【完結】それでは、ひとつだけ頂戴いたします


「さあ、そろそろお客様が来る時間かしら」

 ロート邸の広間に、まだ客の姿はない。壁に立てかけられた絵と、移動途中の台座がまだ、いくつかまばらに置いてある。そんな中、ルシアンの軽やかな足音が聞こえてきた。


「照明用の魔道具を持ってきたよ」

 ルシアンが腕に抱えているのは、水晶のような核が中に仕込まれている小ぶりの魔道具。


「光量と色味を調整できます。日中用と夕刻用で切り替えも可能です」

「ほう……最近の魔道具は、こんなことまでできるのか」

 説明をするルシアンの手元をロート子爵が、興味深そうに覗き込む。


「ええ。これは絵を照らしますが、邪魔はしません」


 その言葉に、子爵は満足げに頷いた。そして、しばらく考え込むように顎に手をやり、それから、壁に掛けられた一枚の絵を見上げる。


「この絵は夕方の光で見るのが良いな。昼の光だと、建物の輪郭が強くなりすぎる」

「的確ですね」

 ルシアンは感心したように言った。

「はは、分かったふりだ。分からぬなりに、何度も絵を見てきたのだ。買って、掛けて、眺めて……そうしていれば、嫌でも分かった気になる。どうだ、マティアス、合っているだろう?」

 そう言って、今度は別の絵の前に立つ。それを見ているマティアスは苦笑いだ。


「これは、正面から光を当てないほうがいいな。少し斜めだ。ほら、人物の表情が浮かない」

 ルシアンが魔道具を動かし、光の角度を調整する。

「確かに。陰影が落ち着きましたね」

 私はそっと一歩下がり、マティアスに微笑んだ。


「ふふ、お父様のおかげで良い展示会になりそうね」

「はは、お父様の張り切り具合が不安ですけど」



 初日だというのに約束の時間になると次から次へと客が訪れた。


「これが、マティアス・ロートの……」

「聞いていたより、ずっと——」

 言葉は最後まで続かない。人々は絵の前で立ち止まり、声を潜める。港町の朝霧、石畳に落ちる雨、名もなき街角、灯りの消えかけた窓、それらの絵が、皆の言葉を奪う。

 マティアスは広間の端に立ち、落ち着かない様子で人の流れを見ている。声をかけられれば丁寧に応じるが、自分から前に出ることはない。

 そんな彼とは正反対に、ロート子爵は忙しそうに動き回っていた。

 そんな中、ある商人が、給仕の差し出す葡萄酒を片手に、絵の前で足を止めていた。値踏みするような視線は、感動よりも計算が先に立っているように思えた。


「ほう、これはこれは」

 男は口元を歪めて笑う。


「気に入りましたか?」

 ロート子爵が、すかさず声をかける。


「最近、貴族の間で話題になっているそうですね。次の社交期に備えて、話の種になる絵を探していまして」

 そのまま、何気ない調子で続けた。


「正直、絵の内容はよく分かりませんが『マティアスの絵を持っている』という事実が重要でしてな。値は言い値を払いましょう。ですのでどれでも構いません。一番評判の良い絵をいただきたい」

 その瞬間だった。——ガン、と硬い音が響いた。ロート子爵が、手にしていた杖を床に打ちつけたのだ。広間の空気が、一気に張り詰める。


「……貴様」

 低く、抑えた声だが、怒りが煮えたぎっているのが、誰の目にも分かった。


「今、何と言った?」

 男は一瞬たじろぎながらも、すぐに取り繕う。


「ですから、投資として——」

「この絵は、見せびらかすための飾りではない。爵位の箔付けでも、社交界の道具でもない!」


 子爵の声が、雷のように落ちた。周囲の客が息を呑む。慌ててマティアスが、思わず一歩踏み出しかけた。

「分からぬのなら、なおさらだ。分かるまで見るべきだろう、なぜ“どれでもいい”などと言える!」

 子爵は、男を真正面から睨み据える。


「この絵には、描いた者の時間がある。迷いがある。帰れぬ夜があり、待つ灯りがある。それを——己の虚栄のために買うだと?」

 男の顔から、余裕が消えた。


「お、落ち着いてください。そこまで感情的になる必要は——」

「ある!」

 子爵は一歩、前に出た。


「この展示会で絵を買える者は、『絵と向き合った者』だけだ。お前のような者に、ロート家の絵は一枚たりとも渡さん。っ——帰れ!!」

 男は、周囲の視線に耐えきれなくなったように背を向け、足早に広間を去っていった。マティアスは、父の背中を見つめていた。子爵は怒りに震えているのに、私の目にはその背中は、不思議と大きく、頼もしく見えた。きっとマティアスにもそう映っているだろう。


「……お父様」

 マティアスが呼びかけると、子爵は一瞬だけ、ばつの悪そうな顔をして咳払いをする。


「ふん。絵の価値を分からぬ者に、息子の絵を渡すほど……私は、愚かではない」

 その言葉に、マティアスの顔がほころぶ。ロート子爵は、腕を組んだまま一枚の絵の前に立ち、今度は隣にいた初老の紳士へと視線を向けた。


「率直に聞こう。あなたは、この絵のどこが良いと思われる?」

 やや試すような口調だった。子爵の中では、答えはある程度決まっていたのだろう。だが、紳士は少し考え込んだあと、穏やかに首を振った。

「正直に申しますと……技術的なことは、私には分かりません」

 子爵の眉が、ぴくりと動く。

「ただ、この窓の灯りを見ているとある日の帰り道を思い出すのです。若い頃、仕事で遅くなっても家に明かりが灯っているのを見るだけで、胸が軽くなった。そんな気持ちを、久しぶりに思い出しました」

 続いて、若い夫婦が声をかけてきた。


「私たちは、この絵の寂しさが好きです」

「寂しさ?」

「はい。でも、悲しいだけの寂しさじゃないんです。この後にある嬉しさを感じるような寂しさ……だから、温かい」

 別の貴婦人は、小さく微笑んで言った。


「そうね、私はこの絵を見ると、懐かしい感情が、流れ込んでくるわ」

 子爵は、何も言わず黙っていたが、やがてそっと呟いた。


「……そうか。息子の絵はいろいろな見方があるのだな」

 子爵は、静かに息を吐き、初めて来客たちに向かって頭を下げた。


「教えていただいた。ありがとう」

 マティアスは驚いたように目を見開き、そして、少しだけ照れたように笑った。展覧会は、成功ね。そんなことを思いながら、私はそっと、素晴らしい絵の数々に視線を巡らせたのだった。


END