BitterSweet

まわりの喧騒が、ぴたりと止まった気がした。
耳に残るのは、彼女の声だけ。
 
「な……なんで……」
 
震える声でこぼすと、古川さんはブランコの鎖を、ぎゅっと握りしめたまま続けた。
 
「もう知ってるんでしょ? 私が……その……浮気していたこと。
疾風に見られた次の日、彼から電話がありました」
 
――あの日だ。
公園で、疾風と話したとき……。
 
「『しばらく距離を置こう』って。
『お互いリーグ戦があるから、話はそれからだ』って」
 
あたしは何も言えず、俯いた。
冷たい鎖の感触が、少しずつ体温でぬるくなっていく。
 
「別れたくなくて、必死で謝りました。でも……彼は何も言ってくれなくて。
……私、疾風が好きです。でも、彼は……私のこと、好きじゃない気がして……」
 
「……なんで、そう思うんですか」
 
「同じ部活で繋がっていて、ずっと一緒にいたのに……
疾風は、楽しそうで……夢中で……」
 
「でも、あいつよく
『明日デートどこ行こっかな~』って……ノロケてましたよ?」
 
なぜフォローしなきゃいけないのか。
そう思いながら、言葉が先に出ていた。
 
古川さんは、首を激しく振る。
 
「違います……。
私といても……疾風の心は、岡崎さん――貴女に向いていたんです」
 
声は涙に混ざり、やがて嗚咽に変わった。
 
「隣に立って、一緒に弓を引いて……
『信頼してる相棒だ』って言われて。
……それ以上に想っている気がして、耐えられなくなったんです……」
 
「……だから、浮気したんですか」
 
鎖を、強く握りしめる。
 
「さみしかった……! 怖かったんです……!
貴女に、とられるんじゃないかって……!」
 
「……それで?」
 
自分でも驚くほど、低い声だった。
 
「私は……凛とした岡崎さんが羨ましかった。
あの電話で、気づいたんです。疾風は、貴女と恋人に――」
 
「なんで、そんなこと言うんですかっ!」
 
感情が、弾けた。
視界が滲み、涙が頬を伝う。
 
「疾風は……あなたを、大切にしてた。
あんなに、愛情を向けられてたのに……!」
 
胸が、張り裂けそうだった。
自分が想っている人が、どれほど目の前の女の子を想っていたかを、
自分の口で語るなんて――これ以上、惨めなことはない。
 
涙も拭かず、古川さんの肩を掴む。
 
「どうして信じてあげないんですか?!
あなたが信じないっていうなら、あたしが奪い去ってやりたいっ……でも、あのバカは……
“現場”を見ただけで、あそこまで心を乱すんです!
今も……彼女は、あなたなんですよっ!」
 
黒水晶みたいな瞳に、歪んだあたしが映っていた。
 
「あたしは……
どんなに頑張っても、“彼女”になれなかった……!」
 
――敵に塩を送る義理なんて、ないのに。
 
「はっきり言います。
疾風とあたしは、まだ恋人じゃありません。
でも……好きです。リーグ戦が終わったら、告白します」
 
「……なんで……」
 
「……フェアじゃ、なかったから」
 
そう言って一礼し、あたしは立ち上がった。
振り返らず、前だけを見て歩き出す。
ひとりになりたかった。

 

それからも試合は続き、男女ともにリーグ優勝を果たした。
もともと大野井大学とはリーグのランクが違うので、あの日以来、古川さんと顔を合わせることはない。
 
気にならないと言えば嘘になるけれど、疾風を見る限り、何か揉めているようにも見えなかった。
 
――あんまり、あたしから触れないほうがいい、か
 
そう思いながら、あたしも“いつも通り”を装って日々を過ごした。
 
残暑が厳しかったあの頃から季節は進み、秋も終わりかけ。
リーグ優勝の証である盾が、正式に贈られてきた。
 
「これで、リーグ戦も終わりだなぁ……」
 
「和泉たちもお疲れ様。今年は男女ともに大健闘だったね」
 
雫は雑記帳に今日の練習内容を書き留めている。
和泉は備品のチェックをしながら、時々ちらっと視線を送っていた。
やがて、雫がペンを置き、ぱたんとノートを閉じる。
「さて。今ここにいるのは、和泉と心ちゃん、私の3人です」
 
「う……うん。ど、どうしたの?」
 
「『どうしたの?』じゃないよ。疾風くんとは、どうなったの?」
 
「あー……」

どうしたもこうしたもない。
試合は終わったけれど、そのあと弓道連盟の集まりやら何やらで、リーグ戦関連の仕事がすべて片付いたのが今日。
“フリ”を始めるなら、今日か明日の、はずだった。

