まったく。ママったらそそっかしい。
春休み、おばあちゃんのところへ遊びに行こうってなったんだけど、おばあちゃんはまだお仕事で帰ってきてないからカギを持って家を出てねっていわれたのに、忘れてきちゃったの。
また自宅まで戻るのはつかれちゃうから、わたしはここで待っておくことにしたんだ。
駅前のロータリー。座るところもあるし、今日はぽかぽかとして暖かい。
そのあいだ、携帯型ゲーム機で時間をつぶすことにした。
この春、ようやく買ってもらえた乙女ゲー。江戸を舞台にした恋愛シミュレーションゲームで、わたしの推しは勘平太さん。料理人だから料理を教えてくれるんだけど、わりとおおざっぱで豪快な人。
いまも豆腐田楽を作っていて、火が弱いから持ってるアイテムを放り込んでみなよ、なんていわれている。
燃えるものっていったら、これかな。拾った松ぼっくり。
いっぱいあるし、ひとつ火にくべてみた。
すると、ものすごい火があがっちゃって、ちょっと焦げた豆腐田楽ができちゃった。
イヤホンから心地いい声が聞こえてくる。
『火加減難しいよね。でも味噌が香ばしそうでいいかんじ。アイテムの説明も読んでみてね』
勘平太さんがいうので、アイテム欄をチェックする。
『松ぼっくり・・・松ヤニという樹脂が着いているので燃えやすい。BBQでも、着火剤として有効だよ。乾燥させると効果絶大!』
へぇ。そうなんだ。
ゲームにのめり込んでいたのに突然「うわぁーーーーん」と泣き叫ぶ声がして顔を上げる。イヤホンをも貫き通す大声。
数メートル先で小さな男の子が両手両足を伸ばしてうつ伏せになっていた。
転んだの?
ゲームに夢中で見ていなかったからわからない。でも、周りにいるおとなたちもなんだか平然と通り過ごしている。
イヤホンを取り外す。やっぱり誰も声をかけていない。
駄々をこねているだけかな。
それにしたって、こんなに小さい子なら誰かと一緒のはずなのに、それらしい人がいない。
どうしたらいいか迷っていると、男の子に駆け寄ってくる人影があった。ひざまずいて「だいじょうぶ?」と声をかけている。
この制服って――
みつのき学園の制服だ。わたしもこの春から通う、中高一貫校だった。
しかも、すっごいイケメン。キリッとしてるのに、やさしい声色だから男の子も泣き止んだ。
男の子をひょいと持ち上げて立たせる。
「痛い?」
男の子はなにも答えない。でも、立てるくらいだから骨折まではしてない様子。
「ひとり?」
やっぱりなにも答えない。
男子生徒はあたりをキョロキョロと見渡し、誰かを探しているようだったが――ピタリと、わたしと目が合った。
ドキリとする。イケメンだからって、たしかにそうなんだけど、なんだか怒られそうな気がして、心臓が縮む。わたしもただ見ていただけの人だったから。
その距離から男子生徒は声を上げた。
「ねぇ、きみ。それってスマホ?」
わたしが手に持っている物を指さした。
「いえ、ゲーム機です」
「ケータイは持ってない?」
「ケータイならあります」
「じゃあ、♯9110にかけてどうすればいいか聞いて」
「え……」
どういう暗号だろう。AIが質問に答えてくれるコードみたいな? キッズ携帯でもだいじょうぶかな。
戸惑っていたら、男子生徒はつけくわえた。
「警察相談専用電話だよ。110番通報するほどじゃないときに、どうすればいいか教えてくれるんだ」
なるほど。緊急性はないけど、迷子かもしれない小さい子をどうすればいいか聞いてみるってことかな。近くにお巡りさんがいたら連絡して駆けつけてくれるとか――
そうだ。思い出した。わたしは駅前を指した。
「あそこに、交番ありますよ」
「そっか。じゃあ、オレ行ってくるから、この子たのむ」
次の瞬間には走り出していて、ぽつんと取り残された男の子はすがるようにわたしを見た。
たのむってことは、ここから見ているだけじゃダメだよね。もし道路なんかに飛び出したら、ここからじゃとても間に合わない。
わたしはゲーム機をバッグにしまって男の子のそばまで寄った。
「ケガはない?」
頭から全身を見ていったら、手のひらをすりむいていた。やはり、転んだのだ。
男の子もその視線に気がついたのか、血がにじんでいるのを知るとまた泣き出した。痛いのを思い出したみたい。
「だいじょうぶだよ」
適当なことをいいながら、ポケットからハンカチを取り出してあてがう。
本当はきれいな水で洗い流した方がいいんだけど。
そうだ。交番に水道くらいあるよね。っていうか、ここで待ってるよりこの子を交番に連れて行った方が早いじゃん。
思い立ったそのときだ。
「うちの子になにすんの!」
手をはたかれてハンカチが飛んでいった。男の子は肩口をわしづかみにされて乱暴に引き寄せられていた。
「泣いてるじゃない」
「え……」
わたしのせいじゃないのに。
見上げると女の人が鬼の形相で見ていた。男の子はよろけたものの、その人の足にすがりついている。
母親だろうか。なのに、男の子の心配よりわたしへの怒りが先に立っていた。
「ケガをしていたから……」
「ケガ!?」
そこでようやく女性は子供を引きはがして確認しようとしていたが、自分のホワイトデニムに血の跡があるのを見つけてさらに怒りを増幅させた。
「マジふざけんな」
女性はすべてわたしが悪いと思ってる。自分がどれだけ無責任なのかわかってない。こんなことなら関わらなければよかった。
もう、逃げちゃおうか――
「どうしましたか」
気づいたらお巡りさんが駆けつけていた。
もしかして、わたしとこの女性の間でトラブルが起こったと勘違いしているのかな。わたし、関係ないのに――
女性も悪びれずにわたしをにらんでいる。
「あの子が――」
「ちょっといいですか」
