ハルと初めて会った日のこと、今でもハッキリ覚えている。
あの日はまるで、私の気持ちを表したような雨だった。
悲しくて、悔しくて、寂しくて。
トボトボと歩いていた帰り道、箱の中で小さく鳴いていたハルを見つけたんだ──。
***
殺風景でまだ慣れない部屋。
段ボールの中からひとつずつ荷物を出して、真新しい制服を壁にかけた。
赤いリボンのセーラー服。
明日からこれを着るんだと思うと胸の奥がギュッと狭くなって、ふぅと息を吐いた。すると、
「結芽ちゃん、おやつにしないかい?」
一階から優しいおばあちゃんの声が聞こえてきて、ベッドの上ですやすやと眠っていたハルの頭を撫でてから、「はーい」と返事をした。
「片づけはどう?進んだ?」
美味しそうなパウンドケーキと一緒に、オレンジジュースを置いてくれたおばあちゃん。
「もうほとんど終わったよ」
海辺の小さな町の、赤いレンガの屋根がかわいい一軒家。
母方のおばあちゃん家であるここが、今日からわたしの住むところ。
小林結芽、十三歳。
わたしが中学二年生になってすぐ、パパのアメリカへの転勤が決まった。
期間は長くて二、三年。いずれ日本へ戻ってくることは決まっていて、わたしは日本に残ることに決めたんだ。
でも、さすがに中学生の女の子が一人暮らしなんて出来なくて、そんなわたしを預かってくれると言ってくれたのが、おばあちゃん。
「クゥーン」
ダイニングテーブルの椅子に腰かけたわたしの足元から、甘えるような、何かを訴えるような声が聞こえて視線を落とす。
すると、ふわふわな茶色の毛をした犬がパタパタと尻尾を振ってこっちを見ていた。
「あっ、おばあちゃん、ハルにもおやつあげていい?」
「もちろん」
おばあちゃんが差し出してくれた、個包装のジャーキーの袋を開けて、床に置く。
「待て」
わたしが声をかけると、さっきよりも一層尻尾をパタパタさせて、落ち着かない様子で『おすわり』を続けるハル。
クスッと小さく笑ってから「よし」と言うと、ハルは待ってましたとばかりにジャーキーを咥えた。
ハルは一年前、わたしが中学生になったばかりの頃に、捨てられているのを見つけて飼うことになったんだ。
当時は本当に小さな小さな仔犬だったけど、今は小型犬の成犬くらいには大きくなった。
「かわいいねぇ」
ホットコーヒーの入ったマグカップを私の向かいに置いて、おばあちゃんが腰かける。
「ハルも一緒に預かってもらって犬大丈夫だった?」
「全然。むしろ嬉しいよ。渚も犬が好きだったから、喜んでるよ」
そう言って目尻を下げる、おばあちゃんの視線の先には仏壇。
そこにはおじいちゃんと、お母さんの遺影。
わたしが三歳のころに、お母さんは病気で亡くなった。
あまり多くの記憶はないけれど、優しく微笑む遺影のとおり、穏やかな人だった気がする。
「そういえば、桜海中学校は渚の母校なんだよ。明日から大丈夫そうかい?」
「う、うん……大丈夫」
急に出た学校の話題に、笑顔を咄嗟につくるけど、『大丈夫』なんて、嘘だ。
本当は明日から新しく通う学校のことなんて思い出したくないくらい、緊張している。
おばあちゃんの家から徒歩20分くらいの距離にある、海辺の小さな町の中学校。
クラスの人数は三十人にも満たなくて、友達同士の結束が固そう。
今は五月で、新学期はとっくに始まっていて、わたしは言わば余所者だし、きっと浮いちゃうんだろうな……。
そんなことを考えていたら、不安が顔に出てしまっていたみたい。
「心配しなくても、きっと大丈夫だよ」
おばあちゃんは静かに微笑んでくれた。
***
「東京から引っ越してきました、小林結芽です。どうぞよろしくお願いします」
先生によって紹介されたあと、わたしは自己紹介をしてペコっと頭を下げた。
今日から通う桜海中学校。
校舎は思っていたよりも古くて小さくて、そこがアンティークみたいで逆にかわいい。
開け放った窓からは新緑が広がっていて、自然に囲まれた学校って感じ。
三月頃には満開の桜がとても綺麗なんだと、おばあちゃんが教えてくれた。
東京の学校よりずっと空気が良いのを感じる……けれど、今はとにかく緊張して、それどころじゃない。
「じゃあ小林さんは一番後ろの、浅間さんの隣の席ね」
先生がそう言うと、浅間さんという人が「こっちだよ」とばかりに、手を振ってくれた。
