あなたはだれ?

「きゃ!」
 いきなり手を引かれて、私は悲鳴を上げた。
「ぼーっとしてると危ないだろ?」
 先輩が私の手を握っていた。
「はぐれでもしたら困るしな」
 先輩は歩調を緩めることなく、私を引っ張っていく。
「映画、見たいんだろ? 急ぐぞ」
 先輩から手をつながれたのは初めてだった。
 いつもは「手をつないでもいいですか?」と私からお願いをしてつないでもらっていたのだ。
 やっぱり変だ。一昨日ぐらいからだと思う。乱暴になったというか、いつもの笑顔だけの先輩でなくなった。
「どうした? また俺怖い顔してるか?」
「い、いえ。あの、なんとなく先輩、態度が変わったような気がして……」
 先輩は歩みを止めた。
「そう、か? 心配してるのか?」
「は、はい」
「べ、別に心配することなんかないから。ま、例えば俺がどんな顔をしていようが、恭子を好きなのは変わらないから。な?」
「は、はい!」
 なんだか凄いことをさらりと言われて、私はどきどきしてしまった。先輩から好きと言われたのは初めてかもしれない。
 映画館でますます私は困惑した。
 先輩は無防備に寝ていたのだ。
(寝るなんてこと今までなかった。疲れてるのかな、先輩)
「先輩、疲れてますか?」
 映画館を出るときに声をかけると、先輩は豪快なあくびをしながら答えた。
「え? ん、まあ、疲れてるかな」
「映画、退屈でした?」
「い、いや、そんなことはない。疲れていただけだ」
「そうですか」
 私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「いえ、先輩って欠点がないような方だと思っていたので、映画館で寝ている先輩を見て、なんだか可愛いなと思って」
 先輩には可愛いという形容詞は似合わないと私は思っていた。今日までは。
「か、可愛い?! そんなこと言われて喜ぶ男はいないぞ?」
 先輩は困惑気味にそう言った。それがますます可愛らしい。
(あ、まただ)
 それに、この数日で気づいた先輩の癖。額の汗を袖で拭う癖。
(どうしてこんなに変わったのかな? 今まで緊張されてたのかな。それで疲れちゃったとか)
 それはまさに自分のことだがそんな風に考えてみる。
(わからない)


***

 それからも先輩は以前と違う、と感じる数日が過ぎた。
 ボーリングで以前はストライクをとっても涼しげな笑顔を見せていた先輩が、今は子供のような笑顔になって喜んでいる。
 そう、何が一番変わったかというと笑顔だ。
 綺麗、という形容詞が最も似合う笑顔だった先輩。今は本当に楽しそうに笑っている。
 不機嫌な日は表情にそれが出ているし、なんだか以前よりも身近に感じられるようになった。そして、態度はそっけないけれど、優しいことには変わりない。
 ある日、私は聞いてみた。
「先輩。どうして先輩は書道が好きなんですか? スポーツもできるのに、書道部に入られたのはなぜかなって」
「書道? あ、ああ、精神統一ができるからかな。落ち着くというか……」
 先輩はちょっと困ったように答えた。
「そう、ですか」
(何だろう。違和感……)
「それより、恭子、行きたいところないのか?」
 いつも先輩ばかりに任せていた私。
「水族館に行きたいです」
「よし。じゃあ、水族館に行こう」
 閉館ぎりぎりの水族館。先輩は魚に意外と詳しいようで、説明をしてくれた。それに、どの魚を見るときも楽しそうだった。私はある衝動にかられた。
「先輩。先輩の一番好きな魚は何ですか?」
「サメ。綺麗な形しているよな。恭子は?」
 筒状の水槽で悠々と泳ぐサメを見つめながら先輩は言った。
「私はイルカ」
「イルカは哺乳類だぞ?」
「し、知ってます!」
 指摘をされ、私は顔を赤らめて言い返してしまった。そんな私に先輩は楽しそうに笑っている。
「もう! 本当に知ってるのに」
 ふてくされる私の頭を先輩はぽんぽんと叩いた。
(う、嬉しいかも……)
 私はされるがままになっていた。
 だが。
 私は先輩に聞いた。
「じゃあ、動物はどうですか?」
「動物? チーターかな。足が速いし、あの引き締まった体つき、模様、獲物を狩るときの姿、どれもが美しいと思うね」
 先輩は迷わず答えた。
「……。そうですか」


 いつも駅前で先輩と私は別れる。私は遠ざかる先輩の背中を見る。毎日のこと。先輩は振り返ることはない。でも見てしまう。
 その日もそうだった。
 だが。
 先輩が振り返った。そして私の方に戻ってくる。
「何してるんだよ? もしかしていつもこうやって見てたのか? 寒いだろ、早く行けよ」
「でも電車の時間まだですから」
「それを早く言えよ。ちょうど自販機がある。恭子は何飲む? コーヒー?」
 私は少し傷ついた。先輩は私がコーヒーが苦手なことを覚えていなかったのだ。
「えっと、ココアで」
「ん、待ってて」
 先輩は自分の分の紅茶と私のココアを買って持ってきた。
「先輩、紅茶好きなんですか?」
「ああ。ただ、売ってるのは甘いから本当は家で飲みたいけどな」
「あの、コーヒーは?」
「あまり飲まない」
 先輩はその日以来駅前で電車がくるまで一緒にいてくれるようになった。 
 バレンタインは明後日だ。
 私は迷い始めていた。筆を買うか、リストバンドを買うか。