女性が口を開きかけると、お巡りさんといっしょに戻ってきた男子生徒が割って入ってきた。あんまりにもひょうひょうとしているものだから、その女性も面食らっている。
「なによ」
「スマホに夢中になってたんじゃありません?」
女性が手にしていたスマホにみんなの視線が集まる。
女性は隠すように画面を胸に押し当てた。たぶん、画面は表示されたままだ。
「歩きスマホ、危険なだけじゃなくて、自分の子供にも注意を払っていなかったでしょ。転んでも気づかないで行っちゃうなんて。子供が迷子になるところでしたよ」
女性は鼻を膨らませて大きく息を吸い込んだがなにもいえずにいた。ようやく自分に非があると気づいたらしい。
「それから、それ。血液落とすならオキシドールがいいらしいですよ。そのズボンなら色落ちも大丈夫そうだし。あ、知ってるでしょ。やんちゃしてた若いころ、オキシドールで髪を脱色していたこともあるんじゃありません?」
「失礼ね!」
そのまんま大人になってしまったような女性はますます腹を立てていた。けれども分が悪いとわかると、子供の腕をつかんで逃げるように立ち去った。
これで、よかったのかな……
でも、お巡りさんも何事もなかったように帰って行くし、これでよかったのだろう。
男子生徒はやれやれというかんじでハンカチを拾ってくれた。
「はい」
「ありがとうございます……」
ここから、なにか始まるなんてことが……
1秒だけ期待したけど、男子生徒も何事もなかったように立ち去った。
そうだよね。わたし、ただ見ているだけの人だったし。まだまだ子供だし。なんだったら、お母さんは?なんて聞かれちゃうかもだし。
でも、あの男子生徒だってわたしとあまり年が変わらないくらいだよな。しっかりしててえらい。
小学生でも中学生でもない春休みは、こんなふうにぼんやりと過ぎていった。
※ ※ ※
ここは放課後の校舎。
みんなが帰途につくなか、環境委員のわたし、伊呂波楓と、鈴子業平は問題の場所へやってきた。
中学校へ入学して間もないというのに、こんなことに借り出されるなんて。
「なんでわたしがこんなことを」とグチれば「1年だしね」と業平はすでに面倒な役割を受け入れていた。
けれど、わたしは環境委員長から申し渡されて以降、ずっと不満だった。
「1年であることが理由ならそれはパワハラでは?」
「1年A組から順番に仕事を割り振るのかも」
「この1年が終わる前に3年生まで順番が回るように活動しよう」
「その所信表明をみんなに知らせても?」
「やめなさい」
五十メートルはあろうかという長い渡り廊下の二階。そのちょうど真ん中あたり。
業平はかがんだままジッと目の前の壁を見つめていた。
「こんな袋小路に迷い込んだような場所に出没するなんて」
業平がまじめにいうものだから、わたしもまじめにツッコんだ。
「こんな見通しのよい場所を袋小路とはいわないよ。袋のネズミ」
「袋のネズミ。うまいね。ネズミだもん」
業平は興奮したように壁のネズミをなぞった。そうして触った指先を確認している。
「完全に乾いてる」
「でしょうね」
壁に描かれた落書きは昨日の放課後に見つかっている。
それより前に描かれたとあればすでに乾いていて当然だった。
壁の一番下ギリギリのところで、ネズミが走っている様子が描かれている。
その先には壁にぽっかりと開いた穴が描かれていて、そこへ逃げ込もうとしているように見えた。
近ごろ校内で見つかっている落書きは同一人物が書いていると思われた。
共通点はネズミ。黒一色でのペイント。
手のひらにも満たないくらいの大きさで、目立たないところにある。
そして、『バラクシー』のサイン。これはどうやら『バンクシー』という有名なアーティストの名前をもじったらしい。
「これって、アート?」
わたしがなにげなくつぶやくと、業平はそくざに「んなわけない」と答えた。
「アートなら消そうって動きにはならないよ」
「だね」
すでに見つかったいくつかの落書きは消されていた。
はじめは見つけた人が消すことになっていたが、それだと見て見ぬ振りする人が出てきたのだ。
だから、環境委員会の役割になってしまった。
「ペンキなら除光液とかクレンジングオイルが有効らしいけど、これまでの情報によると、油性ではないらしい」
「そうなの? どこでそんなこと」
「インスタだよ。レンジャー部の耳寄りライフハック情報」
さらりといってくるが、わたしは首をかしげた。
ちょっと前に部活動の説明会を先輩たちがしてくれたが、そんな部は記憶になかった。
「レンジャー部? うちの学校にそんなのあったの」
「幽霊部らしいけど」
「幽霊部ってなによ。活動してないってこと?」
「いや、存在してない」
「あやしいじゃん」
ネット上にある素性の知れないものを、やすやすと信用しちゃいけないって、もうそんなの常識だ。
業平はわたしの警戒心にもあまりピンときていないようだった。
「そんなことより、壁の落書きって消えにくいんだから、少しでも簡単に消せる方法があるなら、共有したほうがいいでしょ。だから、伊呂波はこれね」
業平はポケットから取り出したものを差し出した。
ビニールに白い粉が入っている。得体の知れない物は受け取れない。
業平はすぐにわたしの表情をさとった。
「なに?って顔してるね。これはチョークの粉だよ」
「これで落書きを塗りつぶすの?」
「ちがうよ。こすり落としてみるんだ」
わけがわからない。わたしがなにかいおうとするよりも早く業平は口を開いた。
「クレンザーって知ってる? 磨き粉のことなんだけど、炭酸カルシウムっていう固い粒子が含まれていて、こびりついた汚れをこすり落とす効果がある。で、チョークの原料は炭酸カルシウムなんだって。卵の殻とか貝殻とかもそうだけど、まぁ、これでいいよね。ぬれ雑巾にこの粉をつけてこすり落としたら、時短になるんじゃないかってこと」