……でも、肝心の疾風は、今日は部活を休んでいる。
学部の友達である名取と一緒に、レポートを片付けるとか、なんとか。

「まぁ、俺が言うのもなんだけどさ。お前ら、お似合いだと思うぞ♪」
 
「和泉、軽々しくそういうこと言わないの。……私もそう思うけど♪」
 
「あんた達ねぇ……」
 
にやにや笑う双子に、どの雑務を押しつけてやろうかと考えていたら、ポケットの中でバイブが震えた。
 
「メッセージ……げっ、名取だ」
 
噂をすれば……とはよく言ったものだ。
届いたのは、意味のわからない一文。
 
『今すぐ月嶺寮に来い。3階の一番奥の部屋。静かに、気づかれないようにドアの前にいろ』

「ちょっと月嶺寮、行ってくる」
 
「あ、じゃあ鍵預けるわ。俺らもう帰るから。最後の戸締まり、よろしく」
 
和泉から鍵を受け取り、あたしは道場を後にした。
月嶺寮――短大のピアノ練習室が並ぶ建物の、あだ名。
廊下には、いくつもの旋律が重なり合って流れている。

――そういえば、ここって短大専用じゃなかった? なんでアイツが中まで入れるんだか。

ぶつぶつ文句を言いながら、示された3階の一番奥の部屋を目指す。

『静かに、気づかれないようにドアの前に来い』
 
――盗み聞きなんて趣味、あたしにはないんですけど。
意味がわからない。
 
でも、ここで行かないと、後からぐちぐち言われる姿が目に浮かぶ。それはそれで癪だ。
初めて来る場所だったけど、名取の指定はわかりやすかった。
 
――3階の一番奥……ここだ
 
そっと足音を忍ばせてドアに近づき、古い木のドアを、コンコン、と小さく二回ノックする。
中から、突然ピアノの音が止まり、声が聞こえた。
 
「おい、誰か来たぞ」
 
「黙ってろって。ピアノ弾いてるからいーんだよ」
 
横柄な口ぶりは、間違いなく名取。
もう一人の声は――疾風だ。
 
――課題やるって言ってたくせに。何やってんのよ、ホント。
 
呆れながらスマホを見ると、またメッセージが届いていた。送り主は、もちろん名取。
 
『気づかれないように、そのままドアの前にいろ』
 
――付き合ってられないっての……。
 
――聞きたくない。
でも、足が動かなかった。
その場から離れようと、ゆっくり腰を上げかけた瞬間。
名取の言葉に、身体が金縛りにあったみたいに固まった。
 
「古川……だっけ? その彼女と、どうなったんだ?」
 
「浩輔にしては珍しい質問だな。そういうの、興味なかったんじゃ?」
 
「今度は俺がお前の恋路にお節介してやろうと思ったんだよ」
 
「どうりで。お前が『ピアノ聴かせてやる』なんて言うから、怪しいとは思ったんだけどな」
 
行儀が悪いと分かりつつ、あたしは息を潜めたまま耳を澄ます。
 
名取は、愉快そうな曲を指先で転がし始めた。
 
「そういう対象になったのに、進展ナシかよ。どうすんだ?」
 
「恭子とは、この前別れた」
 
疾風の言葉に、心臓が大きく脈打つ。
制服の上から、ぎゅっと胸元を掴んだ。
 
――別れたんだ……。
 
じゃあ、フリもしなくていい。……よかった、はずなのに。
 
ああ、最悪だよ、心。
フリでもよかったから、“恋人”になりたかったなんて。
そんな自分が最低すぎて、笑える。
 
前に古川さんが言っていた。
 
『凛とした岡崎さんが羨ましかった』と。
 
そんなことないよ、古川さん。
あたしは、卑怯で、狡くて、卑しい人間だ。
偽りだと分かっていても、疾風の“彼女”になりたかった。
 
自己嫌悪の嵐に飲み込まれそうになったとき、名取の声が、やけに大きく響いた。
 
「あっそ。じゃ、その“そういう対象”とやらの元に、さっさと行けよ。カノジョにするんだろ?」
 
――えっ?!
え……今、“カノジョ”って……。
疾風、好きな人、いたの……?!
 
不安で、鼓動がさらに早くなる。
そこに、追い打ちをかけるように、疾風の声が落ちた。
 
「言われなくても、今から行くとこだっての。でも、あいつガード固いからなぁ、部のことになると周りが見えなくなるからな」
 
――ウソ……今から、告白するの……?
 
「疾風、今の自分のツラ、鏡で見てみろよ。すげー底意地悪いぞ」
 
「浩輔にだけは言われたくないね。結ちゃんも可哀想に。こんな奴に引っかかるなんて」
 
「へぇー? そう言ってる間に、そのカノジョ、逃げるかもしんねーぜ? そうなったらそうなったで、俺はおもしれーけどな」
 
「は? 何だよそれ」
 
疾風が問い返しても、名取はくつくつ笑うばかり。
この先に何を言うつもりなのか――聞く勇気なんて、あたしにはなかった。
 
疾風が誰を好きになったのか。
怖くて、聞きたくない。
 
ふらついた足元に、水滴が跳ねた。
堪えきれなくなった恋の痛みに、あたしは泣くことしかできなかった。
 
――もう……いい。帰ろう。
 
荷物を道場に置きっぱなしで、鍵まで任されている。
億劫な足取りで、あたしは道場へと戻った。
 
「名取のヤツ……明日会ったら、シメてやる」
 
何のために呼び出されて、盗み聞きさせられたのか。
もしかして、ワザと聞かせた……? 

真意は最後まで分からないままだった。
 
勝手に解釈するなら――
 
『疾風には他に好きな奴がいる。お前は諦めろ』
 
そう言いたかったのかもしれない。

 
――うるさい。そんなこと、言われなくても分かってるってば。
 
 
それでも。
 
疾風が好きだという、この気持ちは止まらない。
ずっと抱えてきた想いだ。
時間が解決するというのなら、
あとどれくらいの時間を積み重ねればいいんだろう。
 
「……チョコレートみたいに、簡単に溶けて消えてくれればいいのにっ……」
 
誰もいない静かな道場で、
あたしはひとり、泣き伏した。