初恋は、終電の先に

 まあ、当たり前っちゃ当たり前なんだけど。

 土曜の昼過ぎに目が覚めたとき、私はちゃんと山田先輩に会ったことを覚えていた。


「えーん、忘れさせてよ……」


 ベッドの中でしばらく頭を抱えて悶えたあと、ため息まじりにスマホを充電器から外した。

 ニャインのアイコンをタップすると、一番上に「なおや」と先輩の名前が表示されていた。


「マジか、夢じゃなかった……夢なのに、夢じゃなかったか……」


 目を閉じた。

 三十秒数えてからもう一度目を開き、スマホの電源を切った。


 ベッドから起きて顔を洗って歯を磨いて、そのまま無心で洗濯機を回した。

 カーテンを開けて窓も開けると、ベランダから春のやわらかい匂いを含んだ風が、ふわっと部屋に流れ込んできた。

 どこからか子どもがはしゃぐ声が聞こえてきて、空には白い雲がのんびりと流れている。


 ……先輩も、この景色見てるのかな。そう思って、スマホの電源を入れ直して、空の写真を一枚撮った。

 ニャインを開くと、トーク画面の一番上には、やっぱり「なおや」と名前が表示されていた。

 アイコンは本の写真だ。

 ……高校のとき、先輩がお気に入りだって言ってたSF小説の文庫版。もちろん私も買って何度も読んだし、最近は手に取ってなかったけど、まだ本棚にそのまま入ってる。


 どうしよう。

 いや、どうもこうもないんだけどさ。

 ベッドの横に立ち尽くしたまま、私はスマホをじっと見つめていた。

 カーテンはまだ風に揺れて、ふわりと広がっている。

 先輩の名前に触れると、トーク画面には昨晩送られてきたスタンプがひとつだけ、ぽつんと表示されていた。


「私、返事してなかったな」


 どうしよう、何か返したほうがいいかな。

 いや、今さらかなって気もする。

 でも、今何か送ったら先輩は気付いてくれるだろうか。

 ……返事、くれたりするのかな。


「……っ」


 洗濯機が鳴った。

 びくっとしてスマホを放り出し、そのまま洗濯物を干しに行く。

 ひとまず保留しよう。

 そうやってあの頃も何もできずに終わった気がするけど、とにかく今は全部、棚上げすることにした。



 洗濯と掃除を終えて、買い物に出た。

 三月の終わりは、なんとなく空気が浮かれていて、街全体がふわっと春めいている。

 平日は早朝か深夜にしか出歩かないから、こうして太陽が出ているうちに歩くのはやっぱり気分がいい。


 あちこちで桜並木がひらひらと花びらを踊らせているし、花壇にはチューリップやたんぽぽ、それに名前のわからない花まで、色とりどりに咲いていた。

 近くで老夫婦が写真を撮っていて、なんとなくつられて私も何枚か撮ってみた。

 気づけば写真フォルダが春色に染まっていた。……卒業式の日に先輩と撮ってもらった写真は、どこにいったんだろう。

 高校の図書室で撮ったから、春もなにもないはずなんだけど。


 せっかくだし駅ビルまで歩いて、新しいマニキュアと口紅を衝動買いして、夜ごはんと朝ごはんを買って、そのまま家に帰った。

 洗濯物を片付けてカーテンを閉めていると、なんだかちゃんとした社会人になれたみたいな気がする。

 本当は十年前の失恋をまだ引きずって、好きな人の一人もできずにいる、湿っぽい女なのに。

 浴槽に温めのお湯を張った。お風呂が沸くまでのあいだに、買ってきた桜色のマニキュアを、はみ出さないようにそっと塗った。


 お風呂にゆっくり浸かるなんて、いつぶりだろう。

 我ながら浮かれている。

 別に、先輩にまた会うかもしれないから綺麗にしておこうとか、そういうつもりじゃない。

 断じて、ない。

 あれはきっと春の夢で、なんやかんやでなかったことになる。もしくは社交辞令。きっとそうだ。

 そうじゃなかったら……。

 体を、いつもの倍くらいの時間をかけて丁寧に洗った。

 湯船にぶくぶく沈みながら、スマホで全然面白くない恋愛ドラマをぼんやり眺めて、風呂から上がった。


 髪を乾かして買ってきた晩ごはんを食べて、それから本棚の奥底にしまってあった、先輩のアイコンになっている本を引っ張り出してきた。

 ベッドに寝転がって、ぱらぱらとページをめくる。

 書いてある内容なんて全然頭に入ってこなくて、先輩と過ごした十年前の、たった一年間の思い出ばかりが、走馬灯みたいに流れていくだけだった。