「それも耳寄り情報? それを信じて学校の備品であるチョークの粉を勝手にすりつぶしたの? そもそもライフハックってなによ」
まくし立てると業平は大げさに肩を落とした。
「えぇ? そこから?」
しかしすぐに背筋を伸ばすと一気にしゃべる。
「ライフハックとは、効率よく作業を進めていくための手法。消防とか自衛隊ではもしものために、サバイバル的な生き抜くすご技を紹介したりしてるね。もはやライフハックはおばあちゃんの入れ知恵みたいな豆知識になってきてるけど」
「おばあちゃんの入れ知恵じゃなくて、知恵袋でしょ。悪口みたいになってる」
「そうそうそれ。ともかく、おれはこっちで試すから」
またポケットからアイテムを取り出した。
「四次元ポケットかよ」
またまたツッコんでしまう。
業平が取り出したのは霧吹きタイプのマジックリンだった。準備万端なのはいいけれど、そんな大きなものまでポケットに仕込んでいたとは。
「コメントにあったんだけどね、プラモデラーのアニキが――」
「え? プロのモデル?」
業平はあきれたように天を仰いだ。
「あのね、よく聞いて。プラモデル。プラスチックのプラモデルを組み立てて、色づけをするんだよ。アクリル樹脂の塗料なら、マジックリンではみ出たところを綿棒なんかでこすれば簡単に落ちるんだって」
「マジックリンって台所の油汚れを落とす洗剤でしょ。そもそもこの落書きってどんな画材を使ってるの」
「いい質問だね」
だれかのセリフをパクっておいて、業平は得意げにいった。
「こいつが模倣しているバンクシーはステンシルっていう手法で描いてるんだ。あらかじめ厚手の紙かなんかにイラストを描いて、切り抜いた型を用意しておく。それを壁に貼り付けて上からスプレー塗料で吹き付けるんだ。そうすればものの1分で絵は完成。それが証拠に……」
業平は壁に描かれたネズミの上部を指した。
古い校舎で汚れているから気づかなかったが、よく見ると黒い細かな点がいくつもあった。
スプレーが広がりすぎて、型からはみ出して余分なところまで吹き付けてしまったようだ。
「水性のアクリル樹脂塗料スプレーを使ってる……らしい」
「レンジャー部情報? ひょっとして、その人が犯人じゃないの」
ジトッと業平を見やると、そんなことはつゆほども思っていなかったらしく、目を見開いた。
「まさか! 自作自演なんてバカバカしい。そんなこといってないで、早いとこやっちまおう」
業平は持参したぬれ雑巾にマジックリンを吹きかけて、黒い穴の方を取りかかった。
わたしも仕方なく用意していたぬれ雑巾に白い粉をつけてネズミをこする。
こすり落とすならタワシとか、ザラザラしたスポンジとか、そっちのほうがいいかもしれない。想像以上に大変な作業だった。
ほどなくして業平が声を上げた。
「うをっ。落ちてきた」
興奮した様子でゴシゴシしている業平の手元を見ると、たしかにこっちよりも絵が溶けてきているようだ。
こちらとはちがい、マジックリンのせいか泡立っていて、その泡が黒く染まっている。
「ねぇ、溶けてるのはいいけど、泡で汚れが広がってない?」
「うわっ。マジだ」
業平が雑巾で泡を拭うと薄い黒ジミが広がった。
「これは想定外!」
あわてて汚れた雑巾でふくもんだから、汚れが他に移ってなかなかきれいにならない。
そんなハプニングがありながらも、どうにか作業を終える。うっすらシミが残っているがしかたない。これ以上は無理だった。
そしてわたしたちは実験が失敗したことに気づく。
落ちることは落ちたけど、試したことが本当に有効であったかを知るには比べないといけない。
チョークをこすりつけたときと、ただの水拭き。
そして、マジックリンとそれ以外の洗剤を使ったとき。
だけど、業平は満足しているようだった。
「どちらにしても、洗剤は塗料を溶かすのには有効みたいだね。泡が立たなければなお良い」
そうだね、どちらにしたって業務は終了した。
※
次の日。登校すると業平と顔を合わせた。
っていうより、待ち構えていたみたいに校門から飛び出してきて、わたしに駆け寄る。
手に持ったスマホをブンブン振って「たいへん!」と騒いでいる。
周りの生徒たちから注目を浴びてはずかしい。
「声が大きいよ」
業平はハッとして周りを見わたすと急に小声になった。
「耳寄り情報、見た?」
「レンジャー部のこと? アカウント知らないし」
「これだよ」
業平はスマホの画面をグイとわたしの目の前に突きつけた。
「近いよ」
わたしは業平の手を押し戻しながら画面を確認した。
「これって、うちの学校じゃない」
学校の裏門だった。
門のすぐそばに青々と茂った大きな木がある。入学式のころは花が咲いていたから、それが桜の木だってことは知っていた。
その桜の木の太い幹がひとつ、根元からボキッと折れていた。
古い木だったのだろうか。
「行ってみよう」
イヤな予感しかない提案に眉をひそめた。
「なんでよ」
「耳寄りライフハック情報によると、燃えるゴミとして市が運営する処理場に持ち込む場合、一辺が三〇センチ以内でなければならない。つまり、この桜の枝も回収してもらうには、三〇センチ以内に切りそろえなければならない」
「それが環境委員会の仕事であるにしても、わたしたちの番は終わったよ。次は1年B組だから」
スマホを持つ手を払いのけて進もうとすると、業平は立ち塞がった。
「今、この情報が届いたんだよ。このインスタの管理人が、今そこに、裏門に! 気になるでしょ」
「別に」
つれない返事をすると業平はあせりだした。
「ひとりで行かせるの? 危なくない?」
「ほら、やっぱりあやしいと思ってるんじゃない。だったら行かなければいい」
「次は伊呂波のいうことをなんでも聞くから」