「はじめまして。あたし、浅間咲っていうの。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします……」
ショートカットの似合う、ひまわりみたいな明るい笑顔の女の子。
「東京から来たら、田舎すぎてびっくりでしょ?」
「え、そんなこと……」
「わからないことがあったら何でも聞いてね」
ニコッと微笑んでくれて、ホッとする。
良かった、隣の席の浅間さんは悪い人じゃなさそう。
朝からずっと緊張しっぱなしだったけど、ほんの少し気持ちが解れた……のは、つかの間だった。
「小林さんって、東京に住んでたんでしょ?」
「なんでこんなとこに来ることになったの?」
「やっぱ芸能人って見たことあるの?」
朝のホームルームが終わるとすぐ、クラスメート達に囲まれた。
「え、えっと……」
もしかしたら、他のクラスの人もいるのかもしれない。
あちこちから飛んでくる質問に目が回る。
そんなわたしを助けてくれたのは、浅間さんだった。
「ちょっと、質問責めにするから小林さん困ってんじゃん!」
「えー、だってぇ……」
「だってじゃないよ。転校してきたばっかで慣れないのに、みんなでそんなに質問してたら迷惑でしょ。はい、とりあえず散った散った!」
浅間さんが手を叩いて声をかけると、「えー」と少し不満げな声を上げながらも、みんな離れていってくれた。
「あ、ありがとう……」
「ううん、全然。ていうか、困らせちゃってごめんね。なんていうか、みんな小林さんと仲良くなりたいだけで、悪気があるわけじゃないから」
浅間さんの言葉にコクンと頷きながら、少し複雑な気持ちになる。
仲良くなりたいだけ、か……。
そう思ってくれているなら嬉しい。でも……。
机の下に隠したわたしの手は、少し震えていた。
***
浅間さんは面倒見の良い性格みたいで、わたしのことを何かと気にかけてくれた。
それは、お弁当を食べるときも……。
「咲!今日はこっちで食べよー」
「りょうかーい」
他のクラスメートに呼ばれて、ランチトートを片手に離れようとした浅間さんだったけど、
「あ、小林さんも一緒に食べない?」
「え?」
声をかけられて、わたしはピタッと固まる。
「いや?」
「えっ、ううん!嫌じゃないよ!嫌じゃない……けど」
浅間さんに声をかけられたクラスメートの方をチラリと見ると、何人かの女子が机を合わせて準備していた。た。
あの中にわたしが入っていって邪魔にならないのかな……。
「えと、ごめん。ちょっと先生に呼ばれたりしてるから……」
気付けば咄嗟についていた嘘。
「そうなの?」
「うん、ごめんね」
わたしは逃げるように、お弁当の包みを持って教室を出た。
わたし、何をやっているんだろう……。
行くあてもなく廊下を歩きながら、ため息をついた。
半日ほど学校で過ごしてみて、浅間さんがとても良い人だということは分かった。
でも、だからこそ……仲良くなるのが、怖い。
みんなの輪の中に入っていく勇気がない。
とりあえず、お昼ごはんどうしよう。
今更教室に戻るわけにもいかないし……。
あ、屋上とかって開いてないのかな?
引っ越す前の学校では、屋上は立ち入り禁止だった。
たぶん普通はどこもそうなんだろうけど、小さい学校だし『もしかしたら』の期待を胸に階段を上がる。だけど、
「やっぱり無理かぁ……」
屋上へと続くであろうドアは、当然のように鍵がかかっていた。
ガックリと肩を落とし、登ってきたばかりの階段を降りようとして、ハッとひらめく。
ここでお弁当食べちゃえばいいんじゃない?
辺りはしんと静まっていて、ここなら誰かが来る心配はなさそう。
うん、そうしよう。
さっさと食べちゃおう。
そう決めたわたしは、そのまま隠れるように踊り場に座り込んで、膝の上でお弁当を開いた。
おばあちゃんが作ってくれたお弁当。
おかずの内容は少し古風だけど、煮物のにんじんがお花の形になっていたりしていて、かわいい。
どれも本当に美味しくて、せっかくなら外で食べたかったなぁ……なんて、思っていた時だった。
トントントン……。
急に聞こえてきた、誰かが階段をのぼってくる音。
えっ、誰?先生?
慌てて箸を下ろすけど、逃げることなんてできなくて、その人はあっという間にわたしのいるところまで登ってきた。
「……あれ?転校生?」
わたしを見て少し驚いた顔をしたその人は、先生ではなかった。
学ランを着た男子生徒。
わたしのことを知ってる……?
