月嶺寮を飛び出してどれくらい経っただろう。
「……頭、いたい……」
どれくらい泣いていたのか、もうわからなかった。
泣きすぎたせいで頭痛まで起こした間抜けなあたしから、床の冷たさが容赦なく体温を奪っていく。
気づけば日はとっくに暮れていて、月光が射場に差し込んでいた。
白く浮かび上がる木目の床に誘われるように立ち上がり、首だけを動かして、矢道の先にある安土を見る。
もう的は片付けられていて、土だけが残っている。
それでも、あたしは一度目を閉じ、呼吸を整えた。
精神を落ち着かせ、ゆっくりと射法八節をなぞる。
ゆがけも、弓も、矢もない。
――それでも、関係なかった。
無心という名の弓を引く。
今、あたしの心の真ん中を射抜いたのは、
疾風だった。
礼をして、静かに振り返る。
その視線の先に。
壁に寄りかかり、腕を組んだまま立っている疾風がいた。
「……盗み見料、とるわよ」
「ぼったくられそうだから、これで勘弁」
投げられたそれを受け取り、感触で正体がわかる。
あたしは射場を出て、疾風の横をすり抜け、荷物のある場所へ向かった。
心は落ち着いたけれど、今日は正直、うまく話せる自信がない。
上着を羽織り、鍵を差し出す。
「練習するなら鍵預けるね。あたし、もう帰るから」
「心」
「何?」
「さっきから、なんで俺の目見ねーの?」
「偶然じゃない?」
「心」
もう一度名前を呼ばれる。
と、同時に後ろ手を取られ、体を捩った拍子に、疾風の腕が背中から回ってきた。
「ちょ……相手、違うんじゃないの?」
「合ってる。お前が俺の恋人だろ?」
甘い響きに、もう騙されない。
そう決めたはずなのに、何も言えずにいると、耳元で疾風が囁いた。
「聞いてただろ。月嶺寮で、さっき浩輔と話してたこと」
――バレた。
「と、とにかく……離れて!」
「なんで?」
「恥ずかしいからに決まってるでしょ! バカ!」
体温と鼓動が直に伝わってきて、落ち着くどころじゃない。
一方の疾風は、くつくつと笑っている。
「落ち着けって。恭子とはちゃんと話して、別れたよ」
「……え?」
「『貴女の正々堂々は、いつ見られるんでしょうね』だってさ」
余計なことを、と内心で叫ぶ。
「なぁ、何の話?」
声に黒さを滲ませて、抱きしめる力が強くなる。
「それよりっ……疾風はどうなのよ!
告白するんでしょ?あたしに構ってる暇あるなら、さっさと行きなさいよ!」
「その話、自分のことだって思わないの?」
「…………は?」
眉間にしわを寄せると、疾風は呆れたように息をついた。
「ほんとガード固いな、お前」
肩に額を預けられ、思わず息が詰まる。
――期待させないでよ……。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ、そのとき。
掌の中に、確かな存在を感じた。
――消えてほしいと思った想い。
でも、溶かしていいなら……勇気を。
あたしは向き直り、正坐する。
疾風も同じように座った。
逃げ道を、自分で塞ぐみたいに。
背筋を伸ばし、呼吸を整えて、名前を呼ぶ。
「岡崎心は、槙島疾風が好きです。
以上っ!」
これが、あたしの正々堂々。
言ってしまえば、不思議と心は澄んでいた。
疾風は、案の定、笑いを堪えている。
「……心だな」
「もういい。あたしはスッキリしたし」
立ち上がろうとすると、腕を引かれた。
「返事、聞いてけ」
「結構です」
「主将命令。正坐」
……ずるい。
渋々座り直すと、疾風が言った。
「心、チョコレートをあげる」
口を開けろと示され、放り込まれる。
溶けかけたチョコの甘さと、息が絡む。
空気の隙間すら惜しむように、唇が何度も重なった。
「心が好きだ。
だから――本物の俺の彼女になってください」
夢みたいで、暫く呆けたのち、うなずくのが精一杯だった。
「浮気を知ったとき、理由はなんとなく分かった。
でも、射が乱れたのは……心との折り合いに苦労したから」
「どういう意味?」
「いつの間にか、恋愛対象になってた」
「……遅い」
「他の男と話してる時、心の中の的が俺から外れてる気がして、気が気じゃなかった」
「……何よそれ」
やっと現実味がわいてきた。
抱きしめてくれる疾風の背中に、ぎこちなく腕をまわす。
体中の血が滾るように、熱く溶けそうな想いを伝えるように、ぎゅっと抱きしめた。
この温もりが、消えてしまわないように。
あたしは、離れがたくなることを初めて知った。
* * *
その後、古川さんにも新しい想い人ができたと聞いた。
きっと、あのときの気持ちも嘘じゃなかった。
二人の恋の結末は、二人だけのもの。
ただただ、幸せなものであってほしいと願う。
「チョコ、苦いね」
「それも含めて、だろ」
今日は二月十四日。
「はい」
いつものチョコをひとつ渡す。
「さっきのと同じだろ」
「違う。ちゃんと買った」
「一個だけ?」
「……あとで説明します」
疾風の部屋で、隣に座る。
「は、……はやて」
「なに?」
「あたし……覚悟、決めてきたから」
一瞬驚いたあと、疾風は吹き出した。
「果たし状みたいだな」
「うるさい……余裕なのも今のうちよ
…………後悔しても知らないから」
頬を掴まれ、またチョコを口に入れられる。
「ありがたく、いただきます」
あたしの恋は、チョコレートみたいだ。
甘くて、苦くて、
そして――とても甘い。
飲み込めないほど苦かったあの日も、
今は――
溶けて消えてしまわないように、
大切に味わいたい。
Bitter Sweet。
「……頭、いたい……」
どれくらい泣いていたのか、もうわからなかった。
泣きすぎたせいで頭痛まで起こした間抜けなあたしから、床の冷たさが容赦なく体温を奪っていく。
気づけば日はとっくに暮れていて、月光が射場に差し込んでいた。
白く浮かび上がる木目の床に誘われるように立ち上がり、首だけを動かして、矢道の先にある安土を見る。
もう的は片付けられていて、土だけが残っている。
それでも、あたしは一度目を閉じ、呼吸を整えた。
精神を落ち着かせ、ゆっくりと射法八節をなぞる。
ゆがけも、弓も、矢もない。
――それでも、関係なかった。
無心という名の弓を引く。
今、あたしの心の真ん中を射抜いたのは、
疾風だった。
礼をして、静かに振り返る。
その視線の先に。
壁に寄りかかり、腕を組んだまま立っている疾風がいた。
「……盗み見料、とるわよ」
「ぼったくられそうだから、これで勘弁」
投げられたそれを受け取り、感触で正体がわかる。
あたしは射場を出て、疾風の横をすり抜け、荷物のある場所へ向かった。
心は落ち着いたけれど、今日は正直、うまく話せる自信がない。
上着を羽織り、鍵を差し出す。
「練習するなら鍵預けるね。あたし、もう帰るから」
「心」
「何?」
「さっきから、なんで俺の目見ねーの?」
「偶然じゃない?」
「心」
もう一度名前を呼ばれる。
と、同時に後ろ手を取られ、体を捩った拍子に、疾風の腕が背中から回ってきた。
「ちょ……相手、違うんじゃないの?」
「合ってる。お前が俺の恋人だろ?」
甘い響きに、もう騙されない。
そう決めたはずなのに、何も言えずにいると、耳元で疾風が囁いた。
「聞いてただろ。月嶺寮で、さっき浩輔と話してたこと」
――バレた。
「と、とにかく……離れて!」
「なんで?」
「恥ずかしいからに決まってるでしょ! バカ!」
体温と鼓動が直に伝わってきて、落ち着くどころじゃない。
一方の疾風は、くつくつと笑っている。
「落ち着けって。恭子とはちゃんと話して、別れたよ」
「……え?」
「『貴女の正々堂々は、いつ見られるんでしょうね』だってさ」
余計なことを、と内心で叫ぶ。
「なぁ、何の話?」
声に黒さを滲ませて、抱きしめる力が強くなる。
「それよりっ……疾風はどうなのよ!
告白するんでしょ?あたしに構ってる暇あるなら、さっさと行きなさいよ!」
「その話、自分のことだって思わないの?」
「…………は?」
眉間にしわを寄せると、疾風は呆れたように息をついた。
「ほんとガード固いな、お前」
肩に額を預けられ、思わず息が詰まる。
――期待させないでよ……。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ、そのとき。
掌の中に、確かな存在を感じた。
――消えてほしいと思った想い。
でも、溶かしていいなら……勇気を。
あたしは向き直り、正坐する。
疾風も同じように座った。
逃げ道を、自分で塞ぐみたいに。
背筋を伸ばし、呼吸を整えて、名前を呼ぶ。
「岡崎心は、槙島疾風が好きです。
以上っ!」
これが、あたしの正々堂々。
言ってしまえば、不思議と心は澄んでいた。
疾風は、案の定、笑いを堪えている。
「……心だな」
「もういい。あたしはスッキリしたし」
立ち上がろうとすると、腕を引かれた。
「返事、聞いてけ」
「結構です」
「主将命令。正坐」
……ずるい。
渋々座り直すと、疾風が言った。
「心、チョコレートをあげる」
口を開けろと示され、放り込まれる。
溶けかけたチョコの甘さと、息が絡む。
空気の隙間すら惜しむように、唇が何度も重なった。
「心が好きだ。
だから――本物の俺の彼女になってください」
夢みたいで、暫く呆けたのち、うなずくのが精一杯だった。
「浮気を知ったとき、理由はなんとなく分かった。
でも、射が乱れたのは……心との折り合いに苦労したから」
「どういう意味?」
「いつの間にか、恋愛対象になってた」
「……遅い」
「他の男と話してる時、心の中の的が俺から外れてる気がして、気が気じゃなかった」
「……何よそれ」
やっと現実味がわいてきた。
抱きしめてくれる疾風の背中に、ぎこちなく腕をまわす。
体中の血が滾るように、熱く溶けそうな想いを伝えるように、ぎゅっと抱きしめた。
この温もりが、消えてしまわないように。
あたしは、離れがたくなることを初めて知った。
* * *
その後、古川さんにも新しい想い人ができたと聞いた。
きっと、あのときの気持ちも嘘じゃなかった。
二人の恋の結末は、二人だけのもの。
ただただ、幸せなものであってほしいと願う。
「チョコ、苦いね」
「それも含めて、だろ」
今日は二月十四日。
「はい」
いつものチョコをひとつ渡す。
「さっきのと同じだろ」
「違う。ちゃんと買った」
「一個だけ?」
「……あとで説明します」
疾風の部屋で、隣に座る。
「は、……はやて」
「なに?」
「あたし……覚悟、決めてきたから」
一瞬驚いたあと、疾風は吹き出した。
「果たし状みたいだな」
「うるさい……余裕なのも今のうちよ
…………後悔しても知らないから」
頬を掴まれ、またチョコを口に入れられる。
「ありがたく、いただきます」
あたしの恋は、チョコレートみたいだ。
甘くて、苦くて、
そして――とても甘い。
飲み込めないほど苦かったあの日も、
今は――
溶けて消えてしまわないように、
大切に味わいたい。
Bitter Sweet。