「なんでも?」
「なんでも」
なんでもとまでいわれては、付き合ってもいいか。
今は特にやってほしいことはないけど、そのときのためにストックしておくのも悪くなかった。
※
裏門にいたのはひとりだけじゃなかった。
先生が数人と生徒も何人か。
先生たちはすでにノコギリを持って折れた木を切り分けていた。
情報通り、大きいままでは処分できないようだ。
「折れた木は処分するんですよね」
桜の木のふもとで先生にたずねている男子生徒がいた。
あの人って……
春休みに出会ったあの人に似ている。
「少しわけてもらってもいいですか」
なにをするつもりなのだろう。
疑問に思いながらも、近づいていってまじまじと見れば、やっぱりカッコよかった。
でも、少し雰囲気が違うように見える。だいいち、学ランの詰め襟についた学年章は「Ⅰ」とあるので、わたしたちと同じ1年生だ。
その男子生徒は三〇センチに切られた幹を先生から受け取り、しげしげとながめている。
「あのう……」
気づけば業平は彼のすぐ背後に回っていた。
彼はびっくりして振り返っている。
なぜだかその様子に業平もびっくりしつつ再び声をかけた。
「なにがあったんですか」
問われて彼は渋い顔をしている。
わたしも話を聞こうとなにげなく近づいていった。
「バラクシーが現れたらしい」
「え? バラクシーって落書きだけじゃなくて、木を折ったりもするんですか」
「そうじゃなくて――」
彼がいうには、きのうの放課後、野球部が練習を終えて片付けているとバットが一本紛失していることに気がついた。
探してみても見つからないから解散したのだけど、ある野球部員が裏門から帰っていたら、桜の木にバットがブランコみたいにぶら下がっているのを見つけた。
そのバットにはネズミの絵が描いてあったらしい。
その野球部員は自撮りしながらふざけてブランコに揺られているうちに、幹が折れてしまったということのようだ。
彼が大けがをして動けなくなっているところを、帰りが遅いと心配した家族に発見され、病院に担ぎ込まれたという。
「もしかしてですけど……」
業平は神妙にいった。
「レンジャー部の方ですか?」
彼はきょとんとしていたが、思い当たることがあったのか、すっごい笑顔で返した。
「ひょっとして、きのう落書き落としの情報くれた人?」
「そうです! 試してみたから報告させてもらいました!」
業平はすっかり彼のファンになっていたようだった。
「おれ、鈴子業平。1年A組。環境委員会。彼女は伊呂波……ええと、なんだっけ?」
「楓です」
好奇心に満ちた彼に見つめられてぺこりと頭を下げる。
続けて彼も自己紹介した。1年D組。更科昌馬。背が高くて、さわやかなイケメン。レンジャー部というナゾの組織にも入りたくなってしまった。
業平はわたしのことも話していたらしい。スポンジのザラッとした固い部分でこするのがよさそうってのは、有益だよねってほめてくれた。
「マジックリンの汚れ落ちよかったのは、界面活性剤のおかげかも」
「なんですか、それ」
よくわからないワードが出てきて業平が聞き返す。
更科くんはスマホで文字を打ち込んでどういう漢字を書くか示しながら教えてくれた。
「界面活性剤ってのは洗剤には必ず含まれていて、汚れをはがして包み込む作用がある。汚れの種類によって効果がある界面活性剤も違うんだろうけど、マジックリンは油だけじゃなくてアクリル塗料とも相性がいいのかも」
「へぇ。詳しいですね」
「ネットで探せば大抵の情報は見つかるけど、それが正しいのかわからないこともあるし、ウソじゃないにしても、有効性がどれほどなのかはほとんど謎じゃない。だから、実際試さないとわかんないだよね。リアルに行動するって大事じゃない?」
「はい。おれら、実行部隊ですから!」
業平はほこらしそうに胸を張った。もうレンジャー部のつもりでいるのかしら。
そんな様子を見て更科くんはくすりと笑った。
「実行部隊っていうと、なんだが軍隊みたいだね」
「レンジャーって、そういうことじゃないんですか。サバイバルっていうか、過酷な環境でも生き抜けろ、みたいな」
「ちがうよ」
更科くんもそういうが、実はわたしも軍隊とはちょっとちがうイメージを持っていた。
「わたしは自然保全みたいなレンジャーだと思ってた。あとはアウトドアとかキャンプとか、自然の中での暮らし方。そういう意味ではやっぱり生き抜く知恵なのかもしれないけど」
なるほどと更科くんはつぶやいた。正解とも不正解ともいわない。
「どちらもちがうの?」
「うん、創始者のおれとしては、戦隊ヒーローのつもりだよ」
意外すぎてわたしも業平も驚く。
まじめな表情から察するに、どうやらそれは冗談ではないらしい。
「だから、リーダーのレッドを名乗ってる。学校に承認されてない幽霊部で部員もひとりきりだけどね」
「レッドって、そういうことだったんですか! 『赤』がつく名前を探してました」
どうやら更科くんはSNSではレッドと名乗っているようだった。
たしかにその名前では身バレしなそう。
「それより、なにするんですか、それ」
わたしも気になっていた桜の幹を業平は指した。
「カッコよくいえばSDGs。竹とか木って、大きく育てていくために間伐するでしょ。混み合ってこないように、間引いていくの。それを割り箸とか再利用するわけだけど、これもさ、捨ててしまうのはもったいないから、試してみたいことがあるんだ」
桜ときいてわたしはピンとひらめいた。
「あ、わかった。桜モチとか?」
「え?」
更科くんは思いっきり戸惑った顔をした。
でも先に業平がつっこむ。
「なんでモチなんだよ。木をくり抜いて臼でも作るつもりか?」
「いやいやそれもあったか。桜モチ。すごいよ伊呂波さん」
え? 本当に桜モチ? どうなるの?
