからこそ、一度ズレてしまった歯車をどう直せばいいか分からない。名前を呼ぶ勇気も出ないまま、ただの「他クラスの藤井」になってしまった今の自分が情けなくて。
「……なんでもないよ。冴には関係ないじゃん」
冷たく突き放すような言葉が、自分の口からこぼれ落ちた。
冴が少しだけ傷ついたような顔をして、「……そっか。ごめん」と短く視線を落とす。
(……最低だ、私)
瀬戸と女子が一緒にいたショックを、一番の親友にぶつけてどうするんだ。謝らなきゃいけない相手を、これ以上増やしてどうするの。
胸の奥がギュッと締め付けられて、私は慌てて冴の袖を軽く引いた。
「……ごめん、冴。今の、なし。ちょっと余裕なくて」
「莉奈……?」
「今日の放課後、いつもの場所で話してもいい? ……瀬戸とのこと。去年のことも、全部」
冴は少し驚いたように目を見開いたあと、すぐにいつもの優しい顔に戻って「うん、もちろん。待ってるね」と頷いてくれた。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
ノートの隅に「瀬戸」と小さく書いて、すぐに黒く塗りつぶした。
放課後になれば、私はついに「去年の冬」の封印を解かなきゃいけない。
あの日、私と瀬戸の間に何が起きたのか。
どうして私たちは、名前を呼ぶことさえできない「他人」になってしまったのか。
昨日、あんなに震える指先で「公開」ボタンを押したのに。
登校して目にする学校の廊下は、驚くほどいつも通りで、昨日までの私と何一つ変わっていなかった。
「ねえ莉奈、昨日の公式配信見た? あのシーン、絶対バズるよね!」
隣で親友の冴が、楽しそうに笑いながら、私の腕を引く。
「あー、見た見た。凄かったよね」
「だよね!てか、移動教室だるー」
「うん」
私は短く相槌を打つ。視線はまっすぐ前を向いているつもりなのに、足が二組の教室に近づくにつれて、意識はどうしても左側――あのドアの向こうへと吸い寄せられていく。
(……瀬戸、いるかな)
無意識に、教室の中にあの背中を探してしまう。
五組から二組。たった三つ、数字が違うだけの教室。それなのに、今の私にとっては世界の裏側くらい遠い場所に感じられた。
その時、ガラガラと乾いた音を立てて、二組の教室のドアが開いた。
(……あ)
心臓が、喉の奥まで跳ね上がる。
出てきたのは、紛れもなく瀬戸だった。
でも、彼は一人じゃなかった。
隣には、色の白くて、低身長で守りたくなるような女の子。
その子と肩を並べて、顔をくしゃくしゃにして笑う瀬戸。
一年前、私の隣で笑っていた時と同じ……ううん、私の知らない、もっと柔らかくて楽しそうな顔。
「お前マジで? それはないわ」
聞き慣れた、でも少し低くなった優しい声。その声が、私の知らない女の子に向けられている。その事実だけで、立っている足元がふわふわと削れていくような感覚に陥った。
今の彼の瞳に映っているのは、隣で楽しそうに笑うその子だけ。
すれ違う瞬間、ふわりとシトラスの香りが鼻をかすめる。一年前、隣の席で嫌というほど嗅いでいた、私の大好きな匂い。
彼は一度もこちらを振り返ることなく、女子と楽しそうに廊下の向こうへと消えていった。
「莉奈? どうしたの、急に止まって」
隣で冴の声がして、私はようやく自分が呼吸を止めていたことに気づいた。
「えっ、あ、なんでもない。ちょっと、足がもつれちゃって」
「……本当に? 瀬戸のこと、見てなかった?」
冴の鋭い視線に、心臓が痛いくらいに跳ねる。
「見てないよ、そんなの」
私は嘘をついた。本当は、彼の視界の端にでも入りたくて、でも女子と楽しそうにする姿なんて一秒も見たくなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていただけなのに。
移動教室の理科室。実験の準備でざわつく教室内で、私はさっき廊下で見かけてしまった光景を、何度も何度も反芻していた。
瀬戸の隣にいた、あの髪の長い女子。
楽しそうに笑い合っていた二人の姿が、網膜に焼き付いて離れない。
「……ねえ、莉奈」
不意に隣から声をかけられ、肩が跳ねた。
見ると、冴が実験用具を片手に、じっと私を見つめている。その目は、冗談を言っているときのものじゃなかった。
「な、なに?」
「さっき、二組の前で。莉奈、瀬戸のこと見てたよね」
心臓がドクンと嫌な音を立てる。私は必死で表情を取り繕い、ビーカーを洗うふりをした。
「だから、見てないって。たまたまドアが開いたから……」
「嘘。莉奈、目が泳いでる」
冴は一歩、私の方へ距離を詰めた。周りの生徒たちの話し声にかき消されそうな、小さな、でも逃げられない声。
「……やっぱ、瀬戸となんかあったよね? 中1のときあんなに仲良かったのに、今じゃ挨拶もしないし。莉奈瀬戸のこと好きだったのに……。てか莉奈、まだ瀬戸のこと、好きなんでしょ?」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
「好き」なんて、そんな単純な言葉で片付けたくなかった。仲が良すぎたからこそ、一度ズレてしまった歯車をどう直せばいいか分からない。名前を呼ぶ勇気も出ないまま、ただの「他クラスの藤井」になってしまった今の自分が情けなくて。
「……なんでもないよ。冴には関係ないじゃん」
冷たく突き放すような言葉が、自分の口からこぼれ落ちた。
冴が少しだけ傷ついたような顔をして、「……そっか。ごめん」と短く視線を落とす。
(……最低だ、私)
瀬戸と女子が一緒にいたショックを、一番の親友にぶつけてどうするんだ。謝らなきゃいけない相手を、これ以上増やしてどうするの。
胸の奥がギュッと締め付けられて、私は慌てて冴の袖を軽く引いた。
「……ごめん、冴。今の、なし。ちょっと余裕なくて」
「莉奈……?」
「今日の放課後、いつもの場所で話してもいい? ……瀬戸とのこと。去年のことも、全部」
冴は少し驚いたように目を見開いたあと、すぐにいつもの優しい顔に戻って「うん、もちろん。待ってるね」と頷いてくれた。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
ノートの隅に「瀬戸」と小さく書いて、すぐに黒く塗りつぶした。
放課後になれば、私はついに「去年の冬」の封印を解かなきゃいけない。
あの日、私と瀬戸の間に何が起きたのか。
どうして私たちは、名前を呼ぶことさえできない「他人」になってしまったのか。