不思議に思ったのが顔に出ていたのかもしれない。
「あー……俺、橋本。あんたと同じクラスの橋本碧橋本碧」
自己紹介をしてくれて、わたしはやっと彼がクラスメートだったことに気付く。
でも、わたしが返事をする前に声をかけてきたのは橋本くん。
「で、なんで転校生がこんなとこでぼっち飯してんの?咲が声かけてなかった?」
「あっ、えっと、それは……」
痛いところを突かれて口ごもる。
「なに、あんた友達とか作りたくない系?」
「つ、作りたくないわけじゃないけど……」
こんなに直球で聞いてくる人は初めて。
「まあいいや。あんた面倒くさそうだから、俺別んとこ行くわ」
ため息混じりに吐き捨てて、橋本くんは階段を降りていった。
な、なにそれ……。
「面倒くさそうとか、そんな言い方しなくても……」
橋本くんに対し、少しムッとする。
だけどそれは間違ってはいなく、胸の奥がズキンと痛んだ。
他人に言われなくても、わたしが一番自分自身のことを面倒くさいと思ってる。
でも……怖いんだもん。
『結芽のこと信じてたのに!嘘つき!大っ嫌い!』
大好きな人に言われた言葉。
その声も表情も鮮明に覚えていて、思い出す度に泣きそうになる。
友達になったって、いざという時にわたしのことなんか信じてくれない。
あんな思いをするくらいなら、もう友達なんていらないよ──。
***
「ただいまー」
転校初日をなんとか無事に終え、玄関のドアを開けた瞬間、ハルが飛びついてきた。
「ちょっとハル、くすぐったいよ」
尻尾をこれでもかというくらい振りながら、わたしの顔をペロペロと舐めるハル。
「あらあら、ハルは結芽ちゃんが大好きなのね。おかえり」
「ただいま!ハル大丈夫だった?」
「うん、すごく良い子にしてたよ」
夕飯の支度をしていたのか、エプロンで手を拭きながら、ハルの次に迎えてくれたおばあちゃん。
留守番中にハルが、おばあちゃんに迷惑かけないかだけが心配だったけど、良い子にしていたと聞いてホッとする。
「おやつ用意してるから着替えておいで」
「うんっ!」
優しいおばあちゃんの笑顔に、わたしはハルを抱きかかえて大きく頷いた。
「慰めてくれるの……?」
わたしが手を伸ばせば、自ら寄ってきて、尻尾を振りながら頬を擦り付けるハル。
「ハルは優しいね」
あの日……ずっと親友だと思っていたひまりちゃんに絶交されたあの日の帰り道。
降りしきる雨に濡れ、か弱く鳴いていたハルを見つけた。
その姿は自分と重なるようで、思わず抱きしめていた。
あの日から、わたしとハルはずっと一緒。
ひまりちゃんとのことで学校に行くのがつらい日も、ハルのおかげで頑張れた。
家に帰ればハルが待ってくれている。
それがわたしのたったひとつの心の支えだった。
「ハルが一緒に学校に行けたらいいのに」
そうしたら、もっと頑張れそうな気がするのに。
なんて、無理な話だけど……。
優しくハルの鼻筋を撫でると、スゥッとハルは目を閉じて。
いつの間にかわたしも眠っていた。
そして、翌朝──。
「結芽ちゃん、結芽ちゃん起きて!結芽ちゃん!」
もう少し眠っていたい。
そんなわたしを、誰かが揺さぶりながら起こす。
「あと5分だけー」
布団を頭まで被って抵抗しようとするけれど、
「結芽ちゃん!」
布団は誰かによってガバッと剥がされた。
「んー、もう何……おばあちゃん?」
まだ眠い目を擦りながら、ゆっくりと身体を起こす。
おばあちゃんの声って、こんなに可愛かったっけ?
そんなことを考えながら、目の前にいる人の顔を見て、
「う、わぁっ!?」
わたしは心臓が止まるくらいに、びっくりした。
だって、わたしから剥がした布団を持ち、目の前にたっていたのは……知らない男の子。
しかも裸。
……はだかっ!?
「きゃっ、きゃーっ!?」
わたしは家が揺れるんじゃないかってくらい、全力で叫んだ。
なっ、なんで知らない男の子がいるの
「結芽ちゃん?」
なんでわたしの名前を知ってるの?
「はっ、ハルどこっ!?どこにいるの!?」
いつもなら隣にいるはずのハルがいないことに気付いて、助けを求めるように辺りを見渡すけど、その姿はどこにもない。
ハルがいたら、威嚇して吠えるはず。
だけどわたしが目覚めるまで、ハルの鳴き声は聞こえなかった。
もしかして──。
「あなたっ」
「結芽ちゃん!おはようっ!」
ハルをどこにやったのか、問い詰めようとした。
だけどそれより先に男の子はこっちに身を乗り出して、とても嬉しそうに笑った。
あ、あれ……?
目の前には同い年くらいの男の子。
黒い大きな目が女の子みたいに可愛くて、ふわふわした茶色の髪。
全然知らない、今日初めて会った男の子。
でも……わたしはこの子を知っている。
こんなこと、あるはずない。
あるはずないけど、わたしは手を伸ばして……彼の頬に触れた。
「もしかして……ハル?」
「なあに?結芽ちゃん」
にっこりと笑って、返事をする男の子。
え、待って……本当に?
信じられなくて目をパチパチさせていると、
「すごい声が聞こえたけど、どうしたのっ?」
おばあちゃんがとても慌てた様子でドアを開けた。そして……。
「……え?」
わたしの前に立っている男の子を見て、目を丸くした。
「ど、どうしよう、おばあちゃん。ハルが……人間になっちゃった!?」