春休み、おばあちゃんのところへ遊びに行こうってなったんだけど、おばあちゃんはまだお仕事で帰ってきてないからカギを持って家を出てねっていわれたのに、忘れてきちゃったの。
また自宅まで戻るのはつかれちゃうから、わたしはここで待っておくことにしたんだ。
駅前のロータリー。座るところもあるし、今日はぽかぽかとして暖かい。
そのあいだ、携帯型ゲーム機で時間をつぶすことにした。
この春、ようやく買ってもらえた乙女ゲー。江戸を舞台にした恋愛シミュレーションゲームで、わたしの推しは勘平太さん。料理人だから料理を教えてくれるんだけど、わりとおおざっぱで豪快な人。
いまも豆腐田楽を作っていて、火が弱いから持ってるアイテムを放り込んでみなよ、なんていわれている。
燃えるものっていったら、これかな。拾った松ぼっくり。
いっぱいあるし、ひとつ火にくべてみた。
すると、ものすごい火があがっちゃって、ちょっと焦げた豆腐田楽ができちゃった。
イヤホンから心地いい声が聞こえてくる。
『火加減難しいよね。でも味噌が香ばしそうでいいかんじ。アイテムの説明も読んでみてね』
勘平太さんがいうので、アイテム欄をチェックする。
『松ぼっくり・・・松ヤニという樹脂が着いているので燃えやすい。BBQでも、着火剤として有効だよ。乾燥させると効果絶大!』
へぇ。そうなんだ。
ゲームにのめり込んでいたのに突然「うわぁーーーーん」と泣き叫ぶ声がして顔を上げる。イヤホンをも貫き通す大声。
数メートル先で小さな男の子が両手両足を伸ばしてうつ伏せになっていた。
転んだの?
ゲームに夢中で見ていなかったからわからない。でも、周りにいるおとなたちもなんだか平然と通り過ごしている。
イヤホンを取り外す。やっぱり誰も声をかけていない。
駄々をこねているだけかな。
それにしたって、こんなに小さい子なら誰かと一緒のはずなのに、それらしい人がいない。
どうしたらいいか迷っていると、男の子に駆け寄ってくる人影があった。ひざまずいて「だいじょうぶ?」と声をかけている。
この制服って――
みつのき学園の制服だ。わたしもこの春から通う、中高一貫校だった。
しかも、すっごいイケメン。キリッとしてるのに、やさしい声色だから男の子も泣き止んだ。
男の子をひょいと持ち上げて立たせる。
「痛い?」
男の子はなにも答えない。でも、立てるくらいだから骨折まではしてない様子。
「ひとり?」
やっぱりなにも答えない。
男子生徒はあたりをキョロキョロと見渡し、誰かを探しているようだったが――ピタリと、わたしと目が合った。
ドキリとする。イケメンだからって、たしかにそうなんだけど、なんだか怒られそうな気がして、心臓が縮む。わたしもただ見ていただけの人だったから。
その距離から男子生徒は声を上げた。
「ねぇ、きみ。それってスマホ?」
わたしが手に持っている物を指さした。
「いえ、ゲーム機です」
「ケータイは持ってない?」
「ケータイならあります」
「じゃあ、♯9110にかけてどうすればいいか聞いて」
「え……」
どういう暗号だろう。AIが質問に答えてくれるコードみたいな? キッズ携帯でもだいじょうぶかな。
戸惑っていたら、男子生徒はつけくわえた。
「警察相談専用電話だよ。110番通報するほどじゃないときに、どうすればいいか教えてくれるんだ」
なるほど。緊急性はないけど、迷子かもしれない小さい子をどうすればいいか聞いてみるってことかな。近くにお巡りさんがいたら連絡して駆けつけてくれるとか――
そうだ。思い出した。わたしは駅前を指した。
「あそこに、交番ありますよ」
「そっか。じゃあ、オレ行ってくるから、この子たのむ」
次の瞬間には走り出していて、ぽつんと取り残された男の子はすがるようにわたしを見た。
たのむってことは、ここから見ているだけじゃダメだよね。もし道路なんかに飛び出したら、ここからじゃとても間に合わない。
わたしはゲーム機をバッグにしまって男の子のそばまで寄った。
「ケガはない?」
頭から全身を見ていったら、手のひらをすりむいていた。やはり、転んだのだ。
男の子もその視線に気がついたのか、血がにじんでいるのを知るとまた泣き出した。痛いのを思い出したみたい。
「だいじょうぶだよ」
適当なことをいいながら、ポケットからハンカチを取り出してあてがう。
本当はきれいな水で洗い流した方がいいんだけど。
そうだ。交番に水道くらいあるよね。っていうか、ここで待ってるよりこの子を交番に連れて行った方が早いじゃん。
思い立ったそのときだ。
「うちの子になにすんの!」
手をはたかれてハンカチが飛んでいった。男の子は肩口をわしづかみにされて乱暴に引き寄せられていた。
「泣いてるじゃない」
「え……」
わたしのせいじゃないのに。
見上げると女の人が鬼の形相で見ていた。男の子はよろけたものの、その人の足にすがりついている。
母親だろうか。なのに、男の子の心配よりわたしへの怒りが先に立っていた。
「ケガをしていたから……」
「ケガ!?」
そこでようやく女性は子供を引きはがして確認しようとしていたが、自分のホワイトデニムに血の跡があるのを見つけてさらに怒りを増幅させた。
「マジふざけんな」
女性はすべてわたしが悪いと思ってる。自分がどれだけ無責任なのかわかってない。こんなことなら関わらなければよかった。
もう、逃げちゃおうか――
「どうしましたか」
気づいたらお巡りさんが駆けつけていた。
もしかして、わたしとこの女性の間でトラブルが起こったと勘違いしているのかな。わたし、関係ないのに――
女性も悪びれずにわたしをにらんでいる。
「あの子が――」
「ちょっといいですか」
女性が口を開きかけると、お巡りさんといっしょに戻ってきた男子生徒が割って入ってきた。あんまりにもひょうひょうとしているものだから、その女性も面食らっている。
「なによ」
「スマホに夢中になってたんじゃありません?」
女性が手にしていたスマホにみんなの視線が集まる。
女性は隠すように画面を胸に押し当てた。たぶん、画面は表示されたままだ。
「歩きスマホ、危険なだけじゃなくて、自分の子供にも注意を払っていなかったでしょ。転んでも気づかないで行っちゃうなんて。子供が迷子になるところでしたよ」
女性は鼻を膨らませて大きく息を吸い込んだがなにもいえずにいた。ようやく自分に非があると気づいたらしい。
「それから、それ。血液落とすならオキシドールがいいらしいですよ。そのズボンなら色落ちも大丈夫そうだし。あ、知ってるでしょ。やんちゃしてた若いころ、オキシドールで髪を脱色していたこともあるんじゃありません?」
「失礼ね!」
そのまんま大人になってしまったような女性はますます腹を立てていた。けれども分が悪いとわかると、子供の腕をつかんで逃げるように立ち去った。
これで、よかったのかな……
でも、お巡りさんも何事もなかったように帰って行くし、これでよかったのだろう。
男子生徒はやれやれというかんじでハンカチを拾ってくれた。
「はい」
「ありがとうございます……」
ここから、なにか始まるなんてことが……
1秒だけ期待したけど、男子生徒も何事もなかったように立ち去った。
そうだよね。わたし、ただ見ているだけの人だったし。まだまだ子供だし。なんだったら、お母さんは?なんて聞かれちゃうかもだし。
でも、あの男子生徒だってわたしとあまり年が変わらないくらいだよな。しっかりしててえらい。
小学生でも中学生でもない春休みは、こんなふうにぼんやりと過ぎていった。
※ ※ ※
ここは放課後の校舎。
みんなが帰途につくなか、環境委員のわたし、伊呂波楓と、鈴子業平は問題の場所へやってきた。
中学校へ入学して間もないというのに、こんなことに借り出されるなんて。
「なんでわたしがこんなことを」とグチれば「1年だしね」と業平はすでに面倒な役割を受け入れていた。
けれど、わたしは環境委員長から申し渡されて以降、ずっと不満だった。
「1年であることが理由ならそれはパワハラでは?」
「1年A組から順番に仕事を割り振るのかも」
「この1年が終わる前に3年生まで順番が回るように活動しよう」
「その所信表明をみんなに知らせても?」
「やめなさい」
五十メートルはあろうかという長い渡り廊下の二階。そのちょうど真ん中あたり。
業平はかがんだままジッと目の前の壁を見つめていた。
「こんな袋小路に迷い込んだような場所に出没するなんて」
業平がまじめにいうものだから、わたしもまじめにツッコんだ。
「こんな見通しのよい場所を袋小路とはいわないよ。袋のネズミ」
「袋のネズミ。うまいね。ネズミだもん」
業平は興奮したように壁のネズミをなぞった。そうして触った指先を確認している。
「完全に乾いてる」
「でしょうね」
壁に描かれた落書きは昨日の放課後に見つかっている。
それより前に描かれたとあればすでに乾いていて当然だった。
壁の一番下ギリギリのところで、ネズミが走っている様子が描かれている。
その先には壁にぽっかりと開いた穴が描かれていて、そこへ逃げ込もうとしているように見えた。
近ごろ校内で見つかっている落書きは同一人物が書いていると思われた。
共通点はネズミ。黒一色でのペイント。
手のひらにも満たないくらいの大きさで、目立たないところにある。
そして、『バラクシー』のサイン。これはどうやら『バンクシー』という有名なアーティストの名前をもじったらしい。
「これって、アート?」
わたしがなにげなくつぶやくと、業平はそくざに「んなわけない」と答えた。
「アートなら消そうって動きにはならないよ」
「だね」
すでに見つかったいくつかの落書きは消されていた。
はじめは見つけた人が消すことになっていたが、それだと見て見ぬ振りする人が出てきたのだ。
だから、環境委員会の役割になってしまった。
「ペンキなら除光液とかクレンジングオイルが有効らしいけど、これまでの情報によると、油性ではないらしい」
「そうなの? どこでそんなこと」
「インスタだよ。レンジャー部の耳寄りライフハック情報」
さらりといってくるが、わたしは首をかしげた。
ちょっと前に部活動の説明会を先輩たちがしてくれたが、そんな部は記憶になかった。
「レンジャー部? うちの学校にそんなのあったの」
「幽霊部らしいけど」
「幽霊部ってなによ。活動してないってこと?」
「いや、存在してない」
「あやしいじゃん」
ネット上にある素性の知れないものを、やすやすと信用しちゃいけないって、もうそんなの常識だ。
業平はわたしの警戒心にもあまりピンときていないようだった。
「そんなことより、壁の落書きって消えにくいんだから、少しでも簡単に消せる方法があるなら、共有したほうがいいでしょ。だから、伊呂波はこれね」
業平はポケットから取り出したものを差し出した。
ビニールに白い粉が入っている。得体の知れない物は受け取れない。
業平はすぐにわたしの表情をさとった。
「なに?って顔してるね。これはチョークの粉だよ」
「これで落書きを塗りつぶすの?」
「ちがうよ。こすり落としてみるんだ」
わけがわからない。わたしがなにかいおうとするよりも早く業平は口を開いた。
「クレンザーって知ってる? 磨き粉のことなんだけど、炭酸カルシウムっていう固い粒子が含まれていて、こびりついた汚れをこすり落とす効果がある。で、チョークの原料は炭酸カルシウムなんだって。卵の殻とか貝殻とかもそうだけど、まぁ、これでいいよね。ぬれ雑巾にこの粉をつけてこすり落としたら、時短になるんじゃないかってこと」
「それも耳寄り情報? それを信じて学校の備品であるチョークの粉を勝手にすりつぶしたの? そもそもライフハックってなによ」
まくし立てると業平は大げさに肩を落とした。
「えぇ? そこから?」
しかしすぐに背筋を伸ばすと一気にしゃべる。
「ライフハックとは、効率よく作業を進めていくための手法。消防とか自衛隊ではもしものために、サバイバル的な生き抜くすご技を紹介したりしてるね。もはやライフハックはおばあちゃんの入れ知恵みたいな豆知識になってきてるけど」
「おばあちゃんの入れ知恵じゃなくて、知恵袋でしょ。悪口みたいになってる」
「そうそうそれ。ともかく、おれはこっちで試すから」
またポケットからアイテムを取り出した。
「四次元ポケットかよ」
またまたツッコんでしまう。
業平が取り出したのは霧吹きタイプのマジックリンだった。準備万端なのはいいけれど、そんな大きなものまでポケットに仕込んでいたとは。
「コメントにあったんだけどね、プラモデラーのアニキが――」
「え? プロのモデル?」
業平はあきれたように天を仰いだ。
「あのね、よく聞いて。プラモデル。プラスチックのプラモデルを組み立てて、色づけをするんだよ。アクリル樹脂の塗料なら、マジックリンではみ出たところを綿棒なんかでこすれば簡単に落ちるんだって」
「マジックリンって台所の油汚れを落とす洗剤でしょ。そもそもこの落書きってどんな画材を使ってるの」
「いい質問だね」
だれかのセリフをパクっておいて、業平は得意げにいった。
「こいつが模倣しているバンクシーはステンシルっていう手法で描いてるんだ。あらかじめ厚手の紙かなんかにイラストを描いて、切り抜いた型を用意しておく。それを壁に貼り付けて上からスプレー塗料で吹き付けるんだ。そうすればものの1分で絵は完成。それが証拠に……」
業平は壁に描かれたネズミの上部を指した。
古い校舎で汚れているから気づかなかったが、よく見ると黒い細かな点がいくつもあった。
スプレーが広がりすぎて、型からはみ出して余分なところまで吹き付けてしまったようだ。
「水性のアクリル樹脂塗料スプレーを使ってる……らしい」
「レンジャー部情報? ひょっとして、その人が犯人じゃないの」
ジトッと業平を見やると、そんなことはつゆほども思っていなかったらしく、目を見開いた。
「まさか! 自作自演なんてバカバカしい。そんなこといってないで、早いとこやっちまおう」
業平は持参したぬれ雑巾にマジックリンを吹きかけて、黒い穴の方を取りかかった。
わたしも仕方なく用意していたぬれ雑巾に白い粉をつけてネズミをこする。
こすり落とすならタワシとか、ザラザラしたスポンジとか、そっちのほうがいいかもしれない。想像以上に大変な作業だった。
ほどなくして業平が声を上げた。
「うをっ。落ちてきた」
興奮した様子でゴシゴシしている業平の手元を見ると、たしかにこっちよりも絵が溶けてきているようだ。
こちらとはちがい、マジックリンのせいか泡立っていて、その泡が黒く染まっている。
「ねぇ、溶けてるのはいいけど、泡で汚れが広がってない?」
「うわっ。マジだ」
業平が雑巾で泡を拭うと薄い黒ジミが広がった。
「これは想定外!」
あわてて汚れた雑巾でふくもんだから、汚れが他に移ってなかなかきれいにならない。
そんなハプニングがありながらも、どうにか作業を終える。うっすらシミが残っているがしかたない。これ以上は無理だった。
そしてわたしたちは実験が失敗したことに気づく。
落ちることは落ちたけど、試したことが本当に有効であったかを知るには比べないといけない。
チョークをこすりつけたときと、ただの水拭き。
そして、マジックリンとそれ以外の洗剤を使ったとき。
だけど、業平は満足しているようだった。
「どちらにしても、洗剤は塗料を溶かすのには有効みたいだね。泡が立たなければなお良い」
そうだね、どちらにしたって業務は終了した。
※
次の日。登校すると業平と顔を合わせた。
っていうより、待ち構えていたみたいに校門から飛び出してきて、わたしに駆け寄る。
手に持ったスマホをブンブン振って「たいへん!」と騒いでいる。
周りの生徒たちから注目を浴びてはずかしい。
「声が大きいよ」
業平はハッとして周りを見わたすと急に小声になった。
「耳寄り情報、見た?」
「レンジャー部のこと? アカウント知らないし」
「これだよ」
業平はスマホの画面をグイとわたしの目の前に突きつけた。
「近いよ」
わたしは業平の手を押し戻しながら画面を確認した。
「これって、うちの学校じゃない」
学校の裏門だった。
門のすぐそばに青々と茂った大きな木がある。入学式のころは花が咲いていたから、それが桜の木だってことは知っていた。
その桜の木の太い幹がひとつ、根元からボキッと折れていた。
古い木だったのだろうか。
「行ってみよう」
イヤな予感しかない提案に眉をひそめた。
「なんでよ」
「耳寄りライフハック情報によると、燃えるゴミとして市が運営する処理場に持ち込む場合、一辺が三〇センチ以内でなければならない。つまり、この桜の枝も回収してもらうには、三〇センチ以内に切りそろえなければならない」
「それが環境委員会の仕事であるにしても、わたしたちの番は終わったよ。次は1年B組だから」
スマホを持つ手を払いのけて進もうとすると、業平は立ち塞がった。
「今、この情報が届いたんだよ。このインスタの管理人が、今そこに、裏門に! 気になるでしょ」
「別に」
つれない返事をすると業平はあせりだした。
「ひとりで行かせるの? 危なくない?」
「ほら、やっぱりあやしいと思ってるんじゃない。だったら行かなければいい」
「次は伊呂波のいうことをなんでも聞くから」
「なんでも?」
「なんでも」
なんでもとまでいわれては、付き合ってもいいか。
今は特にやってほしいことはないけど、そのときのためにストックしておくのも悪くなかった。
※
裏門にいたのはひとりだけじゃなかった。
先生が数人と生徒も何人か。
先生たちはすでにノコギリを持って折れた木を切り分けていた。
情報通り、大きいままでは処分できないようだ。
「折れた木は処分するんですよね」
桜の木のふもとで先生にたずねている男子生徒がいた。
あの人って……
春休みに出会ったあの人に似ている。
「少しわけてもらってもいいですか」
なにをするつもりなのだろう。
疑問に思いながらも、近づいていってまじまじと見れば、やっぱりカッコよかった。
でも、少し雰囲気が違うように見える。だいいち、学ランの詰め襟についた学年章は「Ⅰ」とあるので、わたしたちと同じ1年生だ。
その男子生徒は三〇センチに切られた幹を先生から受け取り、しげしげとながめている。
「あのう……」
気づけば業平は彼のすぐ背後に回っていた。
彼はびっくりして振り返っている。
なぜだかその様子に業平もびっくりしつつ再び声をかけた。
「なにがあったんですか」
問われて彼は渋い顔をしている。
わたしも話を聞こうとなにげなく近づいていった。
「バラクシーが現れたらしい」
「え? バラクシーって落書きだけじゃなくて、木を折ったりもするんですか」
「そうじゃなくて――」
彼がいうには、きのうの放課後、野球部が練習を終えて片付けているとバットが一本紛失していることに気がついた。
探してみても見つからないから解散したのだけど、ある野球部員が裏門から帰っていたら、桜の木にバットがブランコみたいにぶら下がっているのを見つけた。
そのバットにはネズミの絵が描いてあったらしい。
その野球部員は自撮りしながらふざけてブランコに揺られているうちに、幹が折れてしまったということのようだ。
彼が大けがをして動けなくなっているところを、帰りが遅いと心配した家族に発見され、病院に担ぎ込まれたという。
「もしかしてですけど……」
業平は神妙にいった。
「レンジャー部の方ですか?」
彼はきょとんとしていたが、思い当たることがあったのか、すっごい笑顔で返した。
「ひょっとして、きのう落書き落としの情報くれた人?」
「そうです! 試してみたから報告させてもらいました!」
業平はすっかり彼のファンになっていたようだった。
「おれ、鈴子業平。1年A組。環境委員会。彼女は伊呂波……ええと、なんだっけ?」
「楓です」
好奇心に満ちた彼に見つめられてぺこりと頭を下げる。
続けて彼も自己紹介した。1年D組。更科昌馬。背が高くて、さわやかなイケメン。レンジャー部というナゾの組織にも入りたくなってしまった。
業平はわたしのことも話していたらしい。スポンジのザラッとした固い部分でこするのがよさそうってのは、有益だよねってほめてくれた。
「マジックリンの汚れ落ちよかったのは、界面活性剤のおかげかも」
「なんですか、それ」
よくわからないワードが出てきて業平が聞き返す。
更科くんはスマホで文字を打ち込んでどういう漢字を書くか示しながら教えてくれた。
「界面活性剤ってのは洗剤には必ず含まれていて、汚れをはがして包み込む作用がある。汚れの種類によって効果がある界面活性剤も違うんだろうけど、マジックリンは油だけじゃなくてアクリル塗料とも相性がいいのかも」
「へぇ。詳しいですね」
「ネットで探せば大抵の情報は見つかるけど、それが正しいのかわからないこともあるし、ウソじゃないにしても、有効性がどれほどなのかはほとんど謎じゃない。だから、実際試さないとわかんないだよね。リアルに行動するって大事じゃない?」
「はい。おれら、実行部隊ですから!」
業平はほこらしそうに胸を張った。もうレンジャー部のつもりでいるのかしら。
そんな様子を見て更科くんはくすりと笑った。
「実行部隊っていうと、なんだが軍隊みたいだね」
「レンジャーって、そういうことじゃないんですか。サバイバルっていうか、過酷な環境でも生き抜けろ、みたいな」
「ちがうよ」
更科くんもそういうが、実はわたしも軍隊とはちょっとちがうイメージを持っていた。
「わたしは自然保全みたいなレンジャーだと思ってた。あとはアウトドアとかキャンプとか、自然の中での暮らし方。そういう意味ではやっぱり生き抜く知恵なのかもしれないけど」
なるほどと更科くんはつぶやいた。正解とも不正解ともいわない。
「どちらもちがうの?」
「うん、創始者のおれとしては、戦隊ヒーローのつもりだよ」
意外すぎてわたしも業平も驚く。
まじめな表情から察するに、どうやらそれは冗談ではないらしい。
「だから、リーダーのレッドを名乗ってる。学校に承認されてない幽霊部で部員もひとりきりだけどね」
「レッドって、そういうことだったんですか! 『赤』がつく名前を探してました」
どうやら更科くんはSNSではレッドと名乗っているようだった。
たしかにその名前では身バレしなそう。
「それより、なにするんですか、それ」
わたしも気になっていた桜の幹を業平は指した。
「カッコよくいえばSDGs。竹とか木って、大きく育てていくために間伐するでしょ。混み合ってこないように、間引いていくの。それを割り箸とか再利用するわけだけど、これもさ、捨ててしまうのはもったいないから、試してみたいことがあるんだ」
桜ときいてわたしはピンとひらめいた。
「あ、わかった。桜モチとか?」
「え?」
更科くんは思いっきり戸惑った顔をした。
でも先に業平がつっこむ。
「なんでモチなんだよ。木をくり抜いて臼でも作るつもりか?」
「いやいやそれもあったか。桜モチ。すごいよ伊呂波さん」
え? 本当に桜モチ? どうなるの